水の少女1

 その日は小雨が降っていた。
 ぼくはその日2か月前にクラスメイトになったばかりの高岡君と吉川君に暴力をうけ、痛む手足抱えて帰り道を歩いていた。4月に父親の転勤で田舎から東京に転校してきた僕をヨソ者として認識した彼らは、来年に控えた高校受験のプレッシャーからくるストレスのはけ口として僕を利用する事に決めたらしい。最初は小さないたずらやちょっとしたイジり程度だったものが、日に日にエスカレートし、あからさまな「イジメ」行為となっていった。
 活気に満ちた商業施設の隙間を歩きながら今日あったことや言われたことを思い返しているうちに、不意に感情が溢れて涙が頬をツ、と伝った。ぼくは流れる涙をそのままし、一人になりたい時にこっそり行く秘密基地へと足を向けた。そこはビルとビルの間の隠れ家のような空き地で、青々とした雑草が梅雨の小雨を受けてしっとりと濡れそぼっていた。所々地面がむき出しになっており、何か建設途中で放り出したような建築資材が点々と置かれている。東京に来てコンクリートとビルで埋め尽くされた世界の中で、この空き地だけが田舎と同じように「自然」と触れあえる唯一の場所であった。僕はいつものようにいつ設置されたか分からない建築看板を横目に柵と柵の隙間から空き地にそっと入り、資材の陰の濡れていない個所に腰かけて声を殺して泣いていた。

 どのくらいの時間泣いていたかわからない。ただ夢中になってあふれる涙をそのまま流していたら不意に声をかけられた。

「きみ、だいじょうぶ?」
「あんまり…大丈夫じゃ、ない。」
「…どうしたの?」
「いえ、えっと、あの…どなたでしょうか?」

 彼女の名前は祥子、といった。あまり見かけないセーラー服を着て、胸のあたりまである長い髪をそのままおろしている。彼女もこの空き地にはよく来るらしいのだが、今日は僕という先客が居て、しかもおいおいと泣いている。そのまま帰ろうかとも思ったがなんとなく気になって声をかけたのだ、と一気に話し、
「まあ、私の事はいいじゃない。……それで、どうしたの?」
と言った。僕はすべてが突然すぎて考えたり逃げ出したりする間もなく、学校で暴力を受けていること、今年高校受験があるためみんながピリピリして近づこうとしないこと、自分も志望校に受かるか不安であること、両親は帰りが遅いうえに仕事が大変だからあまり話したくないことなど聞かれるがままに全てを話してしまった。一通り話を聞いた彼女は
「そっか…つらいね。私はきみのかわりにその同級生を殴ることもできないし、学校の先生になって学級会を開くこともできないけど、また嫌なことがあったらここにおいでよ。話ぐらいならきくから。」
と言ってくれた。そして少し逡巡してから
「きみが秘密を話してくれたから、私も秘密を話そうか。」と前置きし、

「あのね…私、水になるの。」

といった。僕が変な顔をしていると
「うん、えーと、とっても言いにくいし、頭がおかしい人のように聞こえるかもしれないけど、わたしは、水になるの。そのままの意味で。」
「みずになるって…あのウォーターの水?なるってどういう事?」
「そう、その水。なるっていうのはね、体が変化してくの。水に。毎日じゃないけど時々。時間が来るとね右手から順番に水になっていくの。私はね、なんとなく、あ、今日来そうだなーって感じるの。そうするとこの空き地に来るんだよ。」
「え、じゃあ、今日これから水になるってこと」
「うん。きっと。ぼちぼち来るんじゃないかな。」
「来るって…。それずっとそうなの?」
「うーん、ずっとではないかな。赤ちゃんのころはなってなかったと思うよ。私が一人で行動できるようになってから、かな。」
「お父さんやお母さんは知ってるの」
「多分知らないと思う。これまで人前で水になった事ないし。」
「水になった後はどうなるの」
「べつに。途中で意識が消えて、気が付くとこの空き地に居るよ。それで帰る。ただそれだけ。」
「…僕は帰ったほうが良いのかな」
「どっちでも良いけど、見たいんだったら居てもいいよ。私も自分が水になっていく過程ってちゃんと見たことないし。ただ水になり切るまでけっこうな時間がかかるから、適当な所で帰ったほうが良いかもね。」
「そんなことってあるのかな」
「疑うんだったらその目で見たらいいと思うよ。大体このぐらいの時間にいつも来るから」

不意に沈黙があり、それから
「あ、ほら、みて。」
と祥子が右手を出した。

目を向けると右手の中指の先が焦点が合っていないかのようにぼやけていた。しかし、徐々にそのほっそりとした中指が液体に変化していった。そしてゆっくりと中指の爪辺りまで透明になったかと思うと薬指、人差し指の先もぼやけて、そして同じように透明な液体になった。そのまま中指の第一関節あたりまで水になると、液体化した部分が水滴となりぽたり、と落ちた。

「ね、本当でしょ」
「うん…なんかすごいね。」
「私が君と話が出来るのは右腕が水になりきるところぐらいまで。それからあとは私もよくわからないの。」
「せっかくだから見てていい」
「どうぞ。見世物ショーにしては地味だけど。」

そう話している間にも祥子の体は徐々に水に変化しているようだった。中指の第1関節あたりがぼやけたと同時に人差し指、薬指も同じようにぼやけ、そして液体となって地面に落ちていった。

「最初水になったのはいつぐらいなの?」
「うーん、中学生の時ぐらい。6月とか7月とかそのころ。」
「こわかった?」
「そりゃ、ね。最初はなにがなんだかわからなかったよ。でも私が泣こうがわめこうが水になるのは止められないのね。そうこうしているうちに意識が消えていって、意識が戻ったらいつも通りの体に戻ってて。もちろんなにがなんだかわからなかったし、自分の頭がおかしくなったのかと思った。そういう病院に行こうかとも思ったけど、この事以外は日常に全く変化がなかったから、とりあえず保留にしているのね。なんていうか、この起きていることは私の意志とは全く関係ないことなのね。自然現象と同じで、雨が降って晴れる、みたいな。それがたまたま私の体で起きている、ってだけのような気がしているの。だから人に相談しても無駄かな、って。わかるかな。」
「うーん、分かる様な、わからないような。でも実際目の前で起きているから信じないわけにはいかないし…。夢の中っていうか、映画の中っていうか…あんまり現実感がない…。」

そうこうしている間に液体化は手の平にまで及んでいた。すでに4本の指はなくなり、親指の付け根辺りがぼんやりともやがかかったようになっていた。

「この水もね、ちょっと気になって集めて成分の検査とかしてみた事もあるんだよ。」
「え、どうだったの」
「それがね、普通の水。一番近いのは生理食塩水みたい。」
「せいり…?」
「生理食塩水。あの、汗とか、涙とかそういう体から出る体液。」
「なんか、まんまだね。」
「うん、だからやっぱり体がそのまま水になっていってるんだと思う。」
「自然現象。」
「そう、自然現象なの。」

そのあとは何を話すでもなく、祥子さんが液体化していくところをただぼんやりと眺めていた。その光景はあまりにも現実離れしており、まるで映画かドラマを見ているような感覚であった。
どのくらいの時間が経ったかわからない。祥子さんの液体化が二の腕の中ぐらいまで進んだころふいに祥子さんが声を上げた。
「そろそろ私の意識がなくなると思う。急にいろんなこと話しちゃってごめんね。たぶん、またここに来れば会えると思うから、気が向いたらまた会おうね。」
「うん、きっとまた来るよ。僕は何かしなくてもいい?」
「うん、なるようにしておいて。いつもはひとりだったんだから、大丈夫だよ。…あ、うん、それじゃ。」
そう言って祥子さんは微かに微笑んで静かに目を閉じた。
そのあとは呼びかけても体を揺すっても何の反応も返ってはこなかった。
僕は静かになった祥子さんが液体化していくのをただぼんやりと見ていた。
そして、不意に視線をそらしたとき祥子さんの体は忽然と姿を消していた。ぼくは驚いて狭い空き地の中を隅々まで探したが、やはり祥子さんは跡形もなく姿を消してしまったようであった。後にはただ湿った地面だけが残されていただけだった。

僕は雨の上がった薄暗い町を歩きながら、この数時間で起きたことをもう一度思い返していたがあまりにも現実感がなく、それが本当に起きたことなのか、それともあの空き地で僕が眠りこけて夢でも見たのか、いまいち確証が持てなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?