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自分を保っておく、こと。

 私、SNSって向いてないなあとなにかにつけ思うんです。
影響されやすくてふらふらしてるせいなんだけど、時々意識的に一人になる時間を作らないとすぐ自分が何を考えてるかよくわからなくなる。
一人でなにもできないのは確かなことなんだけど、大勢でずっといることも息苦しくなってしまう。まあ、多かれ少なかれみんなそういう一面はあると思うんだけど、人の中にいてなんとなくうまくいってるような気がする時が一番よくないですね、それは本心なんだろうか? と思うようなことを調子にのって言ってる時がある。これ、続けるのはたぶんよろしくない。

 意識的にSNSを見る時間を減らしました。SNSが悪いんじゃなくて調子にのって流れで言葉を発してしまうのは自分が悪いし、思考が影響されるのは自分自身の問題。そこに動じないほど自分が強くないから自衛しないといけません。人といることでなんかうまくいってるような気になったり、何もしてないのに何かをできたような気になるのはよくないこと。

 スポーツなんかもそうかな、って思うんです。個が強い人たちが集まるから集団になって強くなれるけど、自分で判断できない状況が続くと集団が弱体化します。私が一目置く選手たちって自分のやり方とか自分の時間を大事にしようとしている人が多い気がする。チーム競技では協調性は必要な要素ですが、協調性があることと依存することは全く違うことなので、協力もできるし自分自身の判断や一人で考えることの大切さを知っている人は私の視界にはすっと入ってきます。簡単なようで継続するのは難しいことでもあるのでそれをやり続けている人はすごい人だと思うし、いつも面白いものを見せ続けてくれるのは結局そういう質の人だというのが自分の中にはある。学びたい部分がたくさん見えてきます。

 世界を変えられる人、っていうのは間違いなく一人でも自分を通せる強さをもっていると思う。そして、周りの人と協調していけるだけの度量もあると思う。
流れにのってうまいこといった、という感覚でいる人は世界を変えられる人じゃなくて変わった流れの土台を強くしていくタイプではあると思うけど、変えるための設計図はもっていないと思う。だから流れが結果的に多くの人を苦しめてしまうような流れだった場合、それを認識することも難しいだろうし自覚してその流れを変えることができるのか? というところで正直成果は出せないだろうと思う。客観的視点が必要な時には流れからおりることも必要な時があるけれど、流れにのっていることが好きだという人はそこからおりることをしない場合が多いから。

 自分を保っておく、というのは客観的に自分を見る勇気がないとうまくいきません。気分よく人を傷つけるようなことを言ってもだめだし、人からみて迷惑なことばかりしていないだろうかというラインと自分の意見を殺さないというところを両立していくには自分のいやなところをちゃんと見ないと判断ができない。スポーツなんかでは自分の弱点を見ぬふりしては結果的に試合に出られなくなるところまでいってしまいますから、「いやなところを直視できる人はいないんだから仕方ない」とか言ってないでできるだけやらないと自分が到達したい場所になんていかれないかもしれない。

 運動は全くむいていないけれどメンタルくらいはアスリートを目指しても悪いことはひとつもない気がします。「人生そこそこでいいや」と思っててそこそこをキープできてる人なんて見たことがないですもん。

 さきほど「一人でも自分を通せる強さ」という言葉を使いました。それってきっと備わってるものというより育てていくものなのかもしれないと思うのです。
子供のときはまわりに合わせることをまず教わるから、そのあとで自分で構築していくようなものなのかもしれない。

 いろんな人と関わりがもてたり話を聞けることはとてもいいことだし自分を知るきっかけをたくさん享受してくれるけれど、自分の形がわかってきたらまた自分の道をいくことが大事なのであってずっと同じ場所で同じかたちでいようとすることが素晴らしいわけではないと思う。同じ形を無理に保とうとすることでみんながだめになっちゃう、なんてことはすごく日常的にいろんな場で起きてるなと思うんですよね。

 元号が変わって新しい時代が来たとき、どういう自分でいたいですか?
考えておくといいことありそう。

誰かの心の平穏やきらきらを取り戻すお手伝いがしてみたい。