NHKドキュメント『彼女は安楽死を選んだ』を観て

先日、ベルギーのパラリンピック選手が安楽死した出来事の影響なのか、NHKのドキュメンタリーが再放送されていたのを、たまたま目にした。

最近、死ぬことばかり考えていた僕にとって、安楽死とは心の平穏を取り戻し、この苦しみから逃れられる最も良い方法であるように思えていたため、珍しく最初から最後まで観てしまった。

日本では安楽死が認められていないため、この方はスイスの安楽死団体にメールを送り、それが最終的に叶えられた。

思い神経疾患に苛まれ、将来への希望を持てず、そしてどんどん悪化する病状をわかりつつ周囲の人たちに助けられながら生きる人生を想像するだけで、苦悩し、結果的に『安楽死』を選んだ彼女。

僕自身は、身体的な問題は特に抱えていない。定期的に発生する痔くらいだろう。しかし、精神的にはかなり危険な状態である。あくまで自己評価だが。

約10年ほどうつ病と付き合い、様々な症状に苛まれてきたが、具体的に『死ぬ方法』を検索したり、検討したりしたのは、たぶん初めてだ。

これまでは、一抹の希望や、意地や、恐怖、などがアンカーとなり、なんとか僕を生きることに押しとどまらせ、それを妻がサポートしてくれていたように思っている。

しかし、最近はそれすらも苦しく、早く解放されたい気持ちが心の多くを占めるようになった。

スイスの団体では、入院してから2日間、本当に安楽死を選択するのかの決断と、家族とのお別れを行うことが必須らしい。

実際に、彼女が家族と最後の晩餐を行う様子や、安楽死する薬物を投与してどんどん安らかな顔になっていく光景、それを眺めながら『ありがとう』『楽しかったよ』と会話する光景は、なんとも切なく、生きることがいかに刹那的なのかを物語っていた。

さて、仮に僕が彼女の代わりにベッドに横たわっている光景をイメージし、妻と最期にどんな会話を交わすのだろうかと想像すると、なんともいえない苦しさや悲しさがこみ上げてきた。

それを乗り越えるだけの覚悟は、今僕には無いのだと、知ったのだ。

死にたいけれど死にきれない。それは、妻を残しては死ねない。その一念だったのだと思う。

とはいえ、今日も特段生きる希望も、意欲もなく、ただ傷病手当金を受け取る手続きをするために精神科へ赴いては、診察を終えてルノアールでアイスコーヒーを飲み、『あぁ、死にたいな』とまた思うのだ。

何を食べても味がしないように、日々が過ぎ去っていく。僕は、生きたくも死にたくもない中途半端な状態に自分が置かれていると気がついては、これを打破するだけの理由も、気力もなく、今日もまた身体的に生きていくのだと思う。

今年ももう終わる。叶うらば、家族のもとで、安らかな死を迎えたいと祈りつつも、生きてしまうんだろうと、嘆息するのだ。

サポート頂いたお金は、書籍購入代などにあてさせていただきます(`・ω・´)ゞ