やっとわかった。本質的なモヤモヤ


こんな文章を見た。
ちょっと問題起こす人の方が意外に器用に生きることができる、と言う点を咀嚼したものだ。

一言で言うと、「閾値がない話はよくも悪くも指摘されにくい」ということ。  

身だしなみはできるけれども、人を叩いてしまう人は、叩いたと言う事象が起こった時点で指導が入る。

一方で人は叩かないが身だしなみができない人、というのは清潔感の閾値っていうのがないというか難しいため意外に指導が入らない。

寧ろ自分は、人を叩かないので怒られていない。だから自分が良いのである、といつまでたっても自分の改善すべき点に気づくことができない、そして生きづらくなってしまうという流れだそう。

恥ずかしながら、私はこの閾値という言葉を最近知った。

でも、この言葉の便利さに感動して、今自分がモヤモヤしていたことをうまく言語化できる気がしてきている。

でも、私のページで触れた中学受験予備校の時のもやつき。
この閾値を使えば言語化できるのではないか。

子供ながらに思っていた事は、クラスでは優秀ながら目標が似ているため。閾値がないことで逃げる傾向があると言う事。

とある問題が解けた解けない、
一定の点数を超える超えない、ある偏差値を取れた取れない、こういった閾値のあるわかりやすい話ばかりではない。
所謂自己申告系は閾値は無いので、逃げやすいのである。

問題を2つあると思っていて
1つ目は地域的な話、私の住んでいた地域はあまりレベルが高くないので、その状態で逃げてしまっては井の中のかわず状態になってしまう。全国的にもレベル高いのであれば、多少逃げたりごまかしたりしても大丈夫なんだと思う。

2つ目は「余裕のなさが致命的」ということ。
私がどうしてこういう話ができるのか、つまりなんで自分に余裕があったかと言うと、合格したからと言うのはもちろんだけど周りよりも少し目標のレベルの学校が低かったからだ。クラスの中では、成績は良い方ではなかったけれど、自分の目標の学校に照らし合わせれば、特に問題もない成績だった。
レベルが上がってくると、だんだんみんなの目標も絞られてくるような気がする。そうなると本番最終的にどうなるかは別として、とある時点で目標に近そうな人と少し大丈夫と言う人がどうしても出てくる。
優秀な人ほど素直に話を話をよく聞く。例えばこんな感じ。
「あなたは素晴らしいんだけども。ただちょっと立体が苦手だから立体だけもうちょっと頑張って。」「はい」

閾値ない話で、逃げたりごまかしてしまう人はこの会話ができない。 
私は逃げることそのものよりもこの話ができないこと、つまり、自分の改善を素直に聞けないこと、怒られたくないから恥をかきたくないからといって、肝心の事まで聞けなくなることが問題だと思う。

何なら、緊張感を経験する場数だって踏んでいないのだから、本番で緊張しました。でもまぁ普段から逃げていたもんねとしか言いようがない。


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