保守的、負けず嫌い
10代で達成しなかったことに一生執着するといいますが、
私は何だったのでしょう?
話を聞いてもらうこと
だと思います。
理由は以前の投稿にあって、
似たような人が沢山いる環境だったので、油断すると容易に不利や劣勢になること、です。
要は皆で作り上げるビジネスライクな部活動では、割り切り合う事は大前提に、その意味でも弱肉強食なのが現状だなあと思いました。
負けず嫌いは本当に久しぶりに発した言葉です。
理由は、小学校入学時点で封印したからです。
けれど、表層で封印しても、人の本質はそう変わりません。
負けず嫌いな内面を持ちながら暮らしていた事に変わりはありません。
私の負けず嫌いの定義は、
勝ちたいとか優勝したいというより、自分で定義した勝負に負けないようにする、方です。
??何が違うんだ、、?
難しいので例を挙げます。
受験なら
塾のクラス一位の偏差値の学校に受かっても
自分の第一希望でなければ負け
逆に塾のクラスでは下のランクの方でも第一希望なら勝ち
ということ。
要は自分で決めた勝負に勝てるか、という話です。
負けず嫌いさ、は一貫して持っていると最近改めて感じます。
一般的な負けず嫌いな人のイメージは何でしょう、、?
私の場合、感情の起伏が激しく、負けたら号泣するような人、です。
私はそれを幼稚園を最後で封印しました。
人生ゲームに負けると狂ったように泣き叫んでいました笑
それからの私は、負けず嫌いながら、すべては定義した勝負に負けないように、
頭を使うため冷静でいるという方向性にシフトしました。
勝率でいえば、冷静に中立に俯瞰して刺した方が勝ちやすいと体感思います。
ところで、私が肝だと思うのは
対戦相手は誰だっけ、という話です。
私は前も書いたが、中学受験の予備校ではいつのまにか対戦相手を履き違えている人がいた印象でした。
要は、戦うべきは志望校が同じ人であり、クラスの人ではありません。
それを、恥をかきたくないから本来の対戦相手ではないクラスの人(志望校はバラバラ)のために取り繕ったり誤魔化す人が散見されました。
まあ11歳そこらに本質見たまえは難しいかもしれませんが、結局話を聞くべき層に着信していませんでした。
何と、誰と勝負しているのかは見誤らないべきです。
保守的、に関して
小学校の通知表には3点共通項がありました。
1.寡黙
2.友人から信頼されている
3.ミスが少ない
…興味深いのは今と正反対だという事です。
そして、大して楽しい思い出がないと思っていた小学校には沢山楽しい思い出があったことに、振り返りで気づきました。
要はウルトラ保守的なんですね、、
中学では妙な新しい楽器に手を出し、
1人では決してできない合奏、人間関係も複雑な場に足を踏み入れたわけですが、不向きのオンパレード。
それの成長有無や是非は別にしても、明らかに向いていないし、
信頼もミスも損ないました。
更に大学で挑戦した多弁はもっと不向き。
ミスを多発するし、信頼も無くしうるわけです。
割り切り、はやってきましたが、中学から大学までは何だか雲を掴んだような気持ちです。
あったのやら、なかったのやら。
本来の寡黙さも負けず嫌いさもミスのなさも信頼もありません。
ディズニーランドにくまのプーさんのアトラクションがあります。あれはプーさんがうたた寝をしている時の夢の世界を体験するものですが、そのイメージ。
まるで長い長い夢を見ていたようです。
一時期はまった海外旅行も、カフェも、まあ写真映えするので、それこそアトラクションのプーさんの夢が私バージョンになったような気分です。
どんどん海外に挑戦!なんてもっての外で、
正直一番不向きなのでした。
保守的にもプロコンありますが、数年来真逆を地で行った私の経験からしたら私には斬新さは不向きです。
せいぜい9:1くらいの比率です。
あ、ところで。
前の投稿では6年生が受難で、諸々均衡が崩れた話をしました。これで小学校=闇認定されました。
だから最近まで思い出す事はおろか、写真を見る事もなかった。
中学入学後すぐ卒業アルバムを捨てかけて母に叱られました。
そのことを書く前に、実はその6年生の通知表が、皮肉にも?
最近の私を救ったという話をしたいと思います。
要旨は以下
•ミスが少ない
•言語化能力低め
•実力は十分にある、力の出し惜しみはしないで
何かと困った先生でしたが、絵や字はずば抜けて綺麗で、
その先生にミスの少なさを認めてもらうのは当時すごく自信になりました。
そして最近、改めて見返して自信となるわけです。
力の出し惜しみに関しても、
匙加減をするのは今の自分にもあります、
そして多分これが信頼を損なった主因。
関係が傾くのが面倒だから謙遜して内心小馬鹿にしていました。
正直、大学は中学高校よりレベルが低く、?と思う場面は多々あったのは事実でした。
それに、言語化能力があれば、中学高校や、その後も苦労は少なかったはず、、
今までふわりと褒められていて、嬉しかったのが嬉しい点もある一方で指摘めいていて苛立っていたのが正直な感想でしたが、
実は今までの先生だれよりも、的を得ていたのです。
6年生では
最後のクラスだから楽しく卒業したい、を掲げていました。
私はこの最後、に引っ掛かりました。
理由は自主的に違う中学を選択しない限り皆同じ学校に行くからです。
荒く言えば最後な人は勝手に最後です。
しかし、良いコンセプトなので放置していたら、
やはり悪い事がおきました。
協力的でない人を糾弾し始めたのです。
私は、半分ほど初めましての人でした。知らない人半数の中、知り合いと話したいのが正直なところ。
雰囲気よく、が基本コンセプトなはずが、いつのまにか本末転倒になったのです。
困った先生(当時から精神不安定)は、とち狂い、学級崩壊と黒板に書き始めました。
いやいや、そこまでではないよ。明らかにバランスがおかしいのはあなただよ。
関西から来た私からしたら、この辺りなんて平和オブ平和です。
受験をするのは私の勝手な都合ですが、スパルタ塾と合わさり、満身創痍。
本当は先生エピもっとある(友達がいないと担任が家に電話をかけてきたり、)のですが、まあ割愛します。
…受難でした。
そもそも、これに限らず何か施策をしたいときには着信しない層がいるのは当たり前。
それを力ずくで変えようとしては本末転倒です。
これ、小学生の幼稚な話に聞こえますが、同じようなこと大人の世界でも起きています。
大人は時に小学生でもわかる事ができていない、本質は雲隠れしやすいわけです。
だから私は本質をおさえましょうという話を繰り返ししています。
しかし、初めに触れたように、
思わぬ事が自分を救うことがあります。
常に大目的(本質)は何だったか、対戦相手はだれなのかを見誤らない事、だと思います。
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