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砂時計に上下はない

 人との付き合い方で適切な距離感を保つために役に立ちそうなことのひとつに「話し手の、主観と客観の割合を見極める」っていうものがあります。

 「あなたはこうすべき」や「こうであることが普通」、という主旨のことを言われたとして、その言葉を受け入れるか流すか… その言葉を発した方の考え方が“その人自身や近しい範囲での計算”なのか“反対の環境や意見にも配慮した上での計算”の答えなのかで言われた側にためになるかならないか、聞き入れた方がためになるのか聞き入れてもフィットするとは限らない部分が大きくなるのか、ということのざっくりとした指標になります。

 「素直に聞いたら全然現実的なアドバイスでなかった」ということにつきあい続けるのも疲れてしまうし、「無視していたら大ごとになった」という事態になることももったいない。

 常識って短い期間で変わるよね。例えば「結婚したら女性は家にいるべき」も「結婚したら働いて家計を支えるべき」もどちらも言われることだしどちらにも一理あることだけど、どちらかの考え方の人が反対側の考え方の人といるとたいへん。どっちも「お前は考えが足りない」とか「古い」とか「人でなし」とまで罵倒されることにまでなる。どちらもその環境によってはすごく正しく模範的な人にもなり得るのにね。両者が疲弊して憎み合ってしまう。その家庭がうまくいってりゃそんなことどっちでもいい、それだけなんだけど。

 最近強く思うのです、世の中が大きくストレスにさらされる状況になったから人々は真剣におかれている状況について向き合うことになった…というのはすごく望ましいところなんだけど、本当に人々の意見が二分して強くぶつかりあっている感じ。もはやどれが正しくてどれが間違ってるという尺度で測れないようなぶつかり方。どれも正しくてどれも間違っている感じです。全てのシチュエーションで適用するのは無理な概念たちが、刻一刻変わるシチュエーションに対応できないで各々の短所でぶつかってしまう感じに見えます。

 特に今みたいに、未知の脅威がやってきて通常と違う生活をしなくちゃいけなくなったような状況下が故に、結果的に的外れな意見の方が目立ってくる。状況変化の度合いに人々が意見を出し合って精査して対処方法として一定の結論が出る速度が追いついていない。

 ある種の答えを出した時にはあれもこれも現況にすでに見合わない意見になってしまう、いわば腐食する速度が異様に速いのに、ひとつの意見を声高に叫ぶ人の意識が追いついていないということです。間違いではないけど、対処法としては既にふさわしくない形。どんなに栄養価が高い食物も、腐った状態で口にすれば害の方が多く出てしまいます。食べるタイミングが適切ならば素晴らしい食べ物なんだけど… 

 もともとそういう傾向は何にでもあるわけですけど、正しい正しくないとジャッジする意見に違和感を感じるとき、タイミング以外の要素では「意見を言う者が主観寄りか客観寄りか」でもずいぶん話が変わってくる。

 余裕がないときはどうしても、「自分はそれに興味がない」ということから「必要ない」と判断し、「自分にとっては大事」と思うことから「それを興味がないなんて言える奴は人間じゃない」なんて思ったりする。

 あくまでもそれは自分か自分の周辺ベースでの判断で、世の中には自分とは真逆のものを必要とし、自分の必要なものを「いらない」としている人も多く存在するわけですから、それらみんなが納得いくような間をとった形をとることで多様性を認める社会と言えるものになるんだと思います。理想では。

 今、みんながそれぞれいろんな形で追い詰められたような心境になっていて、それぞれ「今後余裕はないのではないか」と恐れているから「無駄なことはしない」と皆が皆思うのだけど、その「無駄」の項目に入れるものが人によって全く違うということなんですね。

 個人的な出来事だと、全く関心がない人は「オリンピックなんか早く中止と発表する“べき”」と言います。私は自分で競技は参加しないけど、どんな芸術よりも書物や学問よりもスポーツによって理解し難い概念を理解できるようになり、救われてきたと思っているから、「いやいやいや、なに簡単にべきとか言ってんの、自分が理解できるセンスがないから価値がわからんのでしょ」と思うわけ。何よりも世の中のことを考えてる風の人が無碍に「べき」とか言うもんだから、「競技に携わってる人の気持ち考えたことある?人生かけてる人もいるよ?」って言ってしまう。人生かけてることを他人に「無駄遣い」と言われることって誰もが簡単に受け入れられることじゃないなと思うし、思いやりがなく感じます。変更縮小は今後議論される部分でしょうし変わるべき部分はふさわしい形に変更するのが良いと思っているけど、関係ない人が自分や近しい周りに関係ないからと言って「世間全体にとっても必要ないのだ」という方向性で言葉を放つことに対してとても違和感を感じました。

 「自分にとっては必要がない」はその人の立派な意見であるし、一考する必要のある意見だと思うけど、「世の中にとって」という文言をつけると意味が変わります。自分が個人的に思っていることに世の中のためという尾ひれをつけるべきではない。闘うなら一人で闘ってほしいな。これは私自身も忘れちゃいけないことです。

 なんだかね、そういうこと多すぎないかな? って。
人はいつも「世の中はこういう意見だから」をなんとなく従う流れで生きてる。もっともだと思うようなことが多いからそうなんだけど、その中に少し「大して困ってない人がなんとなく言った意見でなんとなくまとまって、それがないと困る人が更に追い詰められる」って事象が混ざっていく。追い詰められた人が叫ぶよりは「中には困る人もいるんだろうな」って捉え方をざっくりするくらいにして、なんとなくつきつめない方が本当はいいんじゃないかなって最近は思うようになってきた。

 追い詰められた人が叫ぶと、実際それもそうだってなって道をあけてもらえるようになったりもするんだけど、また違う立場の人が現れて「こっちにも配慮してください」って言わなきゃいけなくなる。

 そうすると、いろんな立場の人に「配慮しない奴は人間じゃない」とそれぞれ言う味方のような敵のような人がついて、対立しなくていいもの同士でいつまでたっても解決しない対立構図が出来上がってしまう。

 どっちかである必要ある? そもそもどっちでもいいじゃん、どちらも尊重していいじゃん って解釈じゃだめなんですかね? どちらかが正であるためにどちらかが悪じゃなきゃいけないって、砂時計のようだもの。ところ変わればどちらにもなり得る物事は、別に正義と悪のラベルなんて貼る意味がない。そこに真剣になるエネルギーがもったいないように思う。人ってエネルギー有り余っているようだけど純粋に自分のためになるエネルギーの使い方って結構難しいんだから。

 ひとつの答えが導き出されたとしても、それが本当に事象を支える全ての要素なのか? という自問自答は、全ての「何かを伝えようとしている立場の人」にとってとても大事なことだと思います。


 

誰かの心の平穏やきらきらを取り戻すお手伝いがしてみたい。