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外国ルーツの人にきく [食べたら元気になるごはん]第4回(後半) アトゥーさんの「豚肉と発酵タケノコのカレー」

この記事は、インド・ナガランド州出身の宮島アトゥーさんの記事のつづきで、第4回の後半になります。
「豚肉と発酵タケノコのカレー」のつくりかたは、前半部にあります。
まずは、第4回の前半からお読みください。


インド・ナガランド州出身のアトゥーさんにインタビューさせてもらったのは、2021年11月末です。

新型コロナウイルスの感染拡大以降、初めての取材となりました。

アトゥーさんとは、この日が初対面でもありました。

もしも、自分が逆の立場だったら……と思います。

こんな時期に、初対面のよく知らない人を、自宅の、しかも台所にまで招き入れ、料理をふるまうなんてできるだろうか?

いやあ……無理かも……?と、ちょっと考え込んでしまいます。

よく受け入れてくださったなあと、感謝の気持ちでいっぱいです。

インタビューを終えた今、
アトゥーさんのこの寛容さと優しさは、
もしかしたらナガランドご出身であることや、
キリスト教徒であることとも、関係しているのかもしれないと思っています。


茨城のTさんのこと

今回のご縁は、一枚の新聞記事の切り抜きからはじまりました。

2019年10月の記事で、茨城県で喫茶店を経営する、Tさんという女性のことが書いてあります。

Tさんは、お店が休みの水曜日、茨城県牛久にある東日本入国管理センターへ出かけ、そこに収容されている外国籍の人たちと面会し、お話を聞き、差し入れをするというボランティアを、毎週毎週、もう20年以上も続けておられる人です。

「大事な記事」がとってある封筒の中に、その切り抜きは入れてあります。

ほんとうにすごい人、偉い人って、こういう人だなあ、と思います。

「どうやったらそんなことが、そんなにも長く、続けられるのですか?」

いつか、もしもお会いすることが叶うなら、そううかがってみたいと思っていました。

でも、実際にお会いできるようなことは、ないだろうなあとも思っていたのです。


2020年の春ごろから、日本でも新型コロナウイルスの感染拡大がはじまりました。

私もいろんな予定がなくなって、ライフワークにするつもりのこの企画も、進めることが難しくなっていました。

どうしたものか、と部屋にこもりつつ考えていたある日、例の封筒から取り出したTさんの記事を何気なく眺めていて、ふと思いつきました。

Tさんの喫茶店に行ってみよう。

今なら時間もあるし。

すいていそうな午前中に行って、どんな喫茶店かを見てくるだけでもいい。

その喫茶店に行ったら、Tさんのことが少しだけでもわかるかも。

そんなわけで、2021年4月のある晴れた日に、早起きして、茨城のTさんの喫茶店へ向かいました。

道路の脇の、木立のようになったところにあるその喫茶店のまわりには、シャクナゲ、エビネ、クレマチスなど、春の花々がのびのびと咲いていました。

店内はゆったりとしたつくりで、新緑の隙間を通る日差しが、窓からやわらかく差し込んでいました。

しばらくして奥から出てこられたTさんは、ほがらかで、笑顔が明るくて、威張ったところのちっともない方のように見受けられました。

私はなんとなく、眉間に力の入った、少し怖い感じの方を想像していたかもしれません。

もしそうだったら、話しかけるのはよして(遠くからお姿を拝むだけにして)、コーヒー1杯だけ飲んで、そのまま帰ろうと思っていたのです。


その日、思いきってTさんに話しかけたことが、今回の取材につながりました。

ずっとうかがいたかったことをきいた私に、Tさんは「そうねえ」と、少し考えるようでした。
それから私の企画の話をすると、「あら、面白そうじゃない」と言ったあと、こう言われました。

「肩肘はらずに、楽しんでやったらいいのよ」

その居心地の良い喫茶店で、私はコーヒーをおかわりし、早めのランチにビーフシチューもいただきました。

帰り際にTさんは、私の住む町の近くにある教会の、ひとりの牧師さんを紹介してくれました。
入管での面会のボランティアを一緒にやっている方で、在日外国人の方々の支援もされているから、会いに行ってみたら、と。

後日、電話をして、Mさんというその牧師さんに会いにいきました。

「Tさんのご紹介なのですね」と、Mさんは心良く受け入れてくださいました。
「そういう企画でしたら、僕も協力しますよ」

そしてMさんは、実際に、すぐに力を貸してくれました。
最初にご紹介くださったのがアトゥーさんで、実はアトゥーさんとM牧師は、ご夫婦なのです。

今回の取材は、東京郊外の教会の隣りに建つ、牧師館にお邪魔しました。

ここがアトゥーさん家族のお住まいで、この牧師館の台所で、ナガランドのカレーを教わりました。


アトゥーさんも、なんとも不思議なご縁で、日本にいらっしゃったのです。


お待たせしました。

ここからは、アトゥーさんご自身のお話です。


 *  *  *


日本に行くなんて、考えたこともなかった


どういうきっかけで日本に来たか?
この話をすると、ちょっと長いですよ(笑)。

私はずっと、教育分野に関心があって。
デリーの大学でも、エデュケーショナル・サイコロジー(教育心理学)を勉強していました。

特に、フィンランドとか、ノルウェーとかの教育がすごく好きで。

インドの幼児教育って、ほんとに「勉強!勉強!勉強!」みたいな感じです。
そういう考えが、変わればいいのにと思っていて。

それで、スカンジナビアの方に勉強に行こうと思って、ビザの申請をしていました。

でも、ビザが取れない状態が、2年くらいつづきました。
何かを持っていくと、何かが足りない、またそれを持っていくと、今度はまた別の何かが足りない、という感じで。
そのたびに、いろんな書類を揃えたり。
そういうことがすごくストレスになってきて。
やっぱりもうダメなのかな、と思うようになっていました。

ここから、また別の話になるんですけど。

インドにいる私の叔母が、あるとき、たいへんな目に遭った日本人と出会いました。
インドの電車で、パスポートとかお金とかぜんぶ盗まれて、困っていたらしいです。

叔母は、その人を助けてあげました。
そうしたら一年後くらいに、その人から連絡があって。
「お礼に日本に遊びに来てください、こちらでぜんぶ面倒見ますから」って。

叔母は子どもがまだそのとき小さかったし、そういうつもりもなかったから、断っていたけど、何度も言われているうちに、ふと、私のことを思い出したらしくて。

そういえば、アトゥーが海外で勉強したいのに、ずっと行けなくて困ってるんだったわ、って。

それで、日本も悪くないんじゃない?と思って、私に言ってきたんですね。
「アトゥー、もしかして、日本はどう?」って。

私は日本に行くなんて、考えたこともなかったので、
「ええ〜っ!?」、って(笑)。

でも叔母に言われて、日本のその人に直接連絡してみたら、教育関係の人だったんです。
兵庫県加古川で、塾を経営している人でした。
インドのことが大好き、みたいな人で。
私が自分のことを話したら、喜んで、ぜひぜひ来てください、みたいな感じになって。

私も、急に人生が、パタッ、と変わりだしたみたいな感じで。

他の人からは、日本の方が、ヨーロッパよりもビザを取るのが難しいよ、と言われてたんです。

でもアプライして3日後には、もう許可が降りました。
紙を一枚出しただけで、すぐにオッケーになったんです。

22歳のときです。

日本では兵庫県のこの方の家に、ホームステイさせてもらいました。

昼間は神戸にある幼稚園で研修をして、夜は塾で子どもたちに英語を教えたり、日本語を勉強したりして、3ヶ月過ごしました。

このときに、栃木にあるアジア学院というところから、うちに研修にきてください、と声をかけられて。
いったん帰国して、春からそこへ研修に行くことにしました。

1995年のお正月に、インドに戻りました。
その2週間後、神戸にすごく大きい地震が来て……。

ちょうど私が通っていた幼稚園のあたりが、被害に遭ったんです。

三宮とか、あのへんです。

1995年の3月に、また日本に来ました。
栃木のアジア学院の人が、空港まで車で迎えに来てくれてたんですけど、なんだかものすごい渋滞で。
運転していた人も、東京は渋滞するけど、ここまでの渋滞って、今日は一体どうしたんだろう、って言っていて。
救急車も走ってるし、なんだこれ?みたいな感じで。

あとで、それがサリン事件だったとわかりました。

アジア学院はキリスト教の学校で、いろんな国から、リーダーシップのトレーニングに来ています。
年齢もバラバラ。
教会で働いている牧師とか、学校の先生とか。
女性のための援助をしている人とか。

生活は農業中心なんですけど、農業を勉強するというより、農作業しながら、食べものの大事さを学ぶという感じです。
私は農業とか、やったことないので辛かったですけど、良いことを学べたと思います。
共通語は英語なので、ここでは日本語は覚えられないですけど。

アジア学院のことは、ナガランドにいたときから知ってましたから、有名ですよ。
ナガの人も毎年行きます。
ナガの人は、99パーセントがキリスト教徒なんです。
子どもの頃から、日曜日は家族で教会へ行きます。

アジア学院には9ヶ月いて、日本人の夫とも、そこで出会いました。
でも、そのときは、結婚しようとか、そんな気持ちは何もないですよ。
普通の友だちでしたから。


ナガランドに、日本のスタイルの幼稚園をつくる

アジア学院での研修を終えたあと、インドに戻って、ナガランドに幼稚園をつくりました。
日本のスタイルの幼稚園です。
25歳くらいのときです。
2、3部屋の、小さい幼稚園ですけど。
それがたぶん、そういうスタイルの、初めての幼稚園だったと思います。
ただ遊ぶだけの幼稚園。
そういう幼稚園がなかったので。
そのときは、私たちの町にも、やっとこういう幼稚園ができたのね、という感じでした。
今は、たくさんそういう幼稚園があります。

インドの幼稚園は、遊ばないんです。
幼稚園から、ABCD・・・・・です。
算数もはじまります。
インドは日本よりも、ずっと競争が激しいです。
私自身が子どもの頃も、そんな感じでした。
バリバリ勉強するんです。

私がつくった日本スタイルの幼稚園には、最初の年に、15人くらい来て。
次の年は60人くらいだったかな。
世界を知っている、能力の高い親の子どもが多かったです。

大学時代、フロイト、エリクソン 、フレーベルなどを読んで、書いてあることが、インドのやり方と全然違うな、と思いました。
子どもは遊びながら学ぶ、とか。
先生は教えないで、見守る、とか。
だいぶインドの教育とは違うなと思って。
どうしてインドではこういうやり方でやらないんだろう、やったらいいのに、と思って。
今では、インドもけっこう変わってきたんですよ。
そういう学校も増えてきて。


なんか、神さまに呼ばれている感じがしたんですよね


夫はネパールに友だちがいて、その人に会うために、インドに来たことがあったんです。
それで、私も会うことになって。

そのときに、彼は「牧師になりたいけど、自信がない……」という話をしていました。

私、日本にいたときに、日本の教会にも行ったんですが、おじいちゃんおばあちゃんばっかりで、牧師さんとかもあんまり元気がないし……。

そのとき、なんか、神さまに呼ばれている感じがしたんですよね。
「心が痛い」、みたいになって。日本の教会のことを考えると……。

日本の教会、なんとかしないと、このままなくなっちゃうんじゃないか、みたいな……。

そういう思いがあったので、彼が「牧師になろうか、それとも農業をしようか」という話をしてきたときに、思わず、
「ぜひぜひ、牧師になって!牧師になって!」
と強く声をかけました。

「でもそれは大変なことだから、自分ひとりだと、自信がない……」
みたいなことを彼は言っていて。

「私もお祈りしてるから!」と言っていたら、
どんどんなんか、「一緒にやろう?」みたいな感じになっていって(笑)。

「一緒にやってくれるならがんばれる、やれそうな気がする」
みたいに言われて。

でも、私もナガランドで幼稚園をはじめたばっかりだったし、すごく迷ったんです。

幼稚園をつくるというのが、ずっと夢だったので。

だから、すごく迷って。

両親に相談したら、幼稚園はもうはじまったし、このまま友人に託せそうだし、教会をつくるというのはすごく大事な仕事だから、日本に行きなさい、と言われました。

母方の祖父が、ナガランドにいっぱい教会をつくった人なんです。
パイオニアで、アメリカの宣教師たちと一緒に、そういうことをやりました。
亡くなって何年か経ちましたけど、今でも地元で有名な人です。

だから私の家族は、
「教会をつくるというのは、人生にとっていちばん大事な仕事だから、行きなさい」って。

あれだけがんばって、2年間ビザを申請しつづけてもヨーロッパには行けなくて、そのあと日本にはすぐに行けたことや、そんないろいろなことを考えると、最初から神さまに、「日本に行きなさい」と言われていたのかな、と考えるようになりました。

それでも、はっきり「よし!」と決断して日本に来たわけじゃなくて、日本に来るときも、これでいいのかな?、ほんとうにこれでいいのかな?、という気持ちはずっとありました。

でも、もし行かなかったとしたら、それは悪いことをしたみたいな感じで、ずっと後悔が残るだろうなとも思って。

私が日本から帰国したすぐあとに、阪神大震災があったことも、すごく辛いことで、気になっていました。

2回目に、日本に着いたその日に、サリン事件があったというのも……、なんか、運命のようなものがあるのかな、と思いました。

2000年、27歳のときに日本に来て、結婚しました。
そのときは夫はまだ牧師じゃなくて、養護学校で働いていました。


最初は食べもののことが、けっこう辛かったかな

お客さんとして日本にいるのと、実際に住むというのは、ぜんぜん違うなと思います。
自分で生活していかないといけないから。
ホームステイしていたときは、なんでもおまかせで、出されたものを食べる、という感じだったけど。

最初は食べもののことが、けっこう辛かったかな。

いちばん最初に住んだのが、岩手の、かなり田舎の方だったんです。
夫がそこの養護学校で働いていたので。
岩手といっても盛岡じゃなくて、山の奥の奥の奥、みたいなところでした。

ナガランドの料理が食べたいと思っても、たとえば、骨付き肉も売ってない。
小さいスーパーがひとつあるだけのところで。
あとからミニストップがひとつできたけど、コンビニもないようなところで。

料理の仕方も、そのときはよくわかりませんでした。
近所のおばあちゃんが、料理を教えてくれました。
日本の普通のものです。
味噌汁とか、煮物とか、親子丼とか。
こうやってつくるのよ、って。

日本の料理もおいしいです。
でも、たまには、インドのものが食べたくなります。
私はスパイシーな、辛いものが食べたいけど、唐辛子とかもそこでは手に入らなくて。
スイーツをちょっと食べたいと思っても、お団子とかしかなくて。

そのときは、すごくホームシックになりましたね。

3年ほどで横浜に引っ越して、横浜だといろんなものが手に入るので、少しずつ大丈夫になってきました。

インターナショナルスクールと、日本の学校

横浜の教会で暮らしながら、夫は昼間は仕事、夜は神学校に、牧師になるための勉強に通っていました。
子どもができて、私は子育てをしながら、教会のお手伝いをして。

子どもが少し大きくなって、私もインターナショナルスクールの教員の仕事をはじめました。
月曜から金曜まではそこで働いて、週末は教会の手伝いです。

娘は2人いて、上の子はインターナショナルスクールに通いました。
私がそこで働いていたから、楽だから、という理由だけです(笑)。
途中で地元の学校に行かせようと思って行かせてみたけど、嫌だったみたいで、またインターナショナルスクールに戻りました。

下の子は逆で、地元の学校に行きたい、というので、最初からずっと日本の学校に通いました。

インターナショナルスクールと、日本の普通の学校では、教育はぜんぜん違いますね。

でも、どちらがすごく良い、どちらがすごく悪い、ということはないと思います。

日本の学校だと、みんなが、みんなが、というのが強いですね。
「みんなで一緒にしなきゃいけない」、という。

インターは、そういうのはないかな。
それぞれが、自分の好きなものを探して、それをやっていく、みたいな感じです。
ぜんぜん違う意見でも、受け入れられる、というのはあります。

日本の学校だと、みんなと違うことをしたり、ぜんぜん違う意見を言ったりすると、いじめられたりとか、いろいろあるから。

そういうところは、インターのほうが行きやすいかなと思う。

日本の学校のいいなと思うところは、がんばる、というところです。

自分のことだけじゃなく、みんなのことを考えながらやる、というところも、
自分勝手な考え方だけじゃなくて、良いところだと思う。

インドは、またぜんぜん違うかな。

インドはとにかく、勉強、勉強、で。

あとは、インド自体が、いろんな文化の人たちがいるところなので。
見た目も宗教も文化も違う人たちが、インドをつくっている。
みんなが違うから、それぞれに対してリスペクトはあります。

同じクラスの中に、イスラム教の子もいれば、ヒンドゥー教の子もいれば、キリスト教の子もいれば、仏教徒の子もいる。
見た目もぜんぜん違うし。
頭にターバン巻いている人もいれば、坊主の人もいる、みたいな。

たとえば日本の高校だと、みんなこのヘアスタイルとか、みんなこんな格好、とかいうのがあるけど、そういう感じはインドにはないかな。

違うのが当然だから。


英語で聖書を勉強するクラス


コミュニティー・バイブルスタディー・インターナショナル(CBSI)というのがあって、私は日本のナショナル・ディレクターをしています。
ヘッドオフィスはアメリカのコロラドにあって、世界中、77か国にあります。

聖書のレッスンを作って、バイブルスタディーのクラスを、いろんなところにオープンして、サポートするのが仕事です。

これは週末にやっていて、ボランティアですけど、私にとってはこちらがメインの仕事です。

今、ここの教会でやっているクラスは、日本人の若いお母さんが多いです。
英語で聖書を勉強するクラス。

CBSIは、プロテスタントも、カソリックも、キリスト教徒かキリスト教徒じゃないかも関係なく、みんなにオープンしていて。

幼稚園を併設しているので、そこに子どもを通わせているお母さんとか、近所の方とかが、来てくれます。

コロナじゃなかったら、いろんな国からビジターも来るんですよ。

最初は、英語をタダで勉強できるから、という感じで来てくれるんです。
テキストは聖書だけど、大丈夫?っていうと、タダなら大丈夫ですよ、っていう感じで。

でもそのうちに、実際にクリスチャンになった方もいるし。

最初は難しい、難しい、って言ってて、でもそのうちに慣れるし。
聖書の勉強はよくわからないけど、みんなといるのが楽しいから毎回来る、という方がいらっしゃったり。

人には言えないようなことを、ここでは話してくれて、一緒にお祈りしたりとか、いろいろあるんですよ。


みんな、大丈夫なのかな、って思うんです


ナガの人って、コミュニティーライフなんですよね。
なんでも、コミュニティーでおこなわれる。
日本も、田舎だと、また違うかもしれない。
岩手の田舎にいたときは、近所のおばあちゃんがうちに来てくれて、料理を教えてくれたり。

東京だと、隣りに住んでいる人が誰かもわからない。
そういうところが、ちょっと心細いかなあと思います。

キリスト教徒の人は、教会に行って、そこに教会のコミュニティーが一応あるから、そこまでじゃないかな、と思うんですけど。

もしそういうつながりも、なにもなかったとしたら。
ただ、仕事だけに来ていたとしたら。
仕事行って、帰って、寝て、また仕事行って、みたいな感じだったら、もしも熱を出したりしても、誰も声をかける人もいない。

職場の外国人の先生たちの中にも、けっこうそういう人がいるんです。
病気になったときの不安とか。
そういう経験して、びっくりして、すごくさびしい思いをして、辛くなって帰国する人がいたり。

みんな、大丈夫なのかな、って思うんです。

なにかあったとき、誰に助けてもらうのかな、って思うと、心配になります。

ナガランドでは、今はけっこう変わってきてるんですけど、近所の人は必ず知ってるし、いろんな人が家に来て、何か食べてたり、近所のおばさんがそのへんに立ってて、ずっと喋ってたりとか。
人と交わる機会は多いです。

どこかの子どもが泣いてたら、大丈夫?って普通に声をかけるような感じの。

そういうのが普通の感じなので、
そういうのがまったくないところって、怖い、ような感じがします。

でも、外国人だけじゃなくて、日本人にとっても、同じですよね。

そこは、さびしいかなあと思う。

他のところは、なにも文句ないかな。


結婚したばかりの頃は、帰りたい、と思っていたし、帰ったら、今度は日本に帰るのが嫌だな、と思ったりしてたんですけど。
今はもう、そういうのはないです。

今は、日本のほうが、自分の場所、という感じがしています。

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もちろん、インドにいる家族と会いたい、とかはあるけど。

20年も日本にいるから、あっちもすごく変わったし。
インドに帰っても、お客さん、という感じがあるからかな。


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