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アマ・ダブラム紀行 最終話

午前3時半。風の音は少し弱くなっている気がする。狭いテントの中で隣に座るシェルパに声をかける。

「行こう!チャンスだ!」

真っ暗な闇の中をロープとヘッドライトの光を頼りに氷の壁を登っていく。標高6500m、極端に薄くなった空気と見上げても先が見えない垂直の壁が肺を握りしめるように押しつぶし、全く息が出来なくなる。

5歩進んで、立ち止まる。5回呼吸をして、次は7歩進もうとするけど、やっぱり5歩しか足が上がらない。足は鉛のように重く、アイゼンを壁に蹴り込む力もほとんど残っていない。咳き込むたびに折れた肋骨が響くように痛む。氷点下25度にまで下がった気温は体を凍らせ、ついには動いているよりも止まっている時間の方が長くなっていた。

これが生存限界を超えた世界。足を上げることはもちろん、一枚の写真を撮ることさえ困難な世界。どうして僕はこんなところで、そしていったい何をしているんだろう。足を止めるとそんな事ばかり考えてしまう。

「そこに山があるからさ。」

ジョージ・マロニーの言葉がふと頭をよぎる。僕には彼の真意は分からない。けど、生きとし生ける全ての生物が決して生存出来ない世界で人間という小さな生命がこれでもかと、そのか弱い灯火を燃やす行為に魅力を感じていたのではないか、そして、それこそが「生きる」という行為そのものではないだろうか。アマ・ダブラムの氷壁でかつての英雄に思いを寄せる。

生きる、僕は生きている。今まで経験したこともない過酷な世界に身も心もボロボロになりながら、そんな当たり前の事を強く実感し、一歩、また一歩と足を進めていった。

どれほど時間が過ぎただろう。

氷の絶壁にしがみついたまま、振り返ると真っ暗だった世界が少しずつ光を帯び始めていた。日が昇り、ゆっくりと世界に色を付けていく。暗い夜が終わり、ヒマラヤに朝がやって来た。太陽はこんなにも暖かかったのか。光が凍った体を温め、少しずつ心を溶かしてくれる。半分意識もないままさらに歩き続け、垂直だった壁が次第に緩やかになってきた。気が付けば遥か彼方に思えたその頂はもう目の前にまで迫っている。

10月28日、午前7時45分、僕はアマ・ダブラムの頂に立った。最後は這うように歩き、倒れこむように辿り着いた。頂上からはヒマラヤ山脈がどこまでも広がっており、数えきれないほどの美しい神々の山がたたずんでいる。雲ひとつない快晴。標高7000m近い場所とは思えないほど穏やかな風が吹き、頂上に飾られたタルチョが楽しそうにはためいていた。

アマ・ダブラムに登ったところで何か貰えるわけではない。前人未到の記録を達成したわけでもないし、未踏峰を制覇したわけでもない。

けど、自分では決して足を踏み入れることなど出来ないと思っていた未知の世界を自らの足で歩き、希薄な空気を吸い、体全身を使ってその世界を体感できたこと、そして、何よりもこの登頂で自分の可能性を広げられたことは写真家としてだけでなく、ひとりの人間として、大きな意味を持つのは間違いなかった。

僕はもっと遠くに、まだまだ見たことのない世界に行ける。そんな明るい希望が心に満ち溢れてきた。

目の前には世界最高峰エベレストが雪煙を上げながらそびえ立っている。いつかはその頂へ。もう何も残っていないはずの体の奥底から熱いものがこみ上げていることに気が付いた。


カメラを片手に未知の世界を巡る僕の旅はこれからも続いていく。





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この旅で撮影した写真を収めた僕のファースト写真集「Ama Dablam」は完売致しました。心から御礼申し上げます。
併せまして、最新作Ama Dablamを含めオリジナルプリントの販売を開始致しました。詳細は下記のいずれかより作者へお問い合わせ下さい。

HP: http://yukiueda0225.wixsite.com/photographyportfol
Instagram: photographer_yukiueda

e-mail: yukiueda0225@yahoo.co.jp
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