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自立力って何だろう?

複数の依存先があることを自立と言い、依存先がひとつしかないことを執着と言います。

看護学校へ入学する時の試験で、
「自立」について述べよと問われた。

同期は高校卒業した18歳の中
私はひと回り上の29歳。
社会人で、一人暮らしをしながらの受験でした。

だから、心の中では、「私はすでに自立してる」って思いながら、
「自立とは、人に迷惑をかけずに、一人で衣食住を整え生活できること」と自信をもって答えました。

以来、ことあるごとに、自立ってなんだろうと考えてきました。
一般的に「自立」について辞書を引いてみると
「自分以外のものの助けなしで、または支配を受けずに、自分の力で物事をやって行くこと。」が正解です。

医療や介護でも自立支援とは、
できる限り自分の意思や力で生活ができるようにサポートすることです。

障害があろうと、守ってくれる親がいなくなろうとも、
年をとって、身体が不自由になろうとも、
人は一人で生きぬいていかねばならない
という固定概念。

キツいです。

でも、本当に一人で生きているのでしょうか。

小児脳性まひで、現在は車いすで生活する小児科医の
熊谷晋一郎(くまがやしんいちろう)さんの言葉を引用します。

一般的に「自立」の反対語は「依存」だと勘違いされていますが、人間は物であったり人であったり、さまざまなものに依存しないと生きていけないんですよ。

東日本大震災のとき、私は職場である5階の研究室から逃げ遅れてしまいました。なぜかというと簡単で、エレベーターが止まってしまったからです。そのとき、逃げるということを可能にする“依存先”が、自分には少なかったことを知りました。エレベーターが止まっても、他の人は階段やはしごで逃げられます。5階から逃げるという行為に対して三つも依存先があります。ところが私にはエレベーターしかなかった。

 これが障害の本質だと思うんです。つまり、“障害者”というのは、「依存先が限られてしまっている人たち」のこと。健常者は何にも頼らずに自立していて、障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされている。けれども真実は逆で、健常者はさまざまなものに依存できていて、障害者は限られたものにしか依存できていない。依存先を増やして、一つひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存してないかのように錯覚できます。“健常者である”というのはまさにそういうことなのです。世の中のほとんどのものが健常者向けにデザインされていて、その便利さに依存していることを忘れているわけです。

 実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態なのだろうと思います。だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。障害者の多くは親か施設しか頼るものがなく、依存先が集中している状態です。だから、障害者の自立生活運動は「依存先を親や施設以外に広げる運動」だと言い換えることができると思います。今にして思えば、私の一人暮らし体験は、親からの自立ではなくて、親以外に依存先を開拓するためでしたね。

(公財)東京都人権啓発センターHPより

一人で生きている
というのは錯覚でした。

人間は周りの人に頼らずに生きていくことはできません。
物理的にも精神的にも。

本当の自立とは、
周りに頼れる相手が大勢いる状態
コミュニティや社会を持っているということです。

健常者や、障害当事者、高齢者に限らず、
誰でも。

安易に人に頼ればいいといものではありませんが、
自分にとって必要な依存先を見極め選ぶ能力も、自立力だと思いました。

価値観に執着せず、
「おかげさまで」の感謝のココロで生活していきたいですね。


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