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「眠れない夜」Seazon2 20年の恋、彼とSMの女王様、タロットの恋人たち

あらすじ

 web編集長の小夜子(39歳)は団体職員の正幸(59歳)と事実婚。小夜子は20年前の夏の正幸との素晴らしい思い出を今でも忘れられない。
 だが正幸が還暦近くになると二人の関係に変化が生じる。小夜子は奉仕のセックスを試みるのだが、彼はそれを拒否し、いつしかセックスレスに。しかも正幸は別れた元妻にも会っている。「男と女の関係じゃないから」という正幸に、小夜子は釈然としないが許している。
 ある夜、ふとしたことから正幸のスマホを覗くと、そこにはSMの女王様にかしづく正幸の姿が。衝撃を受けた小夜子はある決心をする。

※トップ画面の「薔薇」photo:Yumika

第一章 20年来の恋人の秘密


photo:Yumika

夢には続きがある。
目覚めると、しゃらしゃらしゃらと、静かにカードをシャッフルする音がする。まるで呟きに似ている。
テーブルでカードを切って並べているのはつばの広い帽子を被っている知らない人だ。男か女かもわからない。タロットカードをテーブルに並べてカードをめくっている。
私は起き上がってテーブルに近づく。楕円のような配置で並ぶ複数のカードのうち、真ん中のカードに視線が引きつけられる。
裸体の男女が手を取り合うカードの頭上には天使が両手を広げて祝福してい
その瞬間、とろけそうな歓喜を象徴するカードが突然宙に浮き、私に向かってくる。帽子の人が投げつけたのだ。
とっさにカードを掴みかけようとすると突然目の前がぱっと明るくなって、私は眩しさのあまりカードを取り損ねてしまった………

はっと目が覚めた小夜子は、まだ頭がぼうっとしていた。そっと起き上がると、隣のベッドが空になっている。
寝室のドアが少し空いていた。ドアを開けて部屋を出る。正幸はどこにいるのだろう。
まるで夢の続きのような錯覚に襲われて、小夜子は踊り場の電気をつけた。マンションの2階の階段の手すりにしがみつきながら階下に降りていく。
「正幸」と呼んだが答えは返ってこない。
危篤だった母が一命を取り戻して、少し気が抜けたのは先週の出来事だった。奔放に生きてきた母を、死をもってやっと許せるかもしれないという淡い期待を「縁起でもない」と母から無言で一笑されそうな気がしたことを、正幸に話したかった。どこにいるのだろう、正幸は。
正幸だけには奔放な母に振り交わされていた家族のことを話していた。正幸は「お母さんは自分に嘘をつけないんだ。素直なんだよ」「でも小夜子は偉いね。お母さんから逃げないからね」とそのたびに慰めてくれた。長い間家族を振り回してきた母から教えてもらったことがある。
好き勝手に生きている人はしぶとい。しぶとく強く生き抜けるから生命力があふれ出て、周囲を巻き込み、さらに好きなように生きていける。勝手に生きたものこそ勝者だといわんばかりに。
「正幸」
小夜子がもう一度彼の名前を呼んだ。だが返事が返ってくることはなかった。

「あ、いけない」
 ハンドルを握っていた正幸が、ふいに大きな声を挙げた。
「どうしたの」
 助手席の小夜子はアイフォンから流れるカーペンターズの「イエスタディ ワンス モア」のサビの部分の「シャラララー」をハモりながら、正幸の横顔を覗き込んだ。もみあげの部分に白髪が少し混じっている。20年来の恋人は白髪も、目じりのしわも増えてきた。正幸はもうすぐ60歳になる。
「スマホをうちに忘れてきちゃった」
 急いでUターンをしたせいで、車が大きく横揺れする。「シャラララー」のあとの曲を中断した小夜子は前のめりになった体を起こしながら「家に戻るの」と正幸に尋ねた。
「うん」と返事より先に、車はスピードを上げる。正幸の父親が亡くなる前に譲り受けたというセダンの中古車は、スピードを上げるとさらに振動が響く。「ポンコツ車」と心の中で呟きながら小夜子はシートベルトを握り締めた。温厚な正幸の運転はいつも安全だが、感情的になると別人のように突っ走る。スマホを忘れた正幸の慌てぶりは、普通ではないと感じた。
「これから家に戻ってからだと、ディナーの予約時間に遅刻してしまうわ」
と思わず口を尖らすと
「ホテルに電話してよ。遅刻はせいぜい2時間ぐらいだから」と正幸。
「2時間も遅刻って、、、キャンセルさせられるかも」
「それなら、弁当でも買っていくか」
 正幸はアクセルを踏み続ける。何が何でも家に戻るぞという意気込みだけが、ひしひしと伝わる。
「キャンセルだなんて、もったいない。あのホテルのディナーはヘルシーで美味しいって有名なのよ。インスタでも凄い人気なんだから」
 そう言いながら、小夜子はホテルに電話をする。正幸は一度言い出したら取り消すことなど滅多にない。20年前から変わらない正幸の性格だ。
「彼が忘れ物を取りに自宅に戻ると言いまして、ディナーの時間に遅れてしまいそうです。予約をしています。どうしたらいいでしょうか」
 2時間も遅刻する客は嫌われると危惧した小夜子は丁寧な口調でお願いした。入社すぐの研修先の飲食店で、スタッフとして働きながら体で覚えた教訓だ。でもその教訓が正幸の一存で役に立たなくなっていくことに苦々しさを覚えた。
「もしディナーが無理なら、何か温かい食事を作っていただきたいのですが、よろしいですか」。叶わないかもしれないが、小夜子は頭を下げる。すると電話の相手は優しい口調で答えた。
「わかりました、お待ちしましょう」
大和という支配人があっさり承諾してくれる。「え?本当ですか」と小夜子の声は嬉しさのあまり自然に高音になっていった。
「いいですよ。ただ温泉施設の営業時間の関係で、温泉にはゆっくりできないかもしれませんね」
 ホテルの近くにある温泉施設を宿泊者割引料金で使用できるのも、人気の一つだった。小夜子は何度もお礼を述べてから電話を切って、ドライバーに語りかけた。
「正幸、2時間遅れても待ってくれるそうよ。でもディナーの後の温泉は営業時間の関係でゆっくりできないかもしれないって」と言いかけて、はっと息をのんだ。暗い表情の正幸の顔が窓から降り注ぐ夕方の光に照らされていた。話しかけられないような雰囲気が漂っていたのは、外部を遮断して自分の世界に没頭していたからだと、小夜子は後で気づいた。


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 正幸と出会ったのは、小夜子が19歳の夏だった。「大学一年生の夏に女は変わる」と大学のサークルの先輩から呪文のような言葉を繰り返し聞かされているうちに、次第に期待がふくらんでいった。
 初体験は高校の時にとっくに済ませていた。特に好きな人がいたわけではないが、男を知らないのはまるで鎖に繋がれている囚人のようだった。バージンという重たい鎖を解いて早く楽になりたい。重い鎖から解放されることを望んでいたことを今でも覚えている。
 高校2年の終わりに、特に好きではないクラスメートの男子からデートに誘われた。3年になると進学クラスと一般クラスに分かれ、小夜子は進学を選んだが、その男子は一般だった。17歳で人生のコースが決まることにやるせなさがあったせいかもしれない。また3年生になるとクラスが分かれて今のクラスメートと会えなくなるというセンチメンタルな気持ちも手伝っていたのかもしれない。小夜子はあまり深く考えずにその男子生徒とデートをして一緒にラブホテルに入り、重い鎖を解いた。少し痛かったが、終わってみると「こんなものなの」とあきれるほどあっけなかった。感動のないセックスを後悔しながら、けだるい体を引きずってシャワーを浴びるために起き上がったときだった。
「君はもう知っていたんだ」と男子学生は吐き捨てるように言葉を投げかけてから目を閉じた。出血しなかったことを言っているのだろう。
「違うわ、初めてなの。本当よ」と小夜子は振り返ったが、男子学生は無言のままだった。
「信じてくれないのね」とがっくりと肩を落としてベットに爪を立てると、男子学生が起き上がって小夜子の手首をつかんだ。
「猫みたいなこと、するなよ。先にシャワー浴びてきて」と少しムキになる。
「猫、嫌いなの」と彼の横顔に尋ねると、「うん」と言ったきり、目を開けようとしなかった。小夜子が男子生徒の閉じた瞼に指を乗せると小刻みな震えを感じたので「爪、立てないから」と言って小夜子はシャワールームに向かった。
 初体験の男子生徒とはそれきりだ。

 初体験についてあれこれ考える暇はなかった。高校3年生の春に、母が他の家庭の男性と家出をした。家に頻繁に相手の妻がやってきて応接室で父親とひそひそと話し込んでいる。そのたびに、小夜子は自分の部屋で息をひそめていた。自分が悪いことをしたわけでもないのに、足ががくがくと震えたこともある。
 だが父は5歳下の弟のことだけを心配していた。弟を祖母の家に預かってもらったのも、情緒不安定にならないためにという思い遣りからだった。弟を祖母の家に送り届けて帰宅した父の安堵した表情を、小夜子はいまだに鮮明に覚えている。自分を心配をしてくれない父親に苛立ちと悲しさを覚えたが、だが父のショックを考えると、小夜子は自分の気持ちを言いそびれてしまった。父と二人だけの家で、自分の気持ちを押し殺しながら我慢の日々が続く。
 そんなうすら寒い家から逃げるように、小夜子は電車で片道一時間以上かかる予備校に通い、すぐにバイトの大学生と付き合うようになった。だが普通の家庭に育ってのんびりと生きている大学生の彼に、自分の寂しさを理解してもらえないことがわかると小夜子は失望して別れた。
 それからはかなり年上の男性といくつかの恋をしたが、母を巡る家族のことを打ち明けられなかったため、表面的な関係に飽きると別れを繰り返していた。
 

 母が他の家の男と家出をしてから1年経った19歳の夏に、小夜子は湘南の別荘で正幸に微笑んだ。20歳年上の正幸には、心の中にあるわだかまりを素直に吐き出せせたからだ。優しく抱きしめてくれた正幸に、小夜子はやっと幸せになれると思ったが、彼は妻帯者だった。
 最初からいつか別れがやってくるという恋の重みに耐え切れなくて、女子大生の小夜子は他の男性とも付き合っていた。年上の男性たちはいつも優しかった。ちやほやしてくれ、もてなしてくれ、そして願い事をほとんど叶えてくれた。正幸が離婚して小夜子と一緒に暮らすまでの間、彼女の心のバランスをかろうじて保ってくれた男たちに小夜子は心から感謝している。
 だが年上男性と関係が長く続くと、必ず大きな壁にぶち当たる。それは彼が男として枯れていくことだ。小夜子がそのことに気づいたのは、正幸が60歳前からEDの兆候が出始めてからだった。愛する男と歓喜の瞬間を共有できなくないという苦痛が小夜子の心を押しつぶしていきそうになると、人生で初めて恋愛について、恋人との関係について小夜子は深く悩むようになった。


 ホテルのレストランに用意されたディナーは想像以上に素晴らしく、正幸との会話も自然に弾んだ。オーナーが栽培したオーガニック野菜やフルーツ、地元産の牛肉を使った創作料理の数々はどれも絶品でインスタ映えし、アップするやいなや、続々と「いいね!」される。
 新卒でエンタメ企業に入社して15年近く勤務した頃にWebの編集長に就任した。とくに優秀でもなかった自分が肩書と責任のあるポストに就いたのは、優秀な人材が次々に転職して、残った自分にポストが回ってきたと思っている。Webのアクセス数がダウンするとクライアントから広告を撤退されるという不安を常に抱えていても、編集長というポストは魅力的だった。
  編集長の仕事を通じて食などライフスタイルの華やかな写真や動画をアップしていると、インスタのフォロワー数が1年も経たないうちに3万人以上を超えたときはまるで嘘のように感じられた。インスタのフォロワー数の推移はまるで人生みたいだ、と小夜子は思う。誰からも相手にされなければ人生は孤独でつまらない。SNSはそれを象徴していた。

 インスタをアップしてから正幸と腕を組んで部屋に戻ると、浴衣に着替えた正幸がフロントに電話をかけて、近くの温泉施設の営業時間を確認してからバスタオルとスマホを手に取る。
「温泉に行くの」
 オーガニックコットンの枕に頭をのせたまま、ふかふかの羽毛布団の上でスマホをいじっていた手を止めて、自分を誘わずにいそいそと出かけようとする正幸に小夜子は戸惑った。
「うん、今なら貸し切りの露天風呂が空いているっていうから」
「貸し切りって、混浴なの」
「貸し切りは男湯にある露天だよ」
「待って。私も行くから」
 急いで起き上がった小夜子が「浴衣にえるまで待ってね」とブラウスを脱ぎ始めると、「早くしてよ」と正幸は少し不機嫌そうにスマホをいじる。温泉にまでスマホを持っていく正幸の気が知れない。まるで女を連れ込むみたいだ。
「まさかね」
 思わず小夜子は苦笑した。女を露天の個室に連れ込むなんてすごい妄想だ。前日にチェックした恋愛コラムの原稿のせいかもしれない。
 会社の販促チームからオウンドメディア部の編集長に就任してから、これまで読んだことのない掲載の恋愛コラムをチェックしているうちに、自分が恋愛に関してあまり興味がなかったことを思い知らされた。既婚者の正幸と恋愛を続けることが辛くなると、精神安定剤のつもりで別の男性とも付き合っていた小夜子は、恋に悩んだ記憶が特に思い当たらないのだ。きっと悩みたくなかったからだろう。母のように。

 出会った頃は正幸と結婚したいという願望がなかったが、妻と別れた正幸と10年前から同棲するようになると二人の間に特に結婚の話題がないため、事実婚のままだ。離婚の原因は子供を望んでいた妻と、望まなかった正幸の間に夫婦のズレが生じたと正幸から聞いている。二人の間に割り込んだ自分は悪くない、夫婦の問題だったと思いたかったが、心のどこかで罪悪感もある。そのため正幸がEDになってからたまに元妻に会っていることを知ってもショックを受けるどころか、少しホッとしたものだ。枯れてしまった正幸と精神的な繋がりがあるのは自分だけだと、小夜子は自分自身に言いきかせている。
「お待ちどうさま」
 浴衣に着替えた小夜子が、正幸の腕に自分の腕を絡ませると、正幸は慌ててスマホをタオルの中に隠した。サイレントモードにしているせいで、受信を告げる小刻みな振動が伝わる。誰かとやり取りをしていたのだろうか。タオルを握り締めた正幸が「早く行こう」と小夜子を促した。


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 アメリカのナパ・ヴァレーでも有名なカベルネの産地「ラザフォード」のカベルネ・ソーヴィニョンを二人で空けると、「温泉で体が温まったからアルコールの回りが早いよ」と正幸は早々にベッドに横になった。
 旅行を楽しむために正幸がワイン専門の通販からからラザフォード産を選び、当日の朝に小夜子を悦ばせた。出会った頃から正幸は小さいサプライズをしてくれる。だから彼に飽きることはないと小夜子は正幸のベッドに近寄って、浴衣から少しはみ出ている正幸の脚をさすった。乾燥しがちな皮膚だが、温泉のおかげで少し湿気を帯びていた。薄毛がまだらになっているのは加齢のせいかもしれない。さすっているうちに徐々に腿に移動し、そしてパンツの脇から小夜子がこれまで何度も愛した性器に触れた。

 ふにゃりとした小さな軟体動物は彼に棲みついてしまっているようだった。温泉の湯に浸かったせいで皮膚はさら縮こまっている。これまで何度も小夜子を悦ばせてくれた彼の性器に棲みついてしまった軟体動物に支配されているような錯覚を覚え、ワインの酔いも手伝って、小夜子は正幸の性器を口にくわえてからゆっくりと口の中で転がした。そして舌を這わせ、愛しむように徐々に愛撫を繰り返した。だが軟体動物はぴくりとも動かない。それどころかますます縮こまっていく。
「もう、いいよ」と正幸が小夜子の舌を拒んだ。「だめなんだよ、何度やっても」と、はだけた浴衣にしまい込もうとする。「だから私がするから」と小夜子が欲しがっていることを全身で彼に訴えようとして、彼にしがみつく。だが「もう休もう」と彼はやんわりと小夜子が抱擁する手を払いのけた。
 数年前のある夜に正幸が突然EDになってから、小夜子が献身的なセックスを試みたが、そのたびに正幸が拒むという繰り返しが続いていた。性欲を抑えきれずセックスを要求する自分がまるで盛りのついたメスのように感じて、自己嫌悪に陥っていった。
 ブラッド・ピット主演の映画「ベンジャミン・バトン~数奇な人生」のように、正幸がどんどん赤ちゃんに戻っていってしまったらどうしようと不安になったこともあった。性器が赤ん坊のように小さくなると、私はケイト・ブランシェットが演じた妻のデイジーのように、かいがいしく世話をする母親のようになれるのだろうか。
 不安は募っていった。自分のような悩みを持っている女性たちの気持ちかを知りたくてネットで検索してみると、自分自身に自信をなくしてしまった女性は40%以上もいると知って驚いたが、慰めにもならなかった。正幸のEDは加齢が原因なのだから、彼が自分自身に失望しないでほしいと願うだけだった。小夜子はいつも自分より彼のことを心配していると思っている。それだけ彼のことを愛しているのだ。

 私は彼のことを愛しすぎているのだろうか。だから苦しいのだろうか。
 これまで恋愛で悩んだことのない小夜子は自分の気持ちを持て余すと、 久しぶりに旅行を楽しむはずだった正幸に嫌な思いをさせたのではないかと気になり、「正幸、ごめんね」と謝罪の言葉をかけようとして、彼の顔を覗き込もうとした。するとすうすうという穏やかな寝息が聞こえてくる。
「もう、寝ちゃったの」
 ため息をつきながら落胆した小夜子は正幸にそっと布団をかけると、寂しさが広がっていった。久しぶりの旅行なのにいつもと同じだと泣きたくなって、窓の近くにある小さな冷蔵庫から缶ビールを取り出した。ビールはキンキンに冷えていて、ごくごくと飲むと、眠気がさーっと引いていく。ため息をつきながら窓を開けて、星ひとつない真っ暗の空を仰ぎ見てから、ビールを一気飲みしようとしてむせると、目の前にある漆黒の闇から夜の冷気が不気味に感じた小夜子はあわてて窓を閉めてカーテンを引いた。
 缶ビールを片手に窓から移動した時だった。ソファースタンドに充電中の正幸のスマホがぽつんと置いてある。
 ふいに小夜子は小さな疑惑を覚えた。正幸はなぜスマホを取りにわざわざ家に戻ったのだろう。SNSでやり取りをしていたのは誰なのだろう。
 一度疑惑が生まれると風船に空気を入れたように、どんどん膨らんでいく。膨らんだ先にあるのはパンという爆音と破裂をもたらすことだと気づけなかった小夜子は、好奇心のままに正幸のスマホを充電器から抜き取った。
 寝息を立てずに眠り込んでいる正幸は、まるで死人のように横たわっている。
 小夜子はスマホを握り締めてバスルームに入り、パスワードを指で押すと画面が開いた。自分の誕生日をパスワードにするところが正幸らしい。バスルームの換気扇の音が響いている。
 アプリがぎっしりと整列している中から、ラインを選んだ。赤いハイヒールのアイコンをクリックすると、息が止まりそうになった。
「まさか……」と動揺しながら、写真が収納されているストックをクリックした。そこに映し出されていた写真に目を奪われ、「うそ」という声と共に幾度もスクロールするうちに、ある動画を開いてみた。手の震えが止まらなくなった小夜子はその場にへたり込み、やがて声にならない嗚咽をあげていた。


第二章 19歳の夏、彼と。


photo:Yumika

 ホテルの部屋から出た小夜子は、階段の手すりにしがみついて、階下にあるラウンジに向かった。体の震えが止まらない。バスルームに籠ってこっそり正幸のスマホをのぞき見すると、赤いハイヒールがアイコンのSMの女王様とやりとりをしているラインを見つけてしまった。さらにストックされている動画には、女王様に鞭を打たれ、ビンタされながら悶絶している正幸のショッキングな姿が映し出されていたのだ。唇を震わせながら最後まで観終わると、嘔吐してしまった。涙と共に。
  深呼吸をしてから何度も口をゆすいだが、酸っぱさが残る。こみあげてくる胃液を何度も飲みこんで深呼吸するうちに、胃腸の反応が少し落ち着いてくると、疲労がどっと押し寄せてきた。
  バスルームを出るとベッドルームではうつ伏せに寝ている正幸のすうすうと静かな寝息が聞こえる。さっきの画像とまるで別人だった。今夜は正幸の隣で眠れそうもない。悲しかった。
 ふと一階にあるホテルのラウンジを思い出した。ラウンジの柔らかそうなファーなら、少しは眠れるかもしれない。そっと部屋を出て手すりにつかまると、誰かにすがりつきたい衝動に襲われた。でもそんな人はどこにもいない。世界の中で自分だけが取り残されてしまったような寂しさで涙が溢れた。そんな時は、眠りという安息の世界に逃げ込むことしか思い浮かばなかった。眠れる場所を求めて、小夜子はふらつく足取りでラウンジに入った。

 20席あるテーブル席の一番奥のソファー席向かって歩いていく。そっとソファーに横になってみると、浴衣に羽織だけでは寒いことがわかった。だがブランケットを部屋まで取りに行くのがおっくうで、小夜子は肌寒さを我慢しなが目を閉じて、うとうとした。すると誰かがこちらに向かってくる気配がする。目を開けてゆっくりと起き上がると、支配人の大和だった。
「どうしたのですか」
「部屋よりラウンジの方が温かいと思って」
「部屋の空調を調整できますよ」
「あ、いえ。彼が部屋の温度はそのままで良いというので」と嘘をついてから「ここで少し休んでいいですか。ほんの2、3時間ぐらい」とお願いする。
「6時ぐらいまでなら4時間以上眠れます。寒くないですか」
「少し寒いです」
「ではブランケットをお持ちしましょう」
 小夜子はほっとして手足を伸ばした。正幸がスマホを自宅まで取りに行くと言い出した時に、ディナー時間を遅らせてほしいという願いも大和は快諾して待ってくれた。小夜子より少し若いがホスピタリティーに溢れている彼はホテルの支配人に最適の人材だろう。最近は編集部のスタッフ人事にも介入しているせいか、大和のことも人事目線で評価していることが意外だった。正幸と知り合った頃に比べたら、社会的には大人になったかもしれないが、だがまだ小娘気質が残っている。ショッキングな出来事に身も心も砕けそうになっているのだから。
「こちらですよ。よかったらホットミルクもどうぞ」
 ブランケットと温かい飲み物を渡してくれた大和は、この夜の救世主のようだった。
「ありがとう。嬉しいわ」
 マグカップに口を近づけて一口すすると、ミルクの甘さとじんわりとした温かさが広がる。
「なんだかほっとする」
「ミルクの香りには、安静にさせる効果があるようです」
「そうなんですか」
「バニラアイスを食べると、子供も大人もほっこりするでしょう。あれはバニラの香りにリラックス効果があるからなんです」
 ミルクとバニラでは香りが違うのではないかと思ったが、大和の気遣いを台無しにする気がして「そうですね」と頷いてもう一口すすると、丸みを帯びた大和の背中に宿っている優しさに浸りたくなったのは、さきほどのバスルームで味わった非現実的で衝撃的な映像とは全く別の穏やかな空気がラウンジに漂っているからだろう。正幸のスマホの残像が頭に浮かぶと、寒気がする。
「まだ寒いですか。室温をあげましょうか」
「大丈夫です。ブランケットで体を包みますから」
 ミルクを飲み干してマグカップを目の前のテーブルに置き、体を横にしてブランケットで丸まって目を閉じると、大和が物音を立てないようにそっとラウンジから出ていった。
 静寂な暗闇は安全な場所だった。静けさに包まれると急に睡魔に襲われた小夜子は、まるで意識をなくしたように眠りの世界へと落ちていった。


 「正幸と会った19歳の夏を、一生忘れないわ」
 正幸と暮らし始めた最初の夜に、小夜子は正幸の耳元でささやいた。正幸は小夜子の目を見ながら「そうだね」と頷いてから「小夜子は最高だったよ」とキスをしてくれた。
 大学に入学すると、6月生まれの小夜子はすぐに19歳の誕生日を迎えた。恋人はいつも年上で、その頃も10歳以上年上のサラリーマンと付き合っていたが、小夜子は退屈していた。自分を成長させてくれるような新しい恋をしてみたかった。
 大学一年の夏休みはとにかく忙しかった。宿題のレポート作成に、花屋とカフェのバイト、テニスや水泳、友達との飲み会やショッピング、彼氏らとのデート、花火大会など夏のイベント。だが小夜子は不満だった。人生が根底から覆されるような変化もなく、心の中ではずっと退屈していた。
 中学や高校の頃に仲が良かった女友達たちは小夜子よりもずっと大人びていた。かなり年上の男性と海外旅行を楽しんだり、夜の世界で花開いた女性もいた。みんな自分が知らない世界で人生を謳歌している。自分だけが取り残されてつまらない人生を送っている気がした。女として華やいでいた母親のことが鬱陶しかったことも、不満を一層募らせていた。

 そんなある夜のことだった。
 小夜子は高校の先輩からいきなり電話をもらう。一度だけ関係を持った彼は筋肉隆々で身長180センチと長身だが、卒業してからまったく連絡がなかった。「遊ばれた」と思いたくないから、きっと先輩には他に好きな人がいて、私とのことはその女性に申し訳ないくらい、素敵な思い出だったに違いない。小夜子はそう自分に言い聞かせていた。
 先輩から連絡してくるという甘い期待をどこかに置き去りにしていたはずだったが、先輩の声が耳に入ると、淡い恋心が残っていたことに気づいて慌てた。先輩が年齢の割に大人びていたのは、年上の友達が多いからだろう。悪いことも教えてもらっていたはずだ。そう、先輩は悪い人だ。でもワルはたまらなく魅力的だ。
「もしもし」と言う自分の声が少し上ずっている。恋の残り火を気づかれないように気取った声になったが、先輩の「元気?」という軽いノリの挨拶で張りつめた気持ちがあっけなく消えてしまいそうになった。
「ちょっと、お願いがあってさ」と挨拶もそこそこで先輩は早口で話し始めると、私のことをどうして聞いてくれないのと小夜子は少し機嫌が悪くなった。
「知り合いが困っているんだ。湘南の海の家のオーナーなんだけど、バイトが急に辞めてね。よかったらやってみない?三食宿泊付き、急募だからバイト代をはずんでもらえるように、僕からもプッシュするよ。可愛い後輩だしね」
 「可愛い後輩」に少し胸がきゅんとなったが、調子のいい先輩の軽さに幻滅しそうにもなる。「せっかくですが、暇ではないので」とやんわり断ろうとすると、「レポート?だったらオレ、手伝うよ」と急にアプローチをかけてきた。「代わりにレポートを書いてあげるよ、レポート得意なんだ」とあの手この手で説得してくる。そこで「でも彼氏とのデートの約束もあるし」とセーブした。
「なんだ、彼氏がいるのか」
 落胆した先輩の声が小夜子には心地よかった。放置されてきたことへのちょっとした報復が達成したから、楽しくなってくる。
「もうすぐ別れるかもしれない彼氏なんですけどね」
と少しモーションをかけてみる。すると「別れたいなら、さっさと別れて、湘南に来いよ、バイトやりなよ」と今度は自分の都合の良い方向に持っていこうとする。
 「どうしようかな」と今度はじらしながら、「どうして私を勧誘するんですか」と探るを入れると、「小夜子しか思い当たらなくて」と即答された。
「ウソでしょう、他の人にも同じことを言っているんでしょう」
「ウソじゃないよ、小夜子だけに頼んでいる」と必死に訴えてくる。
 嘘ではなさそうだ。正直な男に少し憧れを感じたのは、きっと私が自分に正直ではないからだ。
「バイト、やろうかな」とこぼれるように答えてしまうと、「ありがとう、小夜子。やっぱりお前はいい女だ」と電話の向こうの男が歓喜した。
 

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 ギラギラと照り付ける強い日差しが眩しい。湘南の海の家は、都内のおしゃれなカフェからほど遠く、まるで昭和のレトロ居酒屋のような佇まいだった。長いテーブルが置かれた畳の座敷席は数人から10人以上の団体客用で、2人から数人ほどの少人数用の席は砂地の上に所狭しの風情だった。
  朝からサザンのいとしのエリーや山下達郎のライドオンタイムや高気圧ガール、大瀧詠一のペパーミントブルーなど夏のきらめきを象徴する曲が大音響で流れる中、厨房で作られる焼きそばのソースやホットドックのソーセージ、揚げたてのポテトフライ、チキンの唐揚げの香辛料やガーリックソテーなどの匂いが充満していた。
  タンクトップに短パン姿の小夜子は、注文されたドリンクや軽食をひっきりなしに運んでいた。汗が噴き出てしまうと厨房にある隠れスペースで冷やしたタオルを取り出すが、次々と注文が続くので、タオルを肩にかけながら汗を拭う。口の悪い客から「女棟梁」とあだ名をつけらえてしまったが、小さい頃は病弱だったことを思い出すと、ガテン系のあだ名をつけられるほど健康になったと明るく言い返していた。
「棟梁、こっちも注文」、「焼きそばまだなの?棟梁」「こぼしたから拭いてよ」「水ちょうだい」と人使いが荒い客にも、小夜子は「はい、ただいま」と笑顔で対応していく。他のバイトスタッフは予想以上に重労働だとわかると次々にやめていき、一週間後には小夜子と17歳の男子高校生と、50代の主婦の3人だけが残った。

 その日は午後2時過ぎても客の出入りが激しく、そのため昼休みは午後3時過ぎといつもより1時間ほど遅くなった。厨房の横でまかないのそうめんを食べていると、40代の日焼けした肌を自慢気にさらした上半身裸の店長が「小夜ちゃん、休憩中に悪いんだけど配達を頼んでいいかな」と手を合わせて頼んできた。断れない雰囲気だった。「配達から帰ってきたら休憩の続きをもらえますか」と尋ねると、店長は満面の笑みを浮かべて「もちろんだよ、恩にきるよ」と厨房から唐揚げや焼きそばが入っているデリバリー容器をバックに入れて、自転車の荷台に括り付けた。
「場所はここ」と渡された紙きれには、七里ヶ浜から高台へと向かう別荘地の簡単な地図が書かれている。
「高村という表札があるから、確認したらインターフォンを押して。ゲートが開いたら、自転車でさらに5分ぐらい走ると、大きな屋敷が見えるよ。そこでまたドアの横にあるインターフォンを押して『海の家』と名乗ってね。誰かが出てくるから、渡してよ。デリバリー料も、ちゃんともらってね」
「すごい大きな別荘なんですね」
「別荘と言うより、お屋敷だな」
 日焼けした背中を見せながら厨房に戻る店長の後ろ姿に「行ってきます」と挨拶をしてから、小夜子は深呼吸して自転車のペダルを漕いだ。

 高台の方向に向かうと、道路をはさんで両脇に生い茂る樹々が増えていく。そのたびに木漏れ日があたりと照らし出して、きらきらと光に包まれる。まるで幻想的な世界に紛れ込んでしまったみたいだ。
 樹木が生い茂る一帯を走行すると、涼しい風が頬にあたり、そのたびに海の家のぎらぎらする日差しから解放され、ペダルを踏む足も軽やかになる。
 木漏れ日のトンネルをくぐると、ゲートが見えてきた。表札には「高村」とある。自転車をいったん止めて、インターフォンを押すと「はーい」という女性の声が飛び込んできた。「海の家です。注文の品を持ってきました」と答えると、ゲートが空いた。植物が生い茂る大きな庭が続いている。小夜子は再びペダルを踏んで、まっすぐに進む。砂利道を過ぎると車のタイヤの跡が見えてくる。次のゲートの手前に車庫があり、一目で外車とわかる車が三台ほどひしめいていた。
 赤銅色の古ぼけたドアが日の光を浴びて、鈍色に染まっている。ドアの隣にある真新しいインターフォンを押してみた。返事がないので、さらにもう一度押すと、数秒経ってからドアが開くと、白いTシャツに白の短パン姿のサングラスをかけた男が小夜子を迎えた。
「配達、ご苦労様」
 小夜子はお辞儀をしてから、自転車からデリバリー容器を取り出そうとすると、それより先に駆け寄ってきた男が自転車に括り付けたデリバリー容器を解いて容器を持ち上げた。
「きっと喉が乾いていると思ってね。レモネードを用意しているから、こちらにどうぞ」と 男は小夜子を屋敷に招く。戸惑った小夜子は「いえ、すぐに帰らなければいけないので。料金と受取書だけください」と丁寧に断った。
 すると男は振り向いて、「君は真面目なんだね。学生なの?」とサングラスを取った。
 丸みを帯びた人懐こい目が笑っていた。それが正幸との最初の出会いだった。

第三章 秘密の恋と前妻



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「編集長、原稿チェックをお願いします」
 新入社員でショートカットの森永優紀が出社するとすぐに、編集長の仕事を依頼する。けだるさを感じながら小夜子は自分のデスクのパソコンを開いた。森永からのメールには、公開予定の記事のURLがぎっしりと書き込まれている。
 午後から会議が入っていたので、午前中に確認しなければならない。急に億劫になり、「わかったわ」と返事をしてから、オフィスを出て休憩ペースに向かった。
 休憩スペースには誰もいなかった。ほっとしながら自動販売機でいつものブラック珈琲のボタンを押した。するとスペース前を通りかかった常務が「珍しく、さぼりかな」とからかう。50代後半で白髪交じりの常務は家庭に戻ると“主夫”に変わると評判の子煩悩だ。子供が生まれたのが40代後半だったこともあって「神様からの授かりもの」と子供を宝物のように大事にしている。子育てに積極的で、社内初の育休を取ってイクメンならぬ“イクオジ”と称する常務にからかわれると、まるで子供の頃に戻ったような気がして、ほっくりとなる。
「5分間だけ、コーヒータイム」と手を合わせて拝むポーズをとると、「編集長も息抜きが必要だからね。思う存分、休憩してくれよ」と笑顔で手を振ってから、役員室の方に足早に歩いて行った。
 小夜子は珈琲をすすりながら、職場にほっとできる空間があることに安堵した。あのホテルで正幸のスマホを覗いてから、家では緊張することが増えていたのだから。

 あの夜から毎晩のように正幸のスマホを覗くようになった。正幸が執心している女王様との関係は3年に及ぶこともわかった。ちょうど正幸がEDになった時期と重なる。
 正幸は4年前に知り合いに連れられて初めてSMクラブに行くと、二か月に一度ぐらいの割合で通うようになった。たが、コロナ禍になると女王様は新宿区にションを借りて個人のSMサロンを営業するようになると、店舗よりも料金が安いことで通いやすくなったようだ。
 二人のやり取りの言葉にも、小夜子は傷ついた。「もだえます」「震えます」「もっといたぶって」というのは日常茶飯事で、時には「殺してください」、そして「あなたに殺されたら本望」という愛のメッセージを見つけると、小夜子はさらに深く傷ついていった。
 それが正幸の性癖だとわかっていても、自分よりも女王様が特別な存在だとわかると辛くなる。小夜子とセックスレスになってから、性的に興奮させてくれる女王様の価値がさらに高まっているのだと感じた。
「もはや依存だわ」
 スマホを覗くたびに正幸の変貌ぶりに狼狽されるから、覗くのをやめよう、やめようと自分に言い聞かせるのだが、帰宅するとそれがまるで日課のように正幸が寝ている頃を見計らって、充電器に差し込んでいるスマホを取り出して覗いてしまう。覗くことで正幸という人間を知りたくなっていくのも、依存の一種なのだろうかと小夜子はますます悩んでいった。
  ある夜、女王様のところから帰宅してすぐにアップした画像を見つけてしまった。また小夜子が帰宅してから夜遅くに女王様のところに行くこともあった。もはや小夜子に遠慮などせずにやりたい放題だ。でもひょっとして考え過ぎなのだろうか。
 憶測が増えて疲弊すると、小夜子は仕事にのめり込むようになった。だが帰宅すると、いつものようにスマホをのぞき見をしてしまう。そして傷つくたびに小夜子はマンションのベランダにかけこんで、泣いたり芸人の動画を見たりワインをがぶ飲みしたり、ありとあらゆることをしながら自分の気持ちを整えるようとした。だが3か月経って体重が4キロぐらい減少すると新人の森永から「編集長、ダイエットに成功したんですか」とダイエット特集を提案されると、はっとなった。「ダイエットしているつもりはないんだけど」と言いかけてその先の言葉を抑えようとする自分がみじめになった。「そうなのよ、夜のカロリーを制限したら自然に痩せたの」ととっさにウソをつくと、やっと自分の心身が危ういことに気がついた。


photo:Yumika

 ライトに照らされた夜の恵比寿ガーデンプレイスを通り過ぎて路地に入ると、薄暗い空間にぽつんと『カフェ ソサエティ』の看板が見えた。小夜子がそのドアを開けると、来店を告げる鈴の音が響いた。丸みを帯びた体格のマスターのノブユキが目を細め、カウンターの男性客との会話をストップしてから「いらっしゃい。久しぶりね」とおしぼりを差し出しす。小夜子はカウンターの一番隅に腰かけた。
「あんた、痩せたわね、ダイエットに成功したの、羨ましい。それとも別の理由で痩せた?」
 ノブユキは本当に鋭いと小夜子は苦笑いをした。
「なによ、その笑い、あんた、暗いわね。お酒でも飲みなさい」
 男性にも女性にも優しいゲイのノブユキが勧めてくれたのは、ガーネットという、ジンをベースにレモンジュースとシロップ入りのカクテルだった。「赤い色のカクテル?」と尋ねると、「レッドカーペットならぬレッドカクテル」とノブユキがおどけてカウンターの男性客をチラ見する。映画好きのノブユキが男性客相手に次回の国際映画賞の候補作品を熱く語っていたのだろう。
「赤い色のカクテルはやめて、別のものにして」と小夜子は断った。女王様のリップスティックで塗りつぶした血の色のような唇と、紅色の7センチの高ヒールを思い出したのだ。
「じゃあ、ブルーハワイなんてどう?ラムベース。夏じゃないのにおめでたい色よ」
 ノブユキがおどけると、小夜子は「それにして」と少し笑った。
「あ、パイナップルジュースを切らしている、なしでいい?レモンジュースならたっぷりあるけど」
「うん」と頷くと、スマホを取り出して、メールのチェックを始めた。仕事関係の連絡が入っていないことを確認すると、ブルーハワイが目の前に置かれた。夏ではないのにブルーハワイ。このネーミングは次の特集のキャッチコピーに使えそうだ。「○○ではないのに○○」というふうに。仕事に没頭してスマホからメールを次々と配信しているうちに、店内には小夜子だけになった。
「私一人だなんて、珍しいわね」
「つい30分前まで満席だったのよ。先月までコロナが収束しても客はぼちぼちだから、やっと戻ってきたって感じがする」
「コロナか」
 正幸が女王様に心酔したのがコロナ禍だったことを思い出した小夜子はため息をついた。
「ねえ、本当にあんた、痩せたわね」
 ノブユキがピーナッツをおつまみ小皿に追加する。そんなときは決まって「何かあったの」という無言の心配だった。
「うん、眠れないことが続いてね」
 ピーナッツをつまみながら、50代前半のノブユキと静かな店内と音楽に致された小夜子はぽつりぽつり語り出した。
 打ち明け話が全部終わると、「そりゃあ、大変だったね、小夜子」とノブユキが涙ぐむ。
「うん」と頷くと、小夜子の目からも涙が溢れてきた。きっと自分は泣きたかったんだとわかると、さらに涙が溢れてくる。ノブユキがカウンターの裏からティッシュ箱を持ってきて小夜子に渡した。嗚咽がこぼれる店内にはノブユキのシェーカーを振る音だけが響き、やがてアンディ・ウィリアムズの「ムーンリバー」の曲が静かに流れてきた。
 ティッシュ箱を空をした小夜子に「少しはすっきりしたかな」と思いやりの言葉をかけてから「これ、私からプレゼント」とアマレットサワーカクテルを差し出した。
 オレンジ色がゆらゆらと揺れている。まだ涙が渇いていないせいだろう。グラスをとって一口含むと、甘い香りに包まれる。オレンジジュースととても相性が良いリキュールだ。
「小夜子が言うように、小夜子の彼氏の性癖なんだよ。だからもう、スマホを覗くことはやめなさいね。だっていくら覗いても、彼氏は女王様のところに通うし、それに小夜子が覗いていることをとっくに知っていると思うんだよね」
「正幸にバレているってこと」
「バレてから彼氏がさらに燃え上がっているかもしれない」
「そんな」
 小夜子は狼狽したが、ノブユキの指摘があたっているかもしれない。
「スマホを覗いていることがわかってから、夜遅くに出かけているんでしょう。それ、彼氏にとって凄い刺激なんだよ。でもそれも性癖。女王様に前ではMで、小夜子にはSなんだよ」
「そういうことなのね」
 アマレットサワーを飲み干すと、これまでスマホを覗いてきた日々が蘇ってきた。小夜子が苦しんでいることも知っていた正幸は、そのことも自分の性の刺激にしていたのだろうか。
「はい、お水」
 ノブユキがミネラルウォーターをグラスに注いで差し出す。
「この問題について、彼氏と面と向かって話し合いはできないの」
 とっさに小夜子は首を横に振った。話し合いで解決できるのなら、とっくに夫婦の話し合いをしているはずだ。だがタイミングがすでに過ぎてしまっている。
「もし私が気づいていると知っているなら、彼から話し合いをもちかけてくるんじゃないの」と男女の機微にも敏感なノブユキに尋ねると、ノブユキはあいまいな表情を浮かべながら「でも、スマホを覗いたのは小夜子なんだよ」ときっかけが小夜子だったことを思い出させてくれた。
「やっぱり私からなのね」とため息が漏れる。
「その前に確かめておいたほうがいいよ、小夜子」
「一体なにを」
「もともと彼氏がその性癖を持っていたかどうかってこと。彼氏の前の妻に聞いてみたら」
「正幸の前妻にね」
 正幸がEDになってから、前妻の優紀とたまに会っていることは知っていた。精神的な繋がりは自分だけで、正幸にとって前妻は友達のような存在だと思っていたが、もし正幸の性癖を知っていたのなら、離婚の原因の一つなのだろうか。もしかすると、それが乗り越えられなかった夫婦の壁だったのだろうか。
「前妻の対応を知っておいた方がいいよ。これからの小夜子のために必要なことだよ」
 正幸がグラスを磨き始めながら優しい口調で諭しすと、ドアの鈴が鳴って、男性と女性が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
 お客が増えると店の空気も変わる。酔った男女の弾むような声に、店内は華やいでいく。カウンターの隅にいる小夜子は前妻の電話番号をスマホで確認した。まるでパンドラの箱を開けたくなるように、心にしまっておいたものがどっと溢れかえってくる。前妻は自分と正幸の過去の不倫をどう思っていたのだろう。正幸の性癖を受け入れられずに、不倫相手に彼を譲って安堵して、再婚したのだろうか。
 太陽のように明るいという印象の元妻の優紀が、正幸の性癖のことで悩んでいたかどうかを、小夜子はたまらなく知りたくなった。


 翌日の昼休みに少し戸惑いながら優紀に電話をすると、「はーい」と明るい声が飛び込んできた。3年前に正幸の父親の葬式で一度だけ会っただけだが、「ご相談したことがあって」とお願いすると「いいわよ。うちのファームにいらして。その日はスタッフが休みで私だけだから、お茶しましょう」と快諾してくれたので、無農薬の自家栽培を手掛けている優紀の農場を訪ねることになった。正幸の性癖のことや、離婚の真の原因を聞き出すには、誰もいない農場はおあつらえ向きだった。
 大学で管理栄養学の講師を務めている優紀は20代の頃アメリカ留学中に「地産地消」の考え方を学び、オーガニックや有機農法に深い影響を受けて、帰国後はオーガニックショップで働きながら大学の栄養管理学科を卒業して講師になったことを、正幸は小夜子と知り合ってすぐに目を細めて話してくれた。妻を尊敬している男の眼差しを浮かべながら。

 千葉の外房線沿線にある小さな駅で下車した小夜子は、紅葉で色づく銀杏並木を通ってバス通りに向かった。たまたま午前中に千葉市の中心街で取材が入ったので、午後から有休をとった。取材に同行した新人の森永に仕事の指示を出してから外房線に飛び乗ると、ブルーシートの席に深く腰掛けて、窓から見える畑を眺めているうちにうとうとと眠り込んでしまった。約束の駅に到着する直前に目が覚めて、あわてて下車する。改札を出ると、待ち合わせの優紀が「小夜子さん」と声をかけた。野球帽をかぶった優紀の日焼けした肌には、小じわこそあるものの、生き生きとしていて老けた感じがしない。正幸よりも3歳年下で50代後半だが、年齢よりも数年ほど若く見えた。
「車で移動しましょう」と軽トラックのドアを開けると助手席に誘導する。車が動き出すと、慎重な運転さばきに小夜子は心の中で唸った。仕事やプライベートで多くのドライバーの助手席に座ったが、優紀ほど運転がうまいドライバーはいなかった。隣に座っているだけで心地よさを感じるのは初めてだった。
「運転、上手ですね」と自然に誉め言葉が出ると、「そうなのよ」と快活に優紀が答える。「タクシードライバーになりたいと言ったら、正幸が反対してね。事故を起こしたらどうするんだって」
「そうなんですか」
 小夜子はこれまで正幸から行動を制限するようなことを一度も言われたことがない。だから意外な気がした。人によって態度が変わるのだろう。
「私には一度も何かをやめろと言ったことはないです」
「それはあなたが何でもできるからよ」
「そんな」
「私に逢うたびに小夜子さんのことを自慢しているわ。編集長に就任したんですってね」
「たまたまです。新卒で入社した会社に転職もせずに在籍しているうちに、優秀な人たちがもっと良い条件でどんどん転職していったんです。残った私にポストが回ってきただけです」
「謙遜ね」
 運転席の優紀がふっと笑ったような気がした。笑いに侮蔑が含まれているのではないかと小夜子はひやっと寒気がする。再婚したとはいえ、元夫を略奪した女が助手席に座っているのだ。表面的にはにこやかだが、心の底では小夜子を憎んでいるかもしれない。恐る恐る運転席の優紀の横顔をのぞき見したが、表情から彼女の気持ちが読み取れなかった。略奪したと言えば、母も他の男性と恋をして、複数の他の家庭を壊してきた。母の遺伝子が母と同じことをさせているかもしれないと思うと、なんだか悔しい。
「ねえ、小夜子さん」
「はい」
 小夜子は少し緊張した。
「前から聞きたかったんだけど、どうして正幸を好きになったのかな。あなたより20歳も年上よ。正幸もひと夏のアバンチュールのつもりだと言っていた」
「ひと夏のアバンチュール、ですか」
 浮気をした男性が妻に言い訳する言葉として、アバンチュールは最適かもしれないが、いざその言葉を元妻から聞くと、失望に近い感覚を覚える。家庭を守るために、男は軽い遊びが相応しいのだと思い込もうとするが、でも心のどこかで引っかかった。
「気に障ることを言ったらごめんなさいね。正幸は私と別れるつもりはなかったの。別れる理由がなかったから。でも彼は変わったのよ」
「どう変わったんですか」
「あなたと会ってから強くなった」
「本当ですか」
「ええ。正幸は20代の頃世界中を放浪して、日本に帰国する気がなかった。でも正幸の母親が病気で倒れてからは考え方を改めて、帰国してからまともな企業に就職したのよ。帰国した頃に知り合って結婚したけど、まだ放浪癖が直らなかった。一週間の勤務が終わると、金曜日の夜からフラッとどこかに行ってしまって、日曜日の夜に帰ってくる。そんな生活が数年続いてから正幸の母親が他界すると、時短で働ける企業の団体職員になったの」
「そうなんですね」
 正幸の自由奔放な発言が心地よかったのは、彼も自由を求める気持ちが人一番強かったからだ。
「私も学生に戻ったから勉強が忙しくて。しかも仕事と両立だから、二人で出かけることが少なくなっていったの。でも別に仲か悪くなったというわけじゃなくてね。お互いに好きなことをやっていればいいと楽観的だった。そのうちに正幸は資産家の息子で、イタリアでデザインを学んだ高村という男性と仲良くなって、高村の実家が所有している湘南の別荘で私たちは高村と彼の友人たちと一緒に別荘で過ごしていたの。でも私は職場の夏季休暇が終わる前に東京に戻った。正幸はそのまま別荘に残って、高村家の書架から本を選んでは読みふけったり、当時としては珍しいホームシアターのような大画面で映画のDVDを観たり、年代物のワインを飲んだり、プールで泳いだり、ときどき海の家からデリバリーを頼んでみんなでパーティ―をやったりと、遊びまくっていたのよ。そんな時に、あなたが海の家から配達してくれた。出迎えたのが正幸だったんでしょう」
「はい」と頷いた小夜子は、19年前の木漏れ日が続く道や、自転車で走行する途中の風の香りを思い出した。世の中のことを何も知らなかった頃だった。

photo:Yumika


「正幸も高村も友人たちもあなたに夢中になったそうね。でも高村は急にイタリアに戻ることになって、一足先に別荘を離れた。正幸と、他の取り巻き連中が別荘に残って、まるで資産家気取りだったとか」
「ええ。あの頃はてっきり高村さんの友人もお金持ちなんだなって思っていました」
「高級ワインを空けて、さもワイン通と言うように気取ってワインの講釈をしていたんでしょう」
「それは他の人たちです。正幸はそんなことをしなかった」
 これ以上話すと、未成年だった自分が別荘でワインを飲んでいたことがバレてしまいそうだったが、優紀は小夜子も参加した盛大なワインパーティーを知っていた。
「ワイン蔵から高級ワインを出したそうね。そして鎌倉のホテルからデリバリーを頼んだ。手作りのピザを別荘の窯で焼いて朝から飲み、昼寝をして、泳いで、またみんなで飲んで。夜になってから高級ワインを空けた」
 まるで映画のワンシーンのような贅沢なひと時だった。7人の高村の友人らは、酒に酔って踊ったり、ウクレレを奏でたり、プールで泳いだり、ピザの窯でスイーツを作ったり。正幸は文学を語りながらひたすら飲み続ける男性と一緒にいたが、やがてホームシアターでビスコンティの「山猫」を正幸がセッティング上映をすると、それまで好き勝手に遊んでいた人たちがリビングに集まって、貴族出身の監督が作った貴族の没落と、圧巻の舞踏会のシーンに唸った。彼らは大人だったが、まるで学生のように好奇心が旺盛でしかも自由だった。
「翌日、急遽イタリアから帰国した高村が、自分が留守中に狂乱騒ぎをしていたことを知って、みんなを追い出したんだってね」
「そうなんです」
 あの朝の出来事は前日の盛大な夏のパーティーを凌駕するような痛烈な思い出だった。まず高村が別荘に入るなり、鋭利な刃物で切り付けるような高音のカナ切り声を挙げてから、倉庫から大型の扇風機を台車で運び、扇風機が回るとモーターのような騒音に近い音を立て、そして高村は「出て行け~ゴキブリども~」とバケツ一杯の水を酔って泥酔している友人らに次々とぶっかけたため、リビングは水浸しになった。
「私は起きていたので、すぐに別荘から逃げました。するとシャツもズボンも水浸しになった正幸が追いかけてきて、自転車にまたがると私を後ろに乗せて、一目散に逃げたんです。彼だけびちゃびちゃになりながら」
 すると優紀が声を立てて笑い始めた。別荘から脱走した顛末を初めて知ったらしい。
「あなたって、お話が上手ね」と涙を流しながら笑いこけると、車が急に止まった。窓から見えるのは、どこまでも続いているのどかな農園だ。
「着いたわ。お茶でも飲みましょう」

 外に出ると農園の前にある大きな柿の木が、午後の光に照らし出されていた。柿はオレンジ色の光に包まれている。
 「ゆうきファーム」と書かれた看板の横にある、木造りの小屋のような休憩室に通されると、農園で作ったというオーガニックのハーブティーをゆっくりと飲む暇もなく、優紀から20歳も年が離れている正幸を愛し続けているきっかけをしつこく聞かれた。長年に渡る疑問を解明したいのだろう。
 真実をありのまま話す気がない小夜子は、「家庭でいろいろなことがあって相談するうちに、正幸を信頼できる人だと思った」と簡単に説明すると、 優紀が不満な表情を浮かべたので「ごめんなさい。これ以上はちょっと」とストップしてから、小夜子はスマホを取り出した。
「お見せしたいものがあるんです。正幸のことで確かめたいのです」
「なにかしら」
 優紀の肌がくすみ、年齢相応に見えた。緊張しているのだろう。
 小夜子は正幸のSM動画を転送した映像をダウンロードして優紀に見せると、優紀はみるみるうちに真っ青になって絶句した。
「正幸は頻繁に女王様個人のサロンに通っています。結婚していた頃も、彼にはこういう性癖があったんでしょうか」
 両手を口にあてた優紀は首を横に振って「知らなかった。私は何も知らない妻だった」と嘆くと、涙をこらえきれず、テーブルに突っ伏して泣きじゃくった。
「本当に何も知らなかったんですね」
 前妻にも秘密にしていた性癖を抱えながら、正幸は何を考えて生きていたのだろう。それとも離婚して私と暮らすうちに、目覚めてしまったのだろうか。
 小夜子はさめたハーブティーをすすりながら、今夜も正幸は女王様に会いに行くのだろうかと、ぼんやりと小屋の窓から外を眺めながら、ため息をついた。
  正幸と長い間一緒に暮らしていた前妻も正幸の秘密を知らなかった。そして動揺したせいで彼女はまるで子供のように泣いている。小夜子も自分が成長しない小娘のようだと自分自身を責めていたことを思い出した。
 目の前で泣いている女性は元妻で、彼との人生を終わらせている。でも自分は正幸の妻だ。婚姻届けこそ出していないが、20年もの間、彼を愛している。愛しているからこそ、できることがあるはずだ。
「女王様に会おう」
 決意のようなものがふつふつと湧き出てくると、小夜子は泣きじゃくる女に無言で挨拶をしてから、静かに出て行った。



第四章 新しい風景へ


photo:Yumika

 新宿三丁目から四谷三丁目と続く新宿通りから路地に入り、さらに小さな公園を通り過ぎると、閑静な住宅地と隠れ家のような飲食店が並ぶ一画に、女王様のマンションがある。夕方の光が注ぎ込む前に、小夜子はマンションの非常階段から7階まで昇っていく。正幸が女王様に会うときと同じルートを選んでみた。正幸の動画は非常階段から始まる。女王様に会えるという、震えるような歓喜から始まる動画のオープニングに、小夜子は嫉妬を覚えていた。
 カンカンカンとヒールの音が響く。5階まで駆け上がったところで、小夜子は深呼吸をした。階段から階下を見渡すと、新宿通りを走行する車が混雑していることがわかる。祝日もこの辺りは渋滞になりやすいのだろう。小夜子は呼吸を整えてから、南西の方向に目をやる。母親の満ちるが入院している病院は水平線のずっと先にあった。病院からタクシーで移動しながら、小夜子は病室で母が伝えたかったことに思いを馳せた。

 この一年間、母の容体は一進一退を繰り返していた。点滴が症状によって、透明だったり薄いイエローだったりする。今朝の朝食の時間にかかってきた父親からの電話で、今度こそ最後のお別れかもしれないと小夜子は覚悟した。だが病室に入ると、父親が「少し前に落ち着いて、看護師さんが点滴を交換していったよ」と嬉しそうな笑みを浮かべた。母から何度も裏切られても母を待ち続け、離婚を選ばなかった父のことを、やっと尊敬すべき存在だと思った。
「裕司に連絡をしたの」と尋ねると、「連絡がつかない」と父は表情を変えずに答える。
 5歳年下の裕司は母が他の男と駆け落ちをしてから、母を許そうとしなかった。当時13歳だった裕司にとって、母が女として生きることを拒否したかったのだろう。弟の気持ちはわかる。だが小夜子は、弟が知らない母親の秘密の恋を小学生の頃から知っていた。だから母の駆け落ちがわかると「とうとう予想していたことが現実になった」と落胆と安堵が入り混じった複雑な気持ちになったものだ。
 19歳の夏に正幸に抱き着きながら、全てを吐き出すと、正幸は無言で小夜子を抱きしめてくれた。あの時正幸がそばにいてくれたから、小夜子は壊れなかったのだと思う。
 昼食のために病室を出た父に代わって、小夜子は父が座っていた椅子に腰かけて、母を見つめた。目じりにしわが増えてほうれい線がくっきり浮いている。恋多き母はすっかり老いていた。静かな寝息を立てている母に、小夜子は「私は一体どうしたらいいの?」と語りかけた。自由奔放に生きてきた母親を憎んでいたのに、悩みを打ち明ける日が訪れるとは、なんて皮肉なことなのだろう。

 正幸の元妻が正幸の性癖について知らなかったことがわかると、小夜子は以前よりも複雑な気持ちになっていった。
 彼の性癖を許してあげられない自分を責めたこともあったが、一番辛いのは自分が正幸の性癖を知って苦しんでいることを正幸が知っても、正幸がいつもと変わらなかったことだ。変わらないのは、小夜子との日常生活を壊したくないという優しさなのか、それとも女王様に心酔していることを知ってしまった小夜子に甘えているせいなのか。
 正幸の秘密を知ってからも、彼が自分の性欲のままに、小夜子に黙って女王様に会いに行くことが正幸の日課になっている。小夜子がそれを受け入れることができなくて、苦しんでいることを正幸は知らない。
「どうしたらいいの」
 ふとため息交じりの声を出してしまった。6人部屋の病室は母と二人の患者だけだが、どちらも外出が許されているせいか、病室のベッドには母だけが横たわっている。声が漏れても他の患者に聞こえるはずはなかった。
「お母さんに聞くなんて今まで考えもしなかったよ」と小夜子は母の掛け布団を引っ張って整えようとした時だった。
「大人の女になりなさい」
 母の声だった。驚いて母に近づくが、すうすうという寝息だけで、母の口から次の言葉がこぼれてくることはなかった。


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 非常階段で7階まで昇った小夜子は、ドアを押して7階の踊り場に出た。女王様のサロンは707号室だった。一週間前に正幸の妻と名乗って女王様に電話をかけると、「そんな人は知りません」と電話を切りそうになったので、「困っています」と正幸の性癖を受け入れられない自分の心情を素直に話すと、「わかりました」と小夜子の訪問を承諾してくれた。
 707号室の前に立ってみる。ごく普通のマンションのドアだ。小夜子は深呼吸をしてからインターフォンを押す。すると十数秒ぐらい経ってからやっと「どうぞ」という声とともに、ドアが開錠される音がする。
 ドアを開けると、小柄で痩せた女性がお辞儀をして、小夜子を迎えた。30代に見えるが、40歳を超えているかもしれない。漆黒のロングヘアを無造作に黒いゴムで束ねている。ジーパンに紺のブラウス、ベージュのカーディガンという普段着だった。
「こんにちは」でもなく「初めまして」でもない。動画で何度も見ているせいだった。挨拶の言葉を探していると、「こちらにどうぞ」と廊下の左側にある部屋に通される。奥の部屋には、大きな鍵穴のある古風なデザインのドアがあった。あの部屋が女王様の仕事場なのだろう。
 案内された部屋には2つのテーブルと椅子と大きな立体鏡があった。女王様は慌ててカーテン生地のような布で鏡を隠した。
「上杉といいます」とお辞儀した女王様は「何かお飲み物をお持ちしましょうか」と尋ねる。
「特にいいですが、もし出していただくのなら、それでも構いません」と小夜子。
 すると「どうぞ座ってください」と女王様が椅子を勧める。小夜子は女王様の横顔をそっと覗いた。
 ほとんど化粧をしていない女王様ともしスーパーですれ違っても、おそらく気がつかないだろう。どこにでもいるようなごく普通の女性だった。
「お聞きになりたいことは何でしょうか」とテーブルを挟んで向かい側に座った女王様に催促されると、「電話で話した通りです」とだけ答える。それきり言葉が見つからなかった。沈黙の時間が流れる。女王様はうつむいたまま、一言も発しなかった。
「あの、正幸とはどんな関係なんですか」。やっと小夜子が尋ねた。
「普通のお客様です」
「ここだけの関係ですか」
「もちろん、そうです。どのお客様に対しても」
 きっぱりと言い切った女王様に嘘はないと小夜子は思った。
「頻繁に来ていますよね」
「そうでしょうか」
 女王様がとぼけた。「個人差がありますから。時期も関係あります」
「時期って、何ですか」
 小夜子は身を乗り出した。自分が知らない正幸の秘密を女王様が知っているかもしれない。
「例えば、お子さんがいらっしゃる方はお子さんの受験のストレスとか。サラリーマンのお客様なら栄転したけどプレッシャーが溜まるとか。他に両親の介護とか、いろいろです」
「正幸はなんだと思いますか」
「よくわかりません。ただ定年に対する不安を話しています」
 定年後は関連会社で最低5年間は働くと言っていたはずだった。不安はないと思っていたのに、でも女王様には打ち明けている。
「私には何も言っていないです」
 すると女王様は「失礼しました」とうつむいてから、顔を上げて小夜子を見た。
「男性がどうして家庭に戻る前に、飲みに行くと思いますか。家庭に不安やストレスを持ち込みたくないからです」
「それは女も同じよ。働く女性は特にね」
「失礼しました」
 女王様が謝罪すると、きつい口調だったことに気づいた小夜子は「ごめんなさい」と頭を下げた。すると女王様はぽつりとこぼす。
「何かのきっかけでこちらにいらっしゃって、縁があって常連になってくださいますが、みなさんはある時期を境に、縁が遠くなっていきます。人間ですから、人生のいろんな事情が訪れます」 

 老人になって体力が続かなくなることを言っているのだろう。でも体力がなくなっても執着心があれば、やっぱり女王様が恋しくなるだろう。だから縁が消えない人もいるかもしれない。
 小夜子は頭の中が次第に混乱していった。女王様に会えば、正幸の性癖を受け入れられるかもしれないと思ったが、受け入れるどころか、ますますわからなくなっていく。小夜子は頭を抱え、ため息をついた。
「やっぱりお茶を持ってきますね」
 女王様が立ち上がって部屋を出ると、お湯が入っている透明なガラスのティーポットを持ってきた。ポットにティーバックを入れると、真っ赤な色に染まった。女王様のリップスティックとヒールの色と同じだった。
「ローズヒップティーです。ビタミンがたっぷりなので美容にもいいですよ」

 お茶が入ったカップを差し出してから、女王様は大理石の大ぶりのテーブルに移動して、カードをシャッフルしていった。しゃかしゃかという音が響く。まるで自分が世界の中心に向かって呟いているような音だ。それから並べる音とカードをめくる音が続く。
「素晴らしいカードが出たわ!見てください。恋人のカードです」
 立ち上がった小夜子は、女王様のテーブルに近づいた。女王様はタロット占いをしていたのだ。
 楕円のような配置で並ぶ複数のカードのうち、真ん中には裸体の男女が手を取り合っていた。その頭上には天使が両手を広げて祝福している。
「勝手なことですが、ご夫婦の将来を占いました。恋人のカードは末永く幸せになるという意味です」
 小夜子はディジャブを感じた。どこかで見た光景だった。

「それは私たちが老夫婦になって、正幸が女王様に執着しなくなってから、仲の良い夫婦になるということなの」
 我ながらものすごい言いがかりをつけたと思った。「そんなつもりはありません」と女王様が小さな声で否定をする。
「私はただ、お二人が幸せになるというカードが出たことが嬉しくて。それだけです」。
 頭がぐらぐらと揺れた。夢の続きはここだったのだ。
「裸体の男女は、正幸と女王様の未来でしょう。だってこのカードがエロスです。エロスは私たちにありません」
 その瞬間に怒りや嫉妬、悲しみ、そして正幸との20年間の思い出がどっとあふれ出てきて、小夜子は思わず、恋人のカードを手に取って、女王様に投げつけようとした。その瞬間、わかったのだ。母が病室で戒めた言葉を。
「大人の女になりなさい」という本当の意味を。
 女王様が悲鳴を上げた。唇が大きく開くと、薄化粧でも色っぽい。小夜子はカードを持ち上げた手を別の手で抑えた。そして静かにカードを元の位置に戻して、息を整えた。
「私も少しタロットの知識があるので、カードの意味がわかります」
 自分に欠けていたのは母性だったということを、小夜子はカードから読み取った。


 正月休みが終わって仕事始めという日常が戻ってくると、正幸は定年を迎え、職場を去った。定年のお祝い会の翌日に二日酔いになったと寝込んだ正幸が、翌日の休日は午後から出かけると小夜子に伝えた。
「いってらっしゃい」と小夜子はにこやかに正幸を送り出した。女王様に予約を入れていることをとっくに知っていた。最近は一週間に一度は正幸のスマホをチェックするが、それは正幸の予定を知るためだった。

 女王様のマンションを訪問した翌日に、母は眠るように亡くなった。葬儀には生前母を愛していた男性たちも弔問にやってきたので、小夜子はしっかりと心に刻みつけようと彼らの一人一人の顔をじっと見つめた。
 焼香をあげながら、奔放に生きた母親は、愛に素直に生きた人だったと思思えるようになっていた。恋が終わると愛情も冷めてしまう。時には恋とは短い命そのものと知っていたのかもしれない。
 母の葬儀が終わってから、小夜子はしばらくぼんやりと過ごしていた。新人の森永が「ちゃんと喪に服してから復帰してくださいね」と心配してくれたが、余計なことを考える時間がないように、仕事に専念するようにしていた。正幸からねぎらいの言葉があったような気がしたが、思い出せないでいる。
 いつしか正幸が女王様のサロンに通うことに対しても、「どうぞ」と心から送り出せるようになった。それは赦しとはまた別の感覚だった。まるで母親のように正幸を受け入れられるようになると、小夜子は精神的に救われたように思えた。

 いつものように正幸を送り出してから、小夜子は掃除機をかける。最近は一人で掃除することが増えたなと気づいた時に、掃除機が突然動かなくなった。
 「故障かしら」とネットで掃除機のマニュアルを調べているうちに、独身時代のことを思い出す。もし電化製品が故障したら、ボーイフレンドたちに電話をしてすぐに対処してもらっていただろう。「やっぱり掃除ロボット、ルンバかな」といえば、量販店についていってくれただろう。でも今は誰もいない。
 事実婚の夫は女王様がもたらす命の喜びを感じている。一瞬で燃え尽きたい、命を捨ててもいいと今ごろ狂おしい気持ちで恍惚感に浸っていることだろう。命を燃やしている彼の心に、自分はいない。

 壊れた掃除機を納屋にしまっていると、木漏れ日がキラキラ光る樹木のトンネルを自転車で走って正幸が待っていた別荘と、19歳の夏のことが鮮明な記憶として思い出された。私に夢中になって、妻と離婚までした正幸は確かに私を愛していたと小夜子は思う。
 ふと納屋の奥にある段ボールの蓋が空いているのを見つけた。大みそかに掃除を中断したせいで、納屋の奥が散らかっている。
 中断したのは、大みそかに宅急便のハプニングのせいで掃除が遅れてしまったからだ。女王様と約束をしていた正幸は掃除を中断して出て行った。一人ぼっちで大晦日の掃除の続きが嫌になった小夜子は、10年ぶりに実家で大晦日と新年を迎えた。段ボールの蓋は、その時から開きっぱなしだ。
 蓋を閉めようと段ボールに駆け寄ったが、まるでやる気がしなかった。
 夫婦の日常生活には正解がないという。では今の自分と正幸には日常生活があるのだろうか。女王様との行為に命を懸けていることが、彼の日常なら、そこにいない自分は蚊帳の外にいる飾りだけの妻だ。そこに幸せはない。
 20年前の夏には彼と一緒に命を燃やしていた。恋という名の命を。でも今は彼は別の人と命を共にしている。
 「終わったわ」と小夜子は呟いた。
 それは失恋という言葉からかなりかけ離れていた。単純に終わったのだ。段ボールに蓋をしない二人には、恋という命の交流がなくなっていた。
 涙が頬を伝わったが、一滴流れてからすぐに乾いた。私も命を感じる恋をしたい。それを日常と言いたい。するとまたディジャブ感覚が蘇る。ミルクとバニラの香りのことを話しながら、温かいミルクを作ってくれた優しい男のことを思い出した。
 小夜子は電子手帳を取り出して、休みの日を確認した。そしてホテルに電話をすると、支配人の大和の優しい声が飛び込んできた。
「来月の最初の金曜日に一泊したいんですけど」
「お二人ですか」
「いえ、一人です」
 小夜子はディナーを頼み、メニューを大和が教えてくれると、自然に笑みがこぼれた。
「今度は予約通りに到着します」
 自分でも驚くほど、声が弾んでいた。




※「眠れない夜」は女性サイトWomeで2017年12月24日から2018年2月25日まで配信された恋愛小説です。
都会で生きる女性たちの光と影がテーマです。東京で成功を手に取ったかにみえる女性たちの影の側面を、恋愛を通じて描いています。連載中にサイトアクセス数トップになったこともありました。
Womeは2021年3月31日にクローズしたため、noteで再現しています。
第一回目はこちら

最終回のトップにこれまでの物語のURLが記されています。


「眠れない夜」のseason2をnoteで執筆することにしました。ぜひ応援してください!

#創作大賞2023 #恋愛小説部門


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