裁縫が苦手な人こそダーニング
三味線を弾くときにつかう指すり。
真っ白だったのが汚れてしまい、
酸素系漂白剤でも落ちづらくなってきたので、コーヒーで染めることにしました。仕上がりの色が薄すぎて氣に入らなくて、
数日あけて紅茶染めをしたら馴染みました。
ところがステンレスの鍋で煮込んだのがよくなかったか、何らかの化学反応が起きたようで一部分が黒くなってしまい……
ダーニングをすることにしました。
(ダーニングとは『お繕い』のこと。穴をふさいだり補強すること)
ダーニングをならったのは一昨年。
知人が出店するという小洒落たイベントに出かけたのですが完全アウェーで、氣配を消してひっそりと帰ろうとしているとダーニングの講師をされている方に出会ったのでした。
めちゃめちゃかわいい繕いのシャツとズボンを身に着けてはりました。
後日、自宅兼教室だという小洒落た古民家に伺いました。だいたい辺鄙なところの古民家に越して来てハイカラな商いをする人は長年都会で暮らしてた人。
二度目三度目のパートナーといい感じの古民家リノベしながら他人の目を氣にせず自由に生きている「移住者たち」のことを、羨望の眼差しで見ているのはここだけの話です。人生経験が違う。深みがある。
かくいうわたしは、というとなんの因果か田舎に生まれてしまい田舎で育ち、「何とかターン」する間もなく居着いてしまって今に至ります。
健全な若者は都会へ行ってしまうし、残った人間は延々とくだらない足の引っ張り合いをしている。そんな中に「異端」が来てくれることはとてもありがたいこと。
「出る杭」は打たれるけれど、
「出過ぎた杭」は打たれないんすよねー。
「裁縫嫌いでして」
とおずおずと破れたシャツを出したところ、
「わたしも裁縫嫌いで苦手なんです。裁縫嫌いな人にこそダーニング向いてるので大丈夫です」と言われたのでした。
いろいろとやり方はあるのだろうけど、わたしが習ったのは、玉結びも玉留めもしないもの。
そもそも玉結びで躓くような人間だから裁縫が苦手なわけで。
「玉結び、しません」
「えっ」
「玉留めもしません」
「えぇっ」
という衝撃のやり取りを、わたしはたぶん一生忘れることがないと思います。
裁縫とは縁が無いもの、と思ってたので「裁縫が苦手でもできる」という経験をさせてもらえたことはとても自信になったし、嬉しかったです。
なぜ、ダーニングならできたのか?
玉留めと玉結びがないのもそうですが、
「自由」だったからです。
「ダーニングに正解はない。
自分が『正解』と決めたらそれが正解」
きちんと、ちゃんと、完璧に。
裁縫を「授業」で習うときって、
できてないところやダメな部分にフォーカスされるんですよね。ここがだめ、もっとこうしなさい、とか。それで採点されて、嫌いになるんだけど。その「嫌い」「苦手」「無理」っていう価値観から抜けるも抜けないも、自由なんだな、自分で選べるんだなあ、と思えました。
ダーニングは自由。
どこから始めてもいいし、どこで終わってもいい。終わるときはその場で何度か返し縫いするだけ。
端切れや糸の合わせ方で表情が変わるのも楽しいし、何よりも大らかさが好きになったポイントです。
「自由」とか「あそびごころ」とかいいよね。
好きだなぁ。脱力して氣樂にいきたいものです。
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