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長男性へ誘導する不真面目さに、抵抗する

自分の中の何かが変わっている。世界がごっそり変わっている。私は気づかない。気づかないうちに、違和感もなく変わっている。記憶が入れ替わっているけれど、身体だけが違うものであるかのように。今まで保持している自分、は変わらないように思える。

見せたいというこだわりが、目の届く範囲からいなくなってしまった。書いてきたことで、自分のくだらないところがじわじわと抜け出てきた。毛穴から油がぷちゅっと出てくるように、少しずつ小さな自分が明らかになってしまった。今更良い子ぶったところで、もうどうしようもないと感じているのかもしれない。

書くことで、開いている。巻物をコロコロと開いて、中身をあらわにしている。

これ以上、考えて自分の中身を書き出したところで、という思いがあった。自分を出すことを抑圧する、大人しさがある。行動のターンではないだろうか?という疑念。ツイッターを見る自分に、無意味だと思っていた。考えたところで、無意味だ。

怖いのと同時に、少し面白い。

自分の血肉が広げられてしまうのが怖いのだろうか。道行く通行人の横で、静かにあぐらを書いて座り、ひげと汚れを蓄え、自分の心臓を切って並べる、目の前で冷めていく心臓の切れ端を眺めながら、マッチをこする。タバコを吸う。路上喫煙も禁止されている。火の煙に、イメージが重なる。自分の心臓のイメージが重なっている。

これ以上考えて、書いたところで、自分の時間は進まない。行動が必要だ、身体が必要だ。どうにか限界までゼンマイを巻いて、最高速でチョロQを進めたいところだけれど、力を入れれば入れるほど心臓が縮んでいく。時間は縮めることはできない。生は縮めることができない。

ここまで言っていた行動・身体は、焦りそのものだった。長男性、パフォーマンス的真面目さだ。


健康の再来

どうやったら健康になるだろうか?健康になりたい。幼児性に立ち返った、私自身の健康に立ち返っている。健康になりたい、なろうと思い返した。あらたな、健康になりたいという思いがあるのではないか。

不思議だ、本当に健康になりたいのだろうか。この「健康になりたい」はとても自然に出てきた。温めたやかんの口から湯気が出てくるように。全く健康になりたいと実感できないけれど、外からの言葉が充満している。外からの「健康になりたい」湯気でいっぱいになっている。実感が無いほどに、私であるということか?

今とても雑になっている。量を書くことによる効能かもしれない。

量を書くことによって、自分の中の強い力みが取れてきた。外側へ向けた、強い抵抗の、恐れの、カチコチに固まったハリネズミのような力み。長男を押し付けられることに対する恐れ。私は、この恐れに向き合って、幼児性に戻って、長男であることを受け入れなおす。

生きている上で力みは必要だ。生きるために、慣れるために、力みが必要だ。私は、長男であることに、なんとか耐えようと力んできた。そうやって走ってきた。走りながら、リラックスすることが必要だ。長く走るために、リラックスすること。長男である力みと向き合い、力んでから、リラックスすること。

思考に囚われていた。質的思考に。何かしら、さすがに今よりはマシな文章を書かねば、と囚われていた。黒く血なまぐさい鉄の檻が、目の前にある。顔を擦り付ける。土と匂いが頬につく。父親が作り出した檻だった。

理屈でつまらない、退屈な自分のことを、「変わらない自分だ」と吐き捨ててきた。書かないことで見つめないようにしていた。檻に入っておかねばいけない、と思い続けてきた。

雑に生きること

つまらない、変わらない、小さな自分の事を徹底的に見つめるのだ。出てきてしまうことを、徹底的に出していくんだ。

解釈は後からする。蠢き出す自分の退屈さ、つまらなさの中にある重なり、乱視的な像の乱れを見出す。何かよくわからなくなってくるゲシュタルトの崩壊を観察する。自分を出すということを徹底する。

自分にとってなんの意味もない、そして誰にとってすらも無意味なことをたくさん通過していくことだ。歩いていく。トンネルの中を歩いていく。なめらかでヌルヌルした、モップがおびただしく並んでいる長いトンネルを通る。ぬるっとした無意味を通り抜ける。雑に生きる。

繁茂していたものが枯れた

そうだ、今まで私がよく書けてきたのは、自分に対して「言い聞かせる」ことだった。言い聞かせて、どうにか行動も変化してくれ、ということだった。変化のため。退屈を凌ぐため。暴力的な無意味に対して、どうにか抗うため。父親に押し付けられ、受け渡され、私がしっかりと握り込んだ長男性が、私に言い聞かせてきた。言い聞かせることの繁茂。

「もっと良い子になれ、行動を変えるんだ」

言い聞かせる長男性が枯れてきた。遊ぶという幼児性に戻ること。

最近、あまり書けないな、という感覚が強まってきた。長男性が遠のいて行って、幼児的に書く比重が増えてきた。経験が浅く、見ないようにしてきた幼児性に直面して、困った。

重複したことは言い聞かせたくない。何回か言ってもだめなものは、言っても無意味だから。

「これは言い聞かせたことあるしなあ……」

その裏側としての

「わかってるんだよ、そんなことはよお」

暴力的な応答がある。わかっていることを言われるのが一番ムカつく。多分、他の何よりムカつく。わかっていることについて、「これはこうだよ、こうするべきだよ」べきのご講釈をタレなさりやがるのが一番ムカつく。そういう幼児性がある。

わかってる。努力しているんだよ。努力してすぐに成果が出ると考えるその曖昧なぼんやりとした壁、透明なガラス、防弾ガラスに対して、振りかぶって殴りかかりたくなる。外に落ちるのも厭わず、50mぐらい助走をして思い切り右拳を叩きつける。
「宿題をやりなさい」と言われることに対するムカつきの延長線上にあることだ。きっと似たようなもの。だけど、度合いは強い。知った口を利くな?ちょっと違う。わかったふりをされたくない?それも少し違う。少しあっているけど、少し違う。

なんだろう。努力に対して。努力していないと思われるのが苦しいのだろうか。なんか、余裕をぶっこいているその顔がムカつくんだ。長男と父親、それに関係しているのかな。
ムカつくのかな。何をいいたいのだろう。何を伝えたいのだろう。何をどうやって伝えたいのだろう。努力していると強く主張したい?違う。努力していないと言われたら、自分を守りたいのかもしれない。

長男性から身を守りたい。言い聞かせることは重複していく。幼児性が、重複する言い聞かせを遠ざけてきた。

幼児性

蠢く暴れまわる書きたいこと、言いたいこと、表現したいことがある。それらから私の目を背けさせること。それが私の中の長男だった。せめて今より質の高いものを提出しろ。私を書くことに駆り立て、また逆にさっきまで目の前に立ちはだかっていたのは、私の長男性・理性。父に怒られている私を守るもの自身だった。自分の中に長男の基礎工事を施してきた。幼児性から目を背けさせた。

この恐怖と、幼児性と向き合っていく。自分の書きたいことに、少しずつ正直になる。

「批判されるかもしれない」

批判者である父親の顔と向き合って、その上で自分の書きたいことを選択すること。この居心地悪さと向き合って、振り切るのではなく並走すること。

アニメを見よう、と決意したら、突然書く気が湧いた。幼児がはしゃいでいる!

私の長男は後から解釈された。ぼやぼやとした私という存在、私ですら無い黒いもやに、後から型をはめ込んだ。はめ込まれ、自分はそれに適応した。事後的な存在だった。長男が幼児を窒息させていた。とても苦しく、どんどん言い聞かせることがなくなってきた。

自分自身のどこかが滞っているように感じられる。

そう、さっきわかった。楽しみがなかった。小説・映画。こたけ正義感の逆転裁判の実況動画を見ている。ゲームをすること、それらのもの。豊かさがない!豊かさが必要なのだろう。絵を描くこと、小説を書くこと。若林の声を聞いてみること。

アニメを見たい、小説を読みたい。そして、「この生」についての記事を読みたい。あとは、やりたいことをやる。そして、しっかり寝る。まだ、長男がいる。やらなければいけない、と執拗に叫ぶ人。彼と一緒に健やかに寝る。

苦しみが必要な創作と、楽しみが必要な創作の違いは何だ?ここまで楽しみが創作意欲に直結したことは無い。果たしてこの記事というのは創作と言えるのだろうか?どこまでを創作とするか。私は、この記事も創作のうちに含める。なめらかに創作をしていく。どの瞬間も、きっと創作に繋がっている。

朝の何も出ない、詰まっている時間がある。それも創作の瞬間に繋がっている。頭から出てくる単語が、薄まっている蛇口を出した当初の、濁った水流がある。それすらも創作である。時間を進めるために、何の味もしない、いつものくだらない代わり映えのない文言を流していく。それも創作とする。一瞬を創作にする。

私がしたいこと

色っぽく魅力的になりたい。可愛くなりたい。今、彼は何をしているだろうか?しばらく連絡を取っていないように感じる。

何者かになれるかもしれない、という幻想を受け入れたこと。それは私にとって大きな衝撃だったな。あの時から、自分のことを何故か少しずつ受け入れてしまっている。記事以前・以降、私は同じく私だと感じている。だけれど、感情を感じた経験が、私を変化させていく。

心臓を吐き出して、目の前に並べる。少しきれいに敷いたベージュの布に、切り分けた心臓を並べていく。値札はつかない。空いた部分に、新たな心臓が生み出される。私は心臓の違いがわからない。変わっている実感はないけれど、後から自分が変わっていると気付く。あたりに散らかっている物事が、それに対する自分の反射が、変わったことを物語っている。自分の輪郭だけが変わっている。書くことの面白さだ。やはり、自分の書きたいことを書いていく。疑念を抱きながら、進んでいく。

私は、何者かになりたいし、すごいなって思われたいし、可愛いと思われたい。

記事を書きながら、ボールソートに意識がズレたりする。ズレる。書きたいこと、やりたいことがズレていく。快楽と虚しさ。

カジュアルゲームをやっているときは快楽があるんだけれど、それと同時に、大きな虚しさを感じる。焦る。意味がわからない、というか、目の前に大きな壁が、白い物がある。快楽の奥にある虚しさと、危機感のある焦り。

最悪な気分だ、と感じる。と同時に、自分を傷つけるような快楽を感じる。これは楽しいことではない。ただただ、目の前の小さな快楽である。

そう言えば、身の回りを片付けることが出来ない。可愛くなりたい。可愛いと言われたい。自撮りをしたい。部屋をきれいにしなければいけないんだけれど。

快楽ではなく、感情を感じていたい。快楽ではなく、幼児的な感情に身を任せる。

長男性へ誘導する不真面目さに、抵抗する

「読者のためを思って書くべきだ」

くだらない薄っぺらな文章術を謳う人たち、そして強く揺れる私。

私は、自分の中の「話を聞いてほしい」と真正面から向き合うと決めた。「読者のためを思って書いているのだから、もっと反応があってもいいのではないか?」そういう道とは決別しよう。文章は、とことんまで自分から発せられる暴力的なものではないのか。そこに、変にキラキラとしたきれいなものを被せて、見ないふりをしない。自分の言いたいことを見つけることを求める。

反対に、書くことにこだわってはいけない、と思っている。
生活するために書く。自分を表現する中で書く。「昔書いたことにカビが生えている」のではない。その時間軸につながる、表現された私につながる。

タイムマシンに乗らないといけない。カビが生えているんじゃない。口が閉じているのは、時間軸がズレているというだけだった。歴史的な物が、私に堆積している。私に積もった歴史の分、言葉が必要になる。自分の中に繋がっていく。

過去の自分に繋がって、今の自分についての文章を書くことだ。何が「口を閉ざす時間」となったのか。長男と、成長と、変化ではないか。自分を表現するために、幼児として書く。

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