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設計の仕事

ある現場の図面を書ている時ふと思った。
すでに書かれた図面。その図面がすごく難解である。
それをもっと解りやすくすることを考えていた。

難解な図面・・・・  

目の前にあるその図面は、私が20年ほど前に書いた図面だ。
古い図面は、それを書いた私の当時の考え方の「クセ」が残っていて、その「クセ」の為にわかりにくい図面になっている。

図面を修正する時、その図面に書いてあることを「尊重」してわかりやすくしようと考えてしまうので、その解りにくく「クセ」まで「尊重」してしまうと混乱する。スッキリしないのだ。

一旦難解な図面を頭の中で整理して繋がりを再構築する。
思考を整理するために何度も殴り書きでイメージを書く。
そして、図面を書いてみる。
「整った」図面にしてみる。
しばらく置いて(別の仕事をした後)それを見てみる。
ここで客観的になれるかどうかが図面(仕事)のクオリティを大きく左右する。
観点は・・・・
解りにくいか?解りやすいか?
初めてこの図面を見た人がこの図面を見ただけで(説明なしで)理解できるか?

自分自身がすでに「解ってる」・・・・
折角ここまで書いたのだから・・・・
この書き方が気に入ってるから・・・・
納期が迫っているから・・・・
もったいない・・・・

という気持ちがあると建設的に良いものを創り出そうとする思考はここで停止する。

解りにくいのあれば、容赦なく書き直す。
場合によっては、ほとんど書き直すこともある。

私がまだ未熟なころ、苦労して完成して出来上がった図面を提出した。心の中では、クライアントからの「スゴイ」を期待していたが、みごとに裏切られた。その真っ赤に修正された図面を見ながら、腹立たしい気持ちと、悔しい気持ちが入り混じった気持ちに苛まれた。完璧だと思った自分の作品をけなされていると感じ。また、些細な間違いを提出前に気づくことが出来なかったことを悔しんだ。とてもそれを受け入れる気には成れず、しばらくそれを放置した。

設計というと理論的な仕事、論理的な仕事だと思われるけど、結構メンタルな仕事だ。

捨てるものか? 必要なものか?
の判断をするときに自分が今までやってきた努力や労力やみれんや知識が足枷になっているのだ。

「文章で書くと100パーセント関係無い」と言い切れるがその仕事の只中のいる人はそれを分離して思考することができないものなのだ。





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