LGBT法案について【鉄額の森】

 先に言います。私はQ+の人間です。多分。(分からないけどバイな気もするし、それ以外?最近は本当に分からない)

 本題に入りましょう。先に述べたのは一応の当事者である視点から物事を見ているということを君に伝えるためである。

 LGBTであることで差別されるようなことはあってはならない。そこは理解できる。なんなら理解しようとしてくれたことに対しては感謝している。だが、本当にそれがセクシャルマイノリティ(以下セクマイとする)のためになるのだろうか。
 企業、学校どこでもいい。セクマイがいることを教授したとする。「その認識に一切の誤りがない」と、いう判断は誰が行うのだろう。LGBTのみ教えるのとQ+まで教えるというのは訳が違うことを認識できる人は何人いるのだろう。私は専門家でもなんでもない。だから私が今から書くことは必ずしも正しくはない。
 さて、私は私自身の配慮はいらないと思っている。別に「好き」というれっきとした恋愛感情を抱くことはあるかもしれないが、それは私の中だけに留めておくし誰にも迷惑はかけないように善処する。体は女性なので女性用の場所へ行く。だが、男性物の服は買わせてくれ。ここは男性の服を取り扱っているお店なので女性は入店をお断りしております。というのであれば出ていく。(というか男女の服が置いてあるショップでしか買わないので言われたことはない)フロアによって女性がいてほしくない男性のお客様がいるのであれば私はいなくなる。できるだけ人がいない時に見ているようにはしているが、どうしてもという時はあるだろうからね。私も男性が女性のエリアでうろついていたら買いにくいと思ってしまうだろう。同性(同じような服を買う人)から異性(恐らく普段違うものを着ているであろう人)から何を購入するつもりなのかを見られると少し嫌だと思ってしまうだろうし、もしかしたら記憶に残るかもしれないと思うと羞恥心もあるだろう。

 私は、シス・ヘテロの人に聞く機会があれば聞きたいと思っていたことがある。特に女性。公衆浴場に男性が入ってくることを良しとしない方々。私も嫌悪感を示すだろうから気持ちはわかる。
 だが、自分が女性同士のコミュニティだから性的な対象として見られないというのはどこで生まれたのだろう。誰も彼もが自分のプライベートゾーンを見て何も思わないという認識はどうなのだろう。
 私はやや女の子という生き物に対して邪な気持ちはない(多分)にしろ、恐らくバイセクシャルなので見てしまうものは見てしまうし、少し、ほんの少し、気まづいのだ。こういう場合、女の子側は「同性だからいい」「同性でも嫌だ」「気づかなかったから別にいい」と言ったさまざまな価値観が出てくるに相違ない。「体が同性だからいい」で終わらせてしまうのか、「体が同性であっても私は心が異性ならば異性用の浴室へ行ってほしい」と思うのか。もしも後者の人間が「異性が浴室に入ってくるのが嫌だ」といっているのであればその方々には代替案を出してほしいものである。
 私はあまり他人にパーソナルスペースは見せたくないし、他人のも見たくないから行かない。見たくないというよりも目のやり場に困る。だから、そういう選択肢を取っている。(古傷があるのも一つ)

 トイレは女性用を使う。それは、私は生物学上は女性で、見た目も女性、声も恐らく女性らしい声をしている。だから男性用には入らない。だが、女装をしているという「認識」がある。可愛い服を着て、おしゃれをしている。どこか男性らしさがある気がするというか、女装をしている「認識」をしてしまう。なぜだろうか。これは私が一番考えないといけない。
 本当は一人称は「俺」の方がしっくりくるし、「私」はたまに口が回らなくなるというか本当に私がこの言葉(一般的に女性が使う言葉)を使ってもいいのだろうかという懸念に襲われる。私はコミュニケーションが苦手な部類であると自覚している。それは私が私という一人称を使うことができないからなのではとたまに思う。「私」と使わないといけない場ではどうしても萎縮してしまう。言葉が出てこないのだ。どうしたら一人称を口にせず話せるかを考えてしまう。私の作品を読んでいる方は察しがついているかもしれないが、一人称が全く出てこない。性別すら明かさない。そんな恋愛小説をよく書く。名前も何もかも、いらないでしょう。誰かを乞うことに。孤独に悲しむには名前も性別もなくていい。あるのはただ「好き」と「愛」というような感情だけ。そういうことをたまらなく伝えたくなる時があるのだ。たまらなく伝えたくなる日があるのだ。決して認めてほしいわけではない。ただ知ってほしい。この作品にはこういう意図が込められていると。こういう効果を期待していると。考えてみてほしい。そういう言葉を紡ぎ続けるから。

 閑話休題。
 本当にセクマイは人それぞれで望んでいることが違う。私は公衆浴場へ行かないことを選んだ。女性用のトイレへを使用することを選んだ。「選択をした」というだけである。戸籍上女性であるから。だがどうしてもそれを享受できない人がいることも知っている。私はきっともっと私の男性らしい部分に目を向けていたら、そういうパーソナリティがあったら、私はもしかしたら違う選択をしたかもしれない。 

 今から法案について考えよう。
 私は「知る権利」と「知りたくない感情」というものは相反するものではないと考えている。知らないといけないことがある。だが、知りたくないのであれば知らなくていい。と私は思っている。

 「私はセクマイです。」
 これが君が知りたくなかった情報であるとしよう。
 君はこれを「知りたくなかった」だが、私は「知らせた」
 その場合、君の知りたくなかったという感情は押し殺さねばならないのだろうか。それは違うでしょう。知りたくないなら知りたくないでいい。
 セクマイではないにしろ私に隠し事があったとする。私はその隠しごとを「知らせない権利」と「知らせる権利」を持っている。だが君には「知る権利(打ち明けるよう促す権利の方が近いかもしれない)」は持っていたとしても、「知ってしまう権利」は所持していない。私が「知らせる権利」を持っている以上、君は「知ってしまう権利」は保有できないのだ。受動的に知ってしまう。それは少しどうなのだろうか。と疑問に思う。
 これは障害にも言えることで、持っている側は隠すことが可能である。これは知人、友人間だけでなく、学校、企業にも有効である。だが、打ち明けられる側は「隠してほしい」と請うことすらできない。「知らされる」だけだ。一応念のため、知らされる前に話をはぐらかす、用事があるからとその場を後にするといった行為はないものとする。
 
 法案が可決され、理解増進のために様々な人が知る権利を行使できると共に、知りたくない一定層にはマイナスな感情が付きまとう。マイナスな感情をプラスのものにできるかもしれないが、マイナスの感情によりマイナス面が付随する可能性も考慮していく必要があるのではないかと考えている。学校で教えるにしても、企業で教えるにしても、対談や交流を行うのか、ゲストスピーカーを呼ぶのか、学校であれば道徳の授業などで学校の先生が教えるのか。どういう形式を取るのかは各々任せられているのだろうが、いやいややらされるものには余計にマイナスなイメージがつきがちだ。私は過去に苦い思い出があり、性描写、保健・体育の授業で行われる性の授業が本当に嫌だった。思い出して気持ち悪くなるし、その後は調子を崩すしで散々だった記憶がある。中にはセクマイ(自称も含む)と苦い思い出があり、思い出してしまうと胸糞悪いので聞きたくない。そう思う人もいる。実際の当事者だって自分と向き合いたくない気分という人もいるだろう。性というデリケートな問題を取り扱うのであれば、「知りたくない感情」を大切にして行ってみてはどうだろうか。

 この法案の未来は知る由もない。功を成すかもしれないし、成さないかもしれない。だが、知りたくないのであれば知らなくていい。無理して知る必要はない。デリケートな問題だからというのも一つだが、嫌なものは嫌だ。そう思うことは至極当然のことだし(私はいまだに鉄棒と縄跳びが嫌いだし)、それに対し嫌悪感を抱いた。それも君の一部で君らしさだ。それは押し殺す必要はないと思う。だが、表立っては伝えないようにしよう。少しのことで炎上するだとかなんだとか。怖い時代になった。

 理解しようとし、配慮しようとしてくれたことを感謝していることを一該当しているかもしれない者として伝えて終わりにしたいと思う。
 ここまで読んでいただきありがとうございました。またどこかで

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