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僕の幸せは周りと違いすぎて悲しくなる。

同じように思ってる人がいるのだろうか。
"好きなアーティストのライブに行く”は、日々を生き抜く活力になる、という考えは一般的なものだと思う。
でも僕にはそう、思えなかった。
"好きなアーティストのライブに行く”も"好きなものを食べる"も僕にとっては、ただのその日の予定でしかないのだ。
「来週ライブがあるから今週頑張ろう」
「ご褒美に好きな物食べよう」
一般的に、この考えが原動力となり、心が動いているのだろう。
心を補強する意志となって動かしているんだと思う。
一方僕にとっては、同じ原動力であっても、動くのはただの体が動くだけた。
美味しいものを食べたって、心には響かないで、体に生活機能を行うためのエネルギーとして消費されていく。

それ以外にも僕は、あんまり日常にも幸せを感じない。
感じていたとしてもとても微細で、瞬間的なものだ。
周りの人達は「日々の小さな積み重ねや、小さい出来事で幸せを感じる」という。
そこに関しては同調できる点もある。
でも僕の場合は、幸せを積んで貯めることができない。
最高到達点を求めている。
例えば美味しいものをたべたとする。
その時は確かに幸せを感じる。
しかしすぐに時間が経てば崩れてしまう。
だから毎回ゼロから積み始める。
美味しいものを食べて幸せになっているなら、それは幸せになっているからいいのではないかとも思える。
でも自分の求めているものは、最高到達点の幸せである。
その幸せに比べたら、そんなものはないも同じである。
だから一瞬で到達できうる幸せでしか、僕は満たされないのだ。
そして厄介なことに、自分が幸せだと思えることをするたびに、その行為の瞬間を幸せだと思えば思うほど、その分深く落ち込む。

過去、好きなバンドのライブに行った。 
グッズも全て揃え、事前に準備も重ねてきた。
いざ、ライブが始まった。
もちろん楽しかった。
自分が思っているより楽しかった。
でも帰りには、酷い虚無感を覚えた。
この理解不能な感情の動きを言葉にするのは、さっきの言葉が適していると思う。
本当に好きなバンドのライブがあるだなんて、他の人にとってはどれほどの効力があるのだろう。
ライブに行くまでの時間から、終わってからの時間、ここに個人差はあると思うが、心に作用することがあると思う。
僕もそう思えたら、どれほど生きやすくなったのだろう?と思える。

最初に言った「楽しみがただの予定になる」について少し話そうと思う。
例えば、ライブの話だったら。
どうせ後に酷く落ち込むのだから、頑張る活力にはならない。
ただ時間を経て、ライブの日になって、
行って、楽しい。
ただのそれだけの日になってしまう。
それ以外にも、ご褒美に好きな物を食べたとしよう。
もちろん、色んなことを頑張ったご褒美に食べるとする。
でも僕は食べてもそこにご褒美という付加価値を感じない。
前に食べたときと同じような、好きな物の味がする。
それだけしか思えない。
楽しいや美味しいは確かに感じている。
それが幸せに直結していないように思える。
それのために頑張るとか、それがあるから頑張れると思えなくない。
その日の予定になってる。

この思考から脱出出来れば、全ての物事に付加価値がついて、さらに幸せになれると思う。
むしろそうでなかったからこそ、今の自分と周りを区別するものになったんだと思う。

負のスパイラルに陥っているのか、分からなくなりそうだ。
周りからみたら、幸せを感じないなんて、どれだけ自分は可哀想な生き物に見えるのだろうか?
自分でも、可哀想な生き物に見えてくる。
どうにかここから脱出してみたいものだ。