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「自分はウ〇コ以上でも、ウン〇以下でもない。紛れもない〇ンコ」

味噌汁をね、こぼしちゃったんですよ。机の上にビチャっと。

その味噌汁が器の元を離れ、机の上に移動した瞬間、その概念が「食べ物」から一瞬で「廃棄物」とか「生ごみ」になっちゃったんです。

お椀の中に少しだけ残ったスープ。「ごちそうさま」と言ってしばらくたったらもうそれは、汚い残り物になってしまう。ほんの数秒前まで、おいしく食べてたのに。

たしか養老孟司氏がおっしゃってたことだと思うんだけど、

唾液とかオシッコ、血液、垢、爪、もともと体内にある自分の物なのに、一瞬でも自分を離れた瞬間汚物となる。

ウンコとか自分の体内でみんな持ち歩いてるんですよ笑。肌身離さず。だけど体内から一瞬でも離れた瞬間、汚物となる。

産まれたての赤ちゃんなんて、物理的な解釈をすればある意味ウンコ製造機でしかないんです。

(小さな子供はウンコに対して自分の子供のような愛着を持つらしい。ウンコが出てくるマンガやキャラ、漢字ドリルが人気なのはそのせい。自分の唯一の生産物だし、排泄習慣は自立の一歩だから嬉しいんでしょうね。フロイトが主張する5つの心理的発達理論に肛門期という重要な時期がありますしね。)

大人にとって、ウンコは体内にある時はそこにあっても、まるで存在しないような扱いをしますが、ウンコを体内から、出した瞬間、その物理的意義がまるで違います。

ウンコにしてみればたまったもんじゃありません。
「自分はウンコ以上でも、ウンコ以下でもない。紛れもないウンコ」
それなのに体内にいるのか、体外にいるのか、それだけで、自分の存在価値や意義が否応なく変わってしまうのです。

善悪の概念もウンコみたいなもんで笑

周りの環境、時代、国によって正義の立場がまるで違います。

戦国時代、戦時中は、たくさん人を殺して自分の国を守った人がヒーロー扱いされますが、戦争が終わってしまえば時代の変化とともに罪人扱いされます。

日本では善の行いが、とある民族の中では悪とされていたり。

つまり、人間は脳の中で人や物、事、をいちいち仕分け分類作業をしているんですが、それは普遍的、絶対的なこの世の真理ではなく、単なる脳内の『便利な概念』でしかない

人は動物を、鳥類、哺乳類、爬虫類なんて仕分けしてますが、その境界線は自然界にはないことを忘れずにいたいですね。男女の境界線も遺伝子的に見ればちょっとの差だったりして

地図を見れば国境線が見えますが、その境界線は、人間の脳内でしか存在しておらず、自然界には物理的に存在していません。

札束だって動物からみればただの紙というかゴミですが、人間の脳内では物理交換できるチケットという共通概念があり、それでお金は存続し続けています。

もし、深刻な食料危機が訪れたら、食料がこの世で1番大事な存在になりますので
「お金なんかいらないから食料をくれ」ってなってお金が紙くずになるかもしれませんね。


「人」だってそうなのです。
「どの環境に置かれているか」でその人の人間的価値が変わってしまうものなのです。

ウンコやお金のように、その時の環境によって自分の価値や存在意義が変わってしまうのは仕方ないことです。

むしろそれを逆手にとって、自分が必要とされ、役に立ち、自分の価値を見いだせる、環境に身をおけばいいじゃないか、ってことですよね。それは甘えなんかじゃないと思いますよ。

必死になってがんばって自分を変えるのではなく、環境を変えてしまうのも一つの手です。それはとても器用な生き方ですね。

もちろん、自分の存在価値を高める努力、スキルアップは大事ですけれど、他人の土俵でがんばるなってことですね。
自分が活躍できる自分の土俵で努力してこそ実を結ぶんじゃないでしょうか?

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