iPadのPVが批判される理由

 昨日、Appleの新製品発表イベントがあって、僕もYoutubeで配信を視聴していました。今回のイベントは全てiPadに関するもので、新型のiPad AirとPro、そして周辺機器が紹介されるという内容。特に目玉製品はiPad Proで、最新のM4チップ搭載した高性能モデルであるにも関わらず、5.1mmという驚異的な薄さを実現。映像を見ていて思わず「薄っ!」と言ってしまうほど、目に見えて薄いです。マジですごい。

 一方で、その薄さを演出する際に流された映像の演出が、いろいろと物議を醸しているらしいんですよね。世間の反応みたいなものには正直あんまり興味がないんですが、一方で僕自身があの映像を実際に見たとき、違和感を覚えたのも事実。
 というわけで今日は、なぜあの映像が受け入れられないのかということを考えてみたいと思います。

 まず僕が考える最大の理由というのが、モノを粗末にしているという点だと感じています。特に日本人というのは、古くからモノを大切にする文化がありました。
 例えば、欠けたり割れたりした器を、漆を使って修復する伝統的な技法に「金継ぎ」と呼ばれるものがあるんですね。これは道具を長く大切に使うという精神の現れであると同時に、侘び寂びといった日本独特の美的感覚と通じる側面もあります。特に茶の湯で有名な千利休は、この「金継ぎ」を評価していたと言われていて、実際に歴史的・文化的価値のある茶碗の中には、「金継ぎ」によって修復が施されている作品も残っているわけですね。

 で、この「モノは大切にしなければならない」という感覚の根底にある思想というのは、道具に魂が宿るという考え方にあるのではないかと思います。日本人の宗教観には神道の面影が節々に残っていますが、その一つとして、八百万の神々というアミニズム的発想の影響があると考えられます。こういった道具を大切にする考え方があるからこそ、「もったいない」という日本独特のことばが生まれたのでしょうね。

 で、僕は上記に述べた内容が今回の批判が生まれた最大の原因だと思っているんですが、さらに心象を悪くしている要素もあるんですよね。それが、破壊したモノがクリエイターの命とも言える仕事道具だったという点です。当然彼らは自分の道具に対して愛着も持っているだろうし、非常に大切に扱っているはずなんですが、映像中、無惨にも押し潰されたそれらは、自身が日々触れている道具と同じ造形をしているわけです。それが視覚的に破壊されていく様は、きっと見るに堪えない醜悪な映像として映っていたに違いありません。

 加えてこの映像には、さらに悪い評価へと拍車をかけている構造上のポイントも存在します。それはつまり、一連の破壊パフォーマンスがプロモーション映像としてリリースされているということです。
 僕たちはすでに、近年の広告を使用した収益モデルにうんざりしてきています。便利なツールを無償で活用できる反面、詐欺広告で大きな被害を生んだりもしていますし、そうでなくても、コンテンツを楽しむ合間に挟まれる、低俗で無価値な広告に閉口しているのが大多数に共通する心情でしょう。要は、人々は広告全体に対して不快感を覚え始めているんですね。それは行きすぎた金融資本主義に対する嫌悪感とも無関係ではないように感じています。

 このように、資本主義の象徴ともみなせる広告活動を通じて、クリエイターが大切にしている道具を侮辱するような映像を嬉々として見せられるという悍ましい構図が、多数の批判の声を生んだ原因なのではないでしょうか。
 僕はApple製品が大好きですが、こういったユーザー感覚とのズレというものは、今後の経営に対する大きな不安要素と言わざるを得ません。

 初代Macintoshが発売された1984年、ジョージ・オーウェルの小説を元にしたCM『1984』では、古いテクノロジーの支配を打ち破るのが同製品なのだと訴えました。翻って2024年。今のAppleはテクノロジーでユーザーを支配している側になってはいないでしょうか。これから先も使い続けたいと思わせる製品を、Appleが作り続けてくれることを願いたいです。

 それではまた!

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