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小説の映画化ってどうしても期待してしまうよねっていう話

恩田陸の蜜蜂と遠雷が映画化ときいて、ワクワクと見に行って、良くも悪くも順当に裏切られた。

よくある話である。

蜜蜂と遠雷は、ここ最近恩田陸離れが進んでいた私が改めて、恩田陸やっぱすげぇ、と思った作品で、それ故におもいいれがつよくなり、ついうっかり期待してしまった。

映画化。これは見たい。見なければ、と。

そしてまた順当に裏切られた。今まで、何度も繰り返した通りである。



ここまでこき下ろしておきながらなんだ、という感じだが、別に映画蜜蜂と遠雷が駄作だと言っているわけではない。

そうではなくて。

原作ファンからすると、そうじゃないだろー!!感に溢れてしまう、という話である。

いろいろな、「原作と違う」問題

原作と違う問題はいくつかのバージョンがある。

最近は、小説をアニメ化、コミックをアニメ化、コミックを実写化、という作品もかなりある。

いつだって、どのバージョンであっても、「原作と違う」問題は起こりうるし避けても通れない。媒体が違うのだから当たり前である。

それでも、圧倒的に「ちがーーう!!」と言いたくなるのが多いのが、原作から実写化バージョン。

そして、見た人の評価がかなり割れるのもやはり、原作から実写化バージョンではないか、と考えている。

イメージの共有は難しい

小説は当たり前だが、すべての情報は文字による。

文字によって書かれたこと、書かれなかったことが情報の全てで、必要があれば読者が自分の頭の中で補完する。

知らず知らず、無意識のうちにかなりの部分を補完して読んでいる、と思う。

で、結局のところ、実写化で「ちがーう!」と叫びたくなるのはこの、読者自らが補完した部分なのではないか、という気がしている。

もちろん例外はある。原作読んだか?と言いたくなるのもなくはない。が、作り手だって原作リスペクトは基本あるだろう。

結局のところ、小説の実写化において多発する、思ってたんと違う現象は、作り手が補完したイメージと読者が補完したイメージの差異ではないのか。

だとしたら、この「原作と違う」問題は、この先も解決されることはあり得ない。

当たり前である。

私のイメージは私だけのもの、監督のイメージも監督だけのもの。

現実世界ですり合わせが行われることは事実上ない以上、私が思う実写化映画ができるわけもないし、できたとしたらひどく幸運な偶然なだけである。

それでも実写化が見たくなってしまう

結局、思い入れが強い小説は小説のまま楽しむのがおそらくベストだ。

自分のイメージは自分の中だけで、崩されることもなく上書きされることもなく、完璧な姿を留める。

かなりラッキーな偶然でもない限り、イメージ通りの映画が出来上がってくることはおそらくない。

傑作小説を、実写化映画が超えてくることは期待している以上に少ないと思う。さらに個人的思い入れが強いとなれば…想像の余地を多分に残した小説に、映像が叶うわけないのだ。

そんなことはわかっている。分かっているはずなのに、それでも。

大好きな小説が映画化と聞くとあっさりと全て忘れて、ついついワクワクと期待してしまう。いそいそと見に行ってしまうのだ。

小説を読みながら自分の頭の中に展開された自分の理想通りの映像が、本当に見られるかもしれないという期待の強さに抗えない。

読者好きの悲しいさがのような気がしてならない。





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