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2020年気づいたことのまとめ。

 なんっにもしないまま大晦日になっちゃったなあ、という気がしている今です。最近数年基本なんにもしてないような気がするけど、輪をかけて今年は一年何にもしていないような気がする…。

 これね、人から「何にもしてないよね」といわれると間違いなく腹立つと思うんです。だから何かはやっている。こういうとき、「何にもしてない」の定義が「人にうまく説明できそうな、ラベリングできる"なにか"」だったりするの。無意識に。だから何もしてないって言っちゃうんですけど、本当はそういうわけでもない。

 今年すごく自分の中で気がついた物事っていうと、
「人は肩書とか職業でなんとなく人を判断して信用してるなあ」とか
「文章化できるなにか、である人や概念だけを信頼しがち」とかそんな感じのこと。

 いろんなことが目まぐるしく起こったような今年。いつも通りをなんとなくやってるわけにいかない、という状況下にみんなが晒された。

 だから、雑な物言いやら勢いだけで断言する傾向がある人が露見しちゃった感じになったんだよね。今日までの常識が明日見当違いに変わるような状況下だったので、いろんなケースに当てはめてもリスクが大きくならない方法を考えたりミスリードしないように言葉の使い方に神経使っていた人と、とりあえず強い圧でこれ言っとけ、みたいなスタンスの人とが分かれて見えた。

 信頼できる人物だな、って思うのは慎重に誤解が少ないような話し方を意識している人のほうで、今までは勢いで物言ってる人っていうのが目立たなかったんだろうなという気持ちになった。なにもなければそれっぽいこと言ってても真偽は意識せず過ぎていくこと、いっぱいあるもんね。

「一理はあると思うけど、事象の全てを語るには偏りがありすぎる。」みたいな意見…というか話し方かな、そんなふうに感じる事象も多かった。人は当然経験のあることの中からしか話はできませんが、経験があることから出た答えがすべての人にのしかかる様々な事象をすべて説明しきるわけでは、当然ありません。一理あること、がいくつも同列に存在して、その中で包括的にリスクが一番少なくコントロールできない事態になりにくい方法はどれか、と考えていくことが物事の解決にあたってのとるべき道だと思うのですが、それは一理はあるけどメインに持ってきて考えてしまうとこういう事態に対処しきれないよ、じゃあ考える優先順位的には下のほうかな、ってこともたくさんあるわけで、そういう物事を「これがすべてだ」と説明するのはミスリードであるし事態の見方に偏りがあるねとしか言いようがない。

 何事も説明するときはそうだと思うんですが、他人の事情なんて人が存在するぶんだけ違うなんてことは言わなくてもわかるだろって話なんだけど、なぜか話をするときに「〇〇なんだから××であるなんて怠慢だ」みたいにひとつの要素ですべてをジャッジしてしまったりすることはよくあるけど、それをこんなご時世で続けるのはちょっと無神経なので、そういう話し方に気をつけようと思うプラス、そういう話し方を好む人の話はこのご時世だからこそ正面から無視でいいや、って思いました。それを全部丁寧に聞こうとしてメンタルやられちゃう人続出したっていう面もあると思うの。

 そこに付随して気づいたのが「一つの分野に長けてる人の言うことは、ちょっと別の分野のことを話すときでも信憑性がありそうと思って聞いてしまうけど、全然そこはリンクしない」ってこと。

 少し乱暴なたとえだけど、「芸術は人の夢を育て、夢は生きる力になる」って力強く言って賞賛を得て生きてる人がいたとして、その人が「スポーツイベントに金かけるなんて無駄」って言ってたとしたら、私は「この人には物を見る力があったおかげで信頼を得てる、というわけじゃないんだな」って思う。

 夢が生きるのに大切、って概念を肯定するんなら、その夢を芸術以外に見てる人もたくさんいるわけで。なんであなたのいる分野だけが夢を育ててると思うんだろう、ってなるのよね。どの分野でも共通して言えることをこの分野に限り、みたいな言い方する人は物事を包括的に捉えて物事を言おうとしているわけじゃないんだなって思えて、そういう傾向のある人の意見もこのご時世、摂取する情報の傾向を間違うとメンタルやられるので正面から無視することにした。

 誰かの言う信頼できる人が自分にとって信頼できる人、ではない。そして、強い言葉を発する人の言うことが自分にとって正しい情報ということもない。

 文字にしてみるとあたりまえなんだけど、やっぱり情報が錯綜して刻一刻と事態が変わったりピンチが隣り合わせの状況下ではなかなか常に正しい判断を、というのも難しくなるので、そういう場合はいかに関係ないものに左右されないでいられるか、が鍵だと思った。

 自分の場合は、とにかく一瞬でもいいから完全に集中してほかのこと一切考えてないな、っていう瞬間になるような時って何をしてる時なのだろうと考えて、それを生活に取り入れる、というか取り戻すことにしたの。

 私には曲を作ることだったり、それに付随した作業をしてることが一番集中状態になれることだったので、意識的にその時間を増やしました。これって仕事になるような才能がある物事ではないから後回しにしてたんだけど、それが故に好きでやってると言い切れること第一位なので「まず自分のペースを取り戻す」ためには有効だった。

 みんなにもそれぞれあるんじゃないかと思う。仕事にならないから、なにかやってるとは言いがたいような細かいことだからという理由で好きなことリストにも挙げない、人にもあまり話さないような、ちょっとした楽しいこと。それって、結構自分を取り戻すのに有効かも。名前なんかつかなくていいんだよ、自分が大切にしてることなんて、自分がわかってさえいればそれでいい。

余談ですが、このソフト、今年買ってよかったと思うものの一位。↓

これで色んな既存の曲をパーツごとにして別のものと組み合わせるのが楽しいのだ。権利侵害になるのでそれをどこかに発表できないけど、自分が聞いて楽しいものはできる。


 とかく、形になりにくいもの、言葉にしづらいもの、人にわかってもらいづらいものって時間かけることを躊躇しがちだよね。金にならないことをするなとか、そんなことやったってなんにもならないとか、そういう概念がどうしてもちらつくからこそ「自分はこんなことができてすごい人」感を出すことに必要以上に頑張っちゃったりして、何したかったのかよくわからなくなっちゃったりするんだよね。そういうところに見る理想の自分になり切れなくて自分をだめな奴だと思ってみたり。私はいつもそう。

 SNSなんかを日常に取り入れると、そういう強い自己顕示欲のぶつかり合いに知らないうちになっていたりして、だからこそ自分がこれだけできます、知識あります、みたいなことをアピールしない人の心地よさを求めたりもして、SNSの使い方としては本末転倒なんだけど、まあ、人のすごさを目の当たりにしていると自分のだめさに自分で目が行って勝手に落ち込んだりもするのよね。あくまでも一人で勝手に。

 だから、名前のつかないこと、文章にうまくできないこと、ささいなことに目線をシフトしていくことで見えなかったものや気づかなかったこと、忘れてたことを思い出すことができるのかも。

 自分は、情報に左右されない瞬間っていうのを作ること、今がそうだなと自覚することを意識的に経験していたら、適当な言葉の使い方する人に対して無駄にいら立つことが減りました。(つまり相当いら立ってたってことですね)

  そもそも確認不十分な物事を断定的な情報として吹聴する傾向のある人を信頼リストには入れませんが、今年はさらにそういう事象に対しての許容できなさが増大していらいらしてました、夏くらいまで。モニターの向こう側の知らない人知ってる人さまざまに対して 笑 

 それが、炎のような怒りから、「ふーん」くらいにはなったかな。それは効果あったと言っていいやつだな。

 あと、これは記しておこう。

 なかなか自由がきかない状況下で、「こういう状況だからこそできることもあるんじゃないか」と前向きに楽しむ気持ちで何かやってた人、はじめた人、そういう人がこれからの世の中を作っていく、スタンダードな存在になるんだろうなと思っています。各分野のそんな人たちの行動と笑顔に自分は多大な生きるモチベーションをもらったし、そういう人から順番に人生のご褒美をもらってほしいなあと心から思う。スポットが当たるとしたらそういう風にやってきてた人たちだと思う。

 未曾有の状況だから、自分の軸って大事になるよね。うまくいかないときは自分の帰る場所に帰れ、ってスポーツなんかじゃよく言うよね、バッティングフォームが崩れたら、まずここに立ち返るっていうフォームがあるとそこからリカバリーできるっていう考え方。それが自分にとっては「人に頼まれなくても楽しんで没頭できる、ちょっとしたこと」。きっとみんなそういうのがあるんだと思う。

 今年のまとめ、おしまい。自分的には己の完全集中状態になるのはこれか、って思いだしたから、非常にいい年でした。世の中が安定しててもこれがなければどんな状況でも波に左右されちゃうから、すっごい大事なこと思い出した感じ。

誰かの心の平穏やきらきらを取り戻すお手伝いがしてみたい。