私が思う優しさが、誰かにとっては破壊的でも貫きたい
かなり昔からのことなのだけど、自分の思う優しさが優しさとして伝わらないことが多々あった。
伝わることもあるが、肝心な重要なときに伝わらないという体験は多かった。
私は、自分自身に誠実であることが優しさだと表現は異なれど、感覚的には昔からそう思っている。
自分の心根に正直であることが誠実さであり、それはたとえ誰かにとって傷になるものでも、耳の痛いことでも、自分自身への誠実さのほうが大切だと、自分の実体験からしても心からそう思う。
(もっとも、昔の私は他人を傷つけることを避けて自分に誠実でいられなかった時も長かったのだけど。)
他人を傷つけることを過度に恐れるのは、過保護な現れだと思う。言い方を変えれば、自他共大切にしようとしすぎている。
健全には感じない。
過保護に関わった先にあるのは、バランスの崩れた人間関係だ。どちらかがもたれかかっている状態で、片側はもたれかかっていることに気づけないし気づかせようともしていない状態。
世にある虐待は、単にわかり易く殴る蹴るや暴言で傷つけることだけを言わない。
過保護すぎて傷つかないよう守りすぎることも、殴る蹴るとまったく同じく立派な虐待だと私は思う。
…
昔から、全然怒らないという人間に優しさを感じなかった。
これは時に手を上げるくらいによく怒っていた父親の影響もなくはないと思うけれど、
私自身が、どんな格好になろうと自分に正直でいないと気が済まないたちだった。
聞こえのいい言葉ばかりを並べて、
誰にも攻撃されないような防波堤を作るのは
さらには防波堤を作ってることすらバラさないのは
ただただ自分を守りたい人にしか見えなかった。
今思えば、何より自分の感情に嘘をついている雰囲気を感じ取ったからなんじゃないかとも思う。
本当に相手のことを、相手の人生を想うなら
本心は伝えるべきだと心から思う。
逆に言えば、
それほど相手に干渉したくなかったり
それほど人生に関与しないのなら
言わないままでも良いのでは、と思っている。
自分が今後も関わるであろう人とは、
本心を言ってもらわないと信じきることが難しい。
言わないということは、
相手より自分が大事なんだと感じる。
果たして、
自分より相手を思えてるのだろうかとつい考える。
…
思ったことは、何であれ何かしら表現し続けていたい。
話して伝えるでも、書くでも、泣きまくるでも、怒り散らすでも、笑いまくるでも、なんだっていい。
まったくもって、こんなの隠すことのほうがストレスになる。
きっと、昔は私が私で居られない時間のほうが長く、感情を殺して隠さなければいけなくてストレスだったから、大人になってからの私は昔の自分の反面教師で、そんなことはもう全部やめようとし続けているのだと思う。
伝えたところで関係が壊れるなら、それまでの関係だ。
壊れたあとでも修復の余地があったなら、縁がある。
縁なんて、所詮きっとそれだけのことだと思う。
本心を言えずに壊れるか壊れないかと、もどかしく恐れを抱きながら生きている状態の方が、私は違和感がある。
もしかしたら、いままで書いた私の思う優しさは、誰かにとっては破壊的で暴力のように感じる人もいるかもしれない、というか実際に居たけれど、私はそれでも、これが私の思う優しさだとこれまで貫いてきたように貫くつもりだ。
これに関しては、もう信念というか、そういう性なんだろうと自分でもう諦めた。
散々各職場できっと受け取る人から見たら破壊的になり得る優しさを表現してきたけど、人によって受け取り方は違う。
けど、中には私の意図と同じように優しさと受け取ってくれて共感してくれる人もいるし、違うと離れていく人もいる。
けど、それでいい。そういうものだ。
人との縁とは、本当にそういうもの。
縁とは、必要なときに紡がれたり生じたり滅したりする。
というか、必要なときに紡がれたり生じたり滅したりするから縁と呼ぶんじゃないだろうか。
自分が自分でいることで、面白みよりも、違和感や嫌悪感が勝つ人は自然と離れていく。
自分をおもしろいと感じる人や一緒にいて何か感じ取りたい人だけが残っていく。
そうやって生きた先に出来上がる世界のほうが、魅力的に思う。
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