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忘れっぽい自分が

忘れっぽい自分が、急に疎ましくなった。

何が幸せで何が不幸せなのか、昨日までの記憶が確かならば、こうも同じところを行ったり来たりしなくても良かったのではないか。ふと、そんなことを考えてしまった。

紛れもなく自らの選択の積み重ねにより、この場所にたどり着いたわけだが、まだここではないどこかを目指さなければならない気がする。こんなにも孤独で、静かな毎日を得て、この上何を望むのだろう。

ある時から人間関係も、他の諸々も、失ったり自ら断ち切ったりしてきた。もうこれ以上は断捨離も進むまい。

話し相手が少なくなった寂しさよりは、不愉快な感情を持ち込まれる機会が減ったことに感謝することのほうが多い。

しかし、とは言っても、今となっては何がそこまで私を追い詰め、損なわせてきたのかを、上手く思い出せなくなってきている。

あれだけ手を煩わせられた“痛み”を忘れてしまったのだ。それが、どうにも座りが悪く。

ならば、これからは新しい何かを求めていけば良いとも思うのだが、いざとなれば、あっちを選ぶのは危険だ、こっちは前に痛い目にあっただろう、と漠然とした過去の自分からの警告が頭の中でちらついて、その一歩が踏み出せない。

だから、その“痛み”の記憶が何であるかをはっきり思い出せれば、たった今の自分というものに深い納得を得られそうなものなのだが、何がこうも自分を恐れさせるのか、それを忘れてしまっている。

それを思い過ごしと見ない振りをするには、残っている傷跡が深すぎる。かといって、具体的にその傷を残した凶器が何だったのか、はっきりと言葉で説明できるほどの輪郭は掴めない。

失敗してきた経験が多すぎて、これ以上後退を繰り返すのはこりごりだ。その失敗が新たな成長の糧となるとでも捉えることができれば、リスクを取って何かを始めることもできそうだが、残念ながらそうも前向きにはなれない。

むしろ、行動しないこと=落とし穴を回避できたと、こう考えてしまう。

あまりにも落ちては這い上がることを繰り返してきたからか、落ちることや失敗することがない最近の暮らしぶりに、漠然とした不安を覚えているだけなのかもしれない。

もっと徹底的に忘れてしまえれば、新しい地図を手にすることもできるのだろうか。

“痛み”を思い出せないくらい傷が癒えている、ともいうことかもしれない。それは幸せな日常にたどり着いたとも言えるのだろう。

ようやくここまで来た、と思えるようになったのに、それを強く望んでいた頃の記憶が曖昧になってくるというのも、少し皮肉がききすぎてはいないだろうか。

初めて入ったカフェ。

私が初めての店に入店するか否かを決める基準は、喫煙可能であることが、外から見てもわかりやすく明示されていることだ。

喫煙を許すか許さないかは、その店のポリシーだから、そのことで店の良し悪しは判断しないが、外から見てそのルールがよくわからない店には立ち入らない方が無難だ。

喫煙可能かそうでないかは、愛煙家にとっても嫌煙家にとっても、非常に重要な情報であるにも関わらず、それがわかりにくい店は、なんだか信用できないと思わないだろうか?

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