スカートの中の戦争

見慣れた自分の家がまるで知らない建物みたいに見えて、その屋根が影を落とすところまで足を踏み入れるのにすこしためらった。
水色のリボンのついた新しいワンピースを身にまとったあたしはまるで別の女の子みたい。お姫様ができたわよとお店のママさんがにやにやしながらつけてくれたイヤリングが耳元をくすぐるみたいに揺れて、すこし大きすぎるそれに両側からやさしく引っ張られてるみたいでぼんやり頭が重かった。
身ひとつで自宅のアパートを引き摺り出されて以来ずっとお店で寝泊まりしていたあたしには鞄なんて与えられておらず、ローションやおもちゃを持ち歩くのに使ったカゴも帰宅のときに回収されてしまったから、古いくつと靴下を仕舞うものが手元になくて、あたしはそれらを片手にぶら下げてアパートの階段をのぼった。代わりに履いていたのは生まれて初めて足をいれた合革のバレエシューズ、蹠の生地が薄くて、鉄骨の階段の感触が直接伝わっておんぼろスニーカーよりいくらか歩きづらい。かん、かん、かん、乾いた音が一定のリズムで薄暗い踊り場を揺らす。歩きづらいのはたぶん靴のせいだけじゃなくて、からだのまんなかに鈍いような鋭いような違和感がずっとわだかまって、ありていにいうと脚のあいだに何かバネみたいなものが挟まってまっすぐに動かない、階段なんか昇るには気持ちが悪くて太腿も腰も重たくて、まるでたっぷり水を吸った綿でも詰め込まれたみたいだ。
一週間前このうちを出たときには光ったり消えたり瀕死の状態だった廊下の蛍光灯はもううんともすんともいわなくなって、暗がりのなかあたしは手探りでうちのドアノブをつかんだ。てのひらだけがなんだかとても火照っていて金属のノブがやたら冷たく感じた。そのまま捻るとドアには鍵がかかっていなくてすんなり開くけど、古くなって錆びた蝶番はいつも通りに鋭い悲鳴みたいな音をたてる。この音のせいでいつもどれだけ慎重に、こっそり家に帰ってきても絶対にお父さんに気づかれてしまうこと、今更ながらに思い出す春の終わりの夜だった。
「ただいま」
開き直って挨拶したら、自分でもびっくりするくらいよく通る声がでる。
ドアの隙間を大きくして玄関から覗くとすぐ卓袱台の前に座るお父さんの後ろ姿が見えた。あたしはそういう家しか知らなかった。声が聞こえていないはずはないのにお父さんはこちらを一度も振り返らないでテレビをみていて、その手元にはいつもの焼酎のボトルと垢にくもったガラスのコップがあった。あたしは古いスニーカーと靴下をあらおうと手に持ったそのまま、新しい靴を脱いで、ほこりっぽい畳を踏んで自分のうちへあがった。久しぶりに嗅ぐいつものたばこのにおい、カップ麺やお惣菜の容器をほっておいたにおい、穴のあいたふすま、散らかったお酒の缶、たった一週間しか経っていないのになんだかだいぶ長いこと留守をしていたような気がして、それなのに身体にはこのうちで過ごした十数年が、この肌の傷とおんなじ深さで沈着していて、いつもの癖で忍足、一歩一歩を爪先からそおっと着地して音を立てないようにお父さんの後ろを歩いた。お父さんはコップを握ったまま一度もこっちを振り向かないし、唯一見える耳元と首はいつも通りお酒で真っ赤になっていたのに、声だけはなんだか気持ち悪いくらい穏やかだった。
「買って貰ったのか」
お父さんは頭の後ろにも目がついていてあたしのすることを見ていなくても見えている。その能力は昔から、良い方向に使ってもらえるときもあったし怖い展開に転がることもあった。小さなころは前者のほうがけっこう確率が高かったとはいえ、それが嬉しくてたびたびちいさないたずらを思いつくことをやめなかったあたしはわりかし博打じみたことが好きなタイプだったのかもしれない。運が悪くても声を荒げるていど、機嫌のいいときはお酒臭い顔を近づけてあたしの髪をわしゃわしゃかき混ぜたり、腋の下に手を入れて抱き上げて布団に転がして笑いながらくすぐってきたり、してくれることもあったお父さんのその目は、あたしの身体が大きくなるにつれ、どんどん雨のあとのぬかるみみたいな鈍い光を帯びて、血走りはじめて、物音ひとつ立てただけでも、布団の上でもそうでなくてもあたしを突き飛ばして転がして、くすぐるより何十倍も強い力であたしの身体にたくさんの傷をつけた。あたしがいたずらなんかしたからお父さんの目は怖くなったのかもしれない。あたしが悪い子だったからお父さんは怒鳴ったりぶったりする人になったのかもしれない。小さい頃の記憶のなかのお父さんはいつも基本的には笑っていたい人だったような気がする。お父さんと一番たくさん一緒にいたのはあたしだから、お父さんのあたしに対する態度や気持ちが変わってしまったのならそれはあたしのせいだというような気がする。
お父さんとこの街でずっとお金の貸し借りをしていたママさんは、あたしの顔をみるとときどき半分同情したみたいな、半分愚痴をこぼすみたいな調子でお父さんの悪口を言った。お酒をのみすぎるのも色んな女の人を連れてきて目の前でべたべたひっつくのも、家のお金をあとさき考えずに遣ってしまうのも全部本当のことだったけど、あたしは一回も頷かなかった。

お父さんの目が、今、どんな風に動いているのかあたしにはよくわからない。ただ、うん、とむりやり発した声が自分でも思っていたよりだいぶ小さくてこれはいよいよ怒鳴られるのじゃないかと思ったら
「よかったな」
お父さんは相変わらず振り向かなかったけれど、そんなふうに単純な感想だけで会話を終わらせるのも、抑揚のない落ち着いた声もずいぶん久しぶりだった。それでもほんのついでのひとことで激昂させてしまうのがあたしの頭の悪さだったから、お仕着せみたいにまた肯定の返事をしてそのまま洗面所のほうにいった。それ以上の追求がなかったことにすこしほっとしたような、拍子抜けしたような気にもなるし、何か隠されているんじゃないかとか、急に襟首を掴みに来るんじゃないかとか、そんなわずかな可能性に胸がつかえて心臓がどきどきしているのも本当で、ひとまず掴まれる襟首無くしてしまおうと、あたしはワンピースの脱衣にとりかかった。今日は七人の男の人の相手をして、きっとその人たちはママさんに一万円札をたくさん渡したのだと思うけど、あたしのポケットの中にはそのうちのひとりが気まぐれでくれたジュースのお釣りの数百円、スカートをつまみ上げたらちゃりちゃりと音がして、その小銭の音にあわせてまたからだの下の方が重く鋭く痛んだ。小銭。あたしはポケットに手を入れてそれを握った。クラスの女の子の間で流行ってるヘアピンも、あそこを弄られて傷がついた時の軟膏薬も買える、半額シールの付いていないお弁当だって食べられる手のひらの中のずっしりしたお金を、ほんの数日きりで、あたしは小銭だなんて思ってしまうようになったんだと思ったら、なんだか本当に別の人になってしまったみたいだ。脚のあいだに誰かの器官を挿しこまれたことがあるのかどうか、そんな些細な手遅れがこんなにもたくさんの事情や感情を動かすだなんて、小銭、でも、家のなかのどこかに出しておくといつの間にかなくなっているはずだから、あたしはワンピースのポケットの奥底に仕舞っておくことに決めた。それはこの家のなかで本当に、本当に小さな革命だったのは確かだけれど、からだのまんなかの違和感は物理的にもこころの中からもいつまでも消えてくれず、もやもやと蟠った薄っぺらい吐き気をずうっと我慢しているようなきもちが自分の一挙手一投足にへばりついてしまっている。背中にチャックのついた服なんかはじめて着たものだから、苦心して金具の先に、指を引っ掛けて、おろしながらふと足のあいだに粘り気のある感触を覚えて下を向いたら、スカートの中から太腿に真っ赤な血が伝って今にも新しい靴下に届きそうになっていた。こんなにみっともないお姫様はいないだろうとあたしは思った。

それから半年が経った。

ある秋口の湿った朝に手術を受けた。いつもの仕事のときとまったく同じ格好をして変な形のベッドに寝かされたけれど声を出さないですむぶん仕事よりずっと楽で、なにか事前に用意された薬のせいもあっていつの間にかとろとろ眠ってしまった。目が覚めたらまだベッドの上にいた。白くてほこりっぽい天井のひび割れやしみを見るともなしにいつまでもながめていた。お布団は中身がつぶれて薄っぺらくぺしゃぺしゃしていたけどほつれていないしまっさらできれいで、お父さんのおしっこのにおいの取れないうちのお布団よりぜんぜん寝心地がよかった。鼻の奥に直接刺さるような消毒液のにおいと、なんだかよくわからないこの建物じたいに染み付いてるよその匂いとが混じりあって、小さいころから病院になんかめったに行ったことがないからもの珍しくて首を捻ってまわりを見渡して、そのまま上半身を持ち上げたらお腹の下のほうが内臓ごと抓られたみたいに痛くてあたしは思わず声をあげてそのまま枕に頭を戻してしまった。もう十年以上もルーティンみたいにいっぱい痛いを与えられてきて、痛いにはもう結構耐性がついていると思うのに、それでもこういう予想外の痛いにはちゃんと反応してしまう。痛いはかならずだれかといるときにやってくるものだから、ひとりのときは油断していた。痛いは、いろんな方向からあたしの心と身体の上に、ぼとぼと、落ちてくる。だけどひとりのときの痛いは自分でコントロールできるから、男の人といるときのそれよりだいぶましには思えた。

荒々しい機械に容赦なく持ち上げられたお尻、無造作に開かれた脚の間から差し込まれるつめたい感触がまだ腰のあたりにまとわりついてるみたいであたしはぶるっと身震いをした。あたしの体の中になにかが入ってくるのも、なにかが出ていくのも、いつもあたしの意思とはまったく関係なかった。

可愛いお洋服たくさん着せてあげるよと言われたはずなのに、お店では結局ずっと学校の制服を着たままだった。きたきりであんまり清潔じゃないし色んな人の汗やそのほかの体液がしみついてへんなにおいだってするのにずっとそれを着たままかわるがわる色んな男の人を受け入れて、はじめはそのたびに落ちてきて積み重なっていく痛いがまるでドミノみたいに不安定にあたしのなかに凝っていたけれど、そのうちそのままボンドで貼りつけられてはりつけて固まってしまったように、そこに鎮座してさいしょから在るみたいに、まるであたしの内臓の一部になってしまっていた。身体の表面にもともとついていた肌の傷のほうが痛いくらいだ。
制服を脱げなかったのは男の人たちが口を揃えてその方がいいと言ったからで、この傷がわからないよう真っ暗な部屋に放り込まれて、あたしの姿なんかさほどよく見えないはずなのに、なんだかその中で無理やり目を凝らして制服とあたしの顔を交互に眺めながら、やたら甘ったるく、あやすような声色の中に興奮を圧し殺して、痕がつくくらいきつく指先を食い込ませて、そうしてせっかく殺しているつもりの興奮をだいなしにするし、そうせざるをえない自分の行為そのものに、つまりあたしみたいな年齢の娘のからだを犯す罪悪感に、きっとどうしようもない昂りを覚えているのが、そのひとたちの脚の間のものの固さでよくわかる。
よく、わかるようになってしまった。

あたしの制服は、色んなひとと身体を重ねたせいで半分湿ったみたいになったその上から、更に色んなひとにもみくちゃに触られて、最終的にはもうよその洗濯屋さんにでもお願いしないととても着られないような有様になっていた。ママさんの言ったような「綺麗な洋服」着せてもらえたのはもうずいぶん時間が経ったあとだった。もうずっと前からお父さんが知らない男の人たちを連れてくることは何度かあって、そういうときはいつも年齢をいくつかかさ増して答えなくてはいけないきまりだったけど、ここでは正直に申告した方がずっと喜ばれた。男の人たちはいつも焦ったような手つきであたしの襟のリボンをとって、ボタンの千切れそうな勢いで首元から手をいれて、荒くてお酒とたばこの匂いのする息を吐きながらあたしの上にのしかかって、からだの色んなところを触ったり舐めたり、唇をくっつけて舌を入れたり他のやりかたで口をつかったりして、最後には必ずスカートを捲りあげて、下着を下げて、入れたいものをいれてむちゃくちゃに腰をふる。
はやくおわって。
はやくおわって。
はやくおわって。
はやくおわって。
はやくおわって。
呪文のように心のなかで唱えて目をぎゅっと閉じて耐えたのもほんの数回だけのことで、せまいところを無理やり押し広げられる痛みにもお腹の中の感触にも知らない人とするキスにもあたしはすぐに慣れてしまって、はじまる前と終わった後に心と裏腹の作り笑いをしてみせる余裕さえ出来ていたのだった。昔、お父さんに言われたことがある。生まれつきの売女だな。お父さんが連れてきた男の人たちに初めてさわられたのは十歳のときで、まだその人たちが本当に入れたかったものははいらなかったけど、なにかとてもいけないことをさせられているということだけは理解できてずっと身を竦ませていた。男の人が満足して出て行ってもどうしていいかわからずそのまま床にお尻をつけて座っていたら、お父さんはもらったお金をポケットに捻じ込みながら入れ違いに部屋に入ってきて、まだ着けていない下着の中を見られたくなかったためにようやく膝を揃えたあたしに、大丈夫だったかと訊いてきて、そもそも大丈夫じゃないなんて答える選択肢はない、お父さんの望む回答はいつでもイエスにきまっている、でも、そう答えたらお父さんはそのときたぶんすごく機嫌がいいのと、機嫌が悪いのと、ぐちゃぐちゃに混ざり合ったような顔になった。生まれつきの、売女。バイタという言葉の意味を知ったのはずっとあとになってからのことだったけれど、男の人にからだをいじくられてお金をもらうことにこんなに早く慣れてしまったあたしには確かにバイタの才能があるのかもしれない。お父さんには先を見通す力があったのかもしれない。男の人たちはあたしの身体の上でひととおり跳ねたあと、呻き声を出して最後に一度股間をぎゅうっと押し付けて、マラソンのあとみたいに長い息を吐いてから、まるで人が変わったようにあたしの中から出ていった。あたしはきつく下ろしていたまぶたをあげて男の人たちの姿を見上げる、夢からさめたような顔をしている人もいるし急につめたくよそよそしくなる人もかえって優しくなる人もいるし、コンビニの店員さんに言うみたいにありがとうなんて笑う人もいるし、そういう人に限って終わるまでは気がちがったようにあたしの名前を呼び続けて首や顔に舌を這わせてよだれをたくさん残していたりする。
化け物がヒトに戻ったあとのしらじらしい時間のなかで、男の人たちはすっかり縮こまったあれをあたしの穴から無造作に抜き出して、にゅるっと取り除かれるような感触のあとやっとあたしはひと心地ついたような気持ちになる。ごく稀に限られた時間のなかこのままもう一度と挑んでくる人もいて、そういうときは大袈裟かもしれないけれど、やっと這い上がった洞穴の底に再び突き落とされたみたいな絶望的なきもちになった。あたしの意志と相反してかわるがわるせきたてられる行為の合間に、まだあまり育ってくれない器官の中に男の人の欲望の集大成が音もなく放出されて、ときどきお腹の奥がうずうずぎゅうぎゅう締め付けられるような握り潰されるような鈍い痛みを感じながら身体を持ち上げたら、位置の変わったお尻の隙間からとろとろと生白いへんな匂いの体液が漏れ出てシーツ代わりのタオルを汚した。
そうやって、数え切れないくらいのお客さんをとって、気づいたらお腹に赤ちゃんができていた。

「だってまだ来てると思わなかったのよ」珍しく気まずそうな、だけどちょっと忌々しそうな顔をしながらママさんはそういって、おねえさんたちが働くお店や飲み屋さんの入った古い雑居ビルの最上階の薄暗い病院の前でお財布からたくさんのお金を出してくれた。それはにごった目をしたお医者さんの白衣の懐にまるごとしまいこまれて、当たり前だけど一円もあたしの手の中には残らなかった。いつだってそうだ。お金はいつもあたしの身体の上のすれすれを通り過ぎていくだけで、一度もあたしのものにならなかった。その代わりになるのかどうか、看護師さんから袋いっぱいの痛み止めをもらって病院を出る頃には、明るかった空はぶあつく曇って澱んだ紫色の雲が顔の上にみっしり凝り固まっていた。すこし前までのあたしなら一刻も早く家に帰ってうちの片付けをしたりお父さんのお酒やお風呂を用意しなくちゃならなかったけど、最近うちに帰ってもお父さんと顔を合わせることじたい格段に少なくなっていた。それは単純にお互いの生活リズムが変わったせいでもあるだろうし、それともあたしが体を売ったお金で遅くまで外にお酒をのみにいく余裕が増えたせいかもしれない。
このまま、あたしか、お父さんか、どちらかがふいと相手の目の前から消えてしまうのも時間の問題なのだろうか。ぼんやりそんなことを想像して平然としている自分自身にちょっとだけびっくりする。あたしは昔からお父さんがいなくなるのがこわかった。お父さんがお酒を飲みに外に出て行くたびにお母さんみたいにそのまま帰って来なくなるんじゃないか、大きなお仕事や、新しくつきあう女の人との関係の邪魔になって、だんだん帰って来る日がへって、あたしはいつのまにか棄てられて、お父さんと離れ離れになってしまうんじゃないか、漠然とした不安は学校の教室のカーテンみたいな大きなドレープになってひろがり、夜になると闇といっしょにひたひた部屋の中に押し寄せてあたしの心臓を包んで、締め付ける。数日の留守が続くと日毎に目減りしていく生活費とともにあたしの心まで削られていくみたいだった。
いっぱい殴られても蹴られても、痛い事をする男の人たちに紹介されても、借金の身代わりに差し出されたあのときも、あたしはなによりお父さんと離れるのが怖かった。あたしたち離れ離れになっても、お父さんかあたしか、どちらかが突然に家族をやめてしまっても、お父さんにもあたしにも何の問題もないのなら、いままでずっと折角我慢した痛いことが全部ばかみたいで、そんなのってあんまりにも惨めだ。だけどいまはあんまりそんなこと考えなくなった。どんなに怯えていた壁でもいざ飛び越えてしまって振り返れば、拍子抜けするほど低くてまるでおままごとみたいなのだ。それどころか、お父さんのあのうしろの目の届かないところでの毎日に、ちょっとした解放感みたいなものすら覚えている。慣れない靴の先であたしはすこしだけ足先をもごもごさせて、いつも狭い箱みたいな部屋で縮こまっている筋肉をちょっとだけうごかした。それ以上調子に乗って伸びをしたら体の真ん中にずきんと刺激がやってきそうで、あたしはそれは怖くてできなかった。あの、お腹の中に直接手を差し込まれてぎゅうっと掴まれるみたいな鈍くて暴力的な痛みは、ほんの数時間であたしの身体のうえに無数に残る傷痕や痣みたいに、深く深く刻み込まれてしまった。

最近いつも車にのせてもらってばかりだから、自分の足でこのあたりを歩くのも久しぶりだった。生まれ育ったこの街をあたしは一度も出たことがない。小学校の修学旅行はうちにお金がないのを知っていたから行かなかった。親戚にあたる人たちとはお父さんもお母さんも縁を切っている。だからほんとうに一度も出たことがないのだ。それなのにどうしてだろう、ひどく鮮烈に、この街の空の分厚さを、下を向いて歩いても首のところに重たくのしかかってくる空気の圧力を知っている。四方八方から押しつぶされそうな息苦しさを、プールの中から出てきた瞬間の耳の詰まったような閉塞感を、あたしはいつもこの街に感じている。病院の待合室のテレビでみた今日の天気予報は大粒の雨。街の向こう側の屋根の群れは重苦しいガスの塊みたいなねずみ色に塗り潰されて、あべこべに真っ白の、たっぷりと水を含んだ密度のしっかりした雲がまるでさっきまで寝ていた病院の天井みたいに低くのし掛かってきていた。

街の中でもすこしきれいな格好をしている人が多く買い物をしている通りに出た。普段ならなんだか道を歩く人がみんなばかにしたような目で通り過ぎていくような被害妄想にかられてしまってとても来られないけど、今日は一張羅のワンピースを着ているからなんだか少しくらい堂々としていてもいい気がして、あたしは丸めていた背中をすこし伸ばし、大股に颯爽と街並みを歩いた。家の近くやお父さんの行きつけのお店とは違ってガムや嘔吐物のあとでよごれていないきれいなアスファルト、ときどき石畳みたいに模様が変わって足の先っちょだけで迷路を遊んでいるような気持ちになる。狭くて低い空の下で精一杯に虚勢を張って、すれ違うベビーカーのお母さんや、スーツのおじさんや、身なりの綺麗なおばあさんの視線に知らんぷりしながら歩く。どうせみんな等しくどこかであたしみたいな女の世話になっているんだから。そんな意地悪な気持ちのひとかけらすら、心のどこかにわだかまらせる、いやな人間にあたしはなってしまいつつあった。空は相変わらず、せっかく伸ばしていた首筋をくの字に圧迫してくるみたいなどんよりしたお化けの呪いにも似た重みを保っていた。
曇り空の下にいつも鮮やかな色がちらばる花屋さんを通り抜け、甘ったるい匂いを振り撒くパン屋さんの隣を過ぎて、曲がり角を左に曲がった先には昔から怖い顔をした店長さんがずっとはたきをかけて眉間に皺を寄せ、あたりにずっと睨みを利かせている古い本屋さんがある。漫画や雑誌も目立つところにほんのすこし置いてはあるけれど、もうずっと昔からお爺さんみたいな顔をした気難しい店長さんの好みなのか、ほとんどが漢字をいっぱい使った小説や大人子供を問わない勉強の本ばかりで、あたしみたいな女でなくてもこどもや若いひとはおおむね入りにくい店だと思うし、そういう佇まいが建物じたいを実際より垢抜けない煤けた感じに仕立て上げていて、お洒落めかした街並みの雰囲気も本屋さんの前でだけぷつりと途切れて、いきなり埃っぽく周りからもすこしけむたがられている様子にあたしはどことなくシンパシーを感じるからこのお店の前でだけは足を止めることも少なくはなかった。水黴でぼんやりしたショーウィンドウ越しにきゅっと腰のあたりを絞った大人っぽいワンピースのあたし、まるで他人みたいにプリーツの無いスカートが揺れて、あまりの現実味の薄さについそのままお店の中を覗き込んでしまう。そういえばほんの小さい頃は家に帰るのが好きではなくて、学校の図書室にいつまでも居残っては先生に嫌な顔をされたっけ。古い本の匂いにばかり慣れているから、真新しいそれと真四角に几帳面に整頓された店内に一歩踏み入れると、いつもそわそわと、少し居心地の悪いような気分になる。踵を返そうとした視線のすぐ横に、かつて学校の授業で使っていたそれよりすこし先に進んだ内容の参考書が当たり前みたいな顔で並んでいた。
もう何ヶ月学校に行っていないだろう。
あたしはなんとなく立ち止まった。身長よりすこしだけ高い本棚の列に今日二度目の背伸びをして、つるつるやわらかくて鋭い背表紙と本棚の隙間に指をさしこんで本を引っ張った。最後に通っていたクラスの担任はちょうどこの本屋さんの店長さんと同じくらいの歳のおじいさんで、愛想のない代わりに無駄のない授業の声は
あたしが知っている限りの大人のなかでいっとう穏やかだった。先生はあまりあたしたち生徒を子供あつかいしなかったし、さりとてつとめて対等な大人として接してくることもしなかった。それが心地いいなんて感じたことももしかしたらあったのかもしれないけど、どうせあの人の股の間にだってあの伸び縮みするぐにゃぐにゃした器官がくっついているのだから他の男の人と何も変わらない。
そんなことをまるで遥か昔のことみたいに思い出しながら参考書の裏表紙を垣間見たら、バーコードの下にはびっくりするような金額がかいてあって、ポケットの中の数百円を一度ばかり指先で数えてみたことがなんだかすごく恥ずかしくなった。あの時当たり前のように捲っていたのとおなじ、触り慣れた背表紙が、なんだかものすごく場違いなものみたいに思えて、あたしはあたしの指と参考書のカバーとの間に急に取り返しのつかない隙間ができていくような気がした
新しい服やアクセサリーならきっといくらでも買ってもらえるのに、なんだかもう、ほんの数ヶ月でこんな勉強の本なんか、あたしから一番縁の遠いものになってしまって、きっと自由になるお金をじゅうぶんに持っていたところで、この本が何冊手に入ったところで、そこに書いてある言葉たちにはもう意味なんてひとつもない。いくら覗いても、並んでいる文字列からも数列からも得るものなんてない、それどころか時間の無駄で、ただの雑音で、これから生きていくあたしの世界には最高に不必要な、いらないものばかりで、そう思ったら、あんなに大切に丁寧に何度も見返したものがこのうえなくどうでもいいものみたいに思えてきていた。
だから、あたしの手は勝手にそのまま参考書を引き抜いて掴んでいた。どこかなつかしい重みが指先に乗っかって、その重みだけはあまりにも自然で、持っているのに持っていないみたいな感じがして、あたしはそのまま本を手に持ってレジへ行かずにお店の外に出た。たっぷり水を含んだ雲の中から雑巾の絞り汁みたいに今にも滲みでてきそうだった雨のさいしょの一滴が、堪えきれずに空のうえから落ちてきて、あたしの頰に無遠慮にぶつかり、流れて、端から見たらまるで涙みたいに見えたかもしれない。それを不本意だと感じる余裕すら今のあたしにはない。
「お嬢ちゃん」
油断で緩みきった背中の上に、さっきまで思い出していた先生のそれとぜんぜん違う、嗄れて聞き取りづらい、だけど心臓を打つように悪意に満ちた声が覆い被さったのはその瞬間のことだ。
「お金」
「払ってないよね?」
万引きを失敗したのは本当に久しぶりだ。そもそも、「必要のないもの」を盗んだのなんて生まれてはじめてだ。お店の中ではあんなに圧力の塊みたいに存在感のあった店長さんはいつの間にかあたしのすぐ後ろにいて、腕をぬるりと掴んできそうだった節くれた手、ぎりぎりにすり抜けて、地面を蹴り上げて跳ねるように走り始めると、空にお似合いの雷みたいな、声にならない音みたいな怒号が街中を抜けて突き刺さってきた。男の人はどうしてあんな怒りかたしかできないんだろう。威嚇して脅かして、びっくりさせてこちらの身体を縮こませることしかできないんだろう。それなのにどうしてあれをするときだけあんな風にあまったるく猫撫で声を出すんだろう。走らなければよかったとほんの一瞬だけ思った。あの店長さんにもスカートを捲って見せて、脚や胸を露わにして、あれを固くさせて口のなかに入れて、そうやって全部許してもらえばよかった。あぁ、でもそんなことしたって参考書一冊、たったの三千円。あたしの身体は一時間で数万円。お父さんにもママさんにもあたしにもほんのわずかの得にもならない。舐めたって挿れたって借金の一円も返せない。それこそ時間の無駄で、人生の無駄で、やっぱり走って逃げてしまうのが正解だった。まるで共鳴するみたいにぽつぽつと雨が落ちてきて、あっという間にそのひと粒ひと粒が大きくなって、二十メートルも走らないうちにバケツをひっくり返したような大雨になった。あんな痩せた身体のどこから出てくるんだろうと疑問に思うような店長さんの声はまだしつこく後ろを追いかけてきたけれど、さっきまでの空が街中に広がったみたいな土砂降りの雨曇りがあたしの身体を隠してくれた。怒鳴り声はずっと続いていたけれど、そのためか追いかけられている気配はなかった。
朝から何も食べていないものだから、情けなくお腹がきゅるきゅる鳴った。麻酔が抜けたばっかりの身体はけだるくてこの街の圧力に負けて崩れ落ちてしまいそうに動きにくい。だけど無理やり動かせば羽根みたいに軽くなった。笑いたくなくても唇のはしっこさえ持ち上げていればからだもこころも騙されてなんとなくその場をやり過ごせるみたいに、生まれつきの売女だって言われてもすぐお父さんのご飯とお酒の準備をやれるみたいに、みるみる激しくなる雨のなかを、どんどん増えていく砂混じりの水溜りを蹴散らしながらあたしはただ飛ぶみたいに走り続けた。

石畳の迷路はもう邪魔にしかならなかった。まだやっと慣れたばかりの革靴の足の裏がときどき滑ったり引っ掛かったりして、躓きそうになりながらただ息をするのも忘れて走った。ワンピースのポケットの中で入れっぱなしの小銭がちゃりちゃり鳴った。道行く人が眉を顰めて迷惑そうにこちらを睨んでゆくのが見えた。避けそびれた誰かの肩に身体がぶつかった。邪魔だった。初めて邪魔だと思った。みんな邪魔だと思った。荒げた声をしつこく背中に投げつけてくる店長さんも、あそこの先から白いものを出すまでぎらついた目で動くのをやめない男の人たちも、あたしのお腹のなかに無許可で金属の棒を出し入れして内臓をがりがり傷つけたお医者さんも、つめたい目でじろじろとあたしの頭のてっぺんから爪先まで眺めて鼻で笑った看護師さんも、邪魔で邪魔で仕方がなかった。死ねばいいのにとあたしは思ってしまった。お腹の赤ちゃんがあたしの子宮から掻き出されて血塗れのまま死んだみたいに、みんな死ねばいいのに。
「あとで警察呼ぶからな!」
店長さんの最後の一言がスカートの裾に引っかかって、街の中に消えた。分厚い参考書も新しいワンピースもやがて水浸しになった。こんな服ちっとも着たくなかった。どうせ制服と同じふうにしか使われないんだ。人目のつかない場所まで逃げてくるとちょうど具合の良いところに郵便ポストがあったので、濡れて重くなった参考書をゴミ箱がわりに差し込んだ。ポストの中身にはあまりものが入っていなかったのか、ごとんと底まで本の落ちる鈍い、意外に荒っぽい音がして、お父さんに顳顬を殴られた古い昔の思い出をほんの少し想起させた。

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