見出し画像

ヒグラシ文庫8周年トーク・イベント(2)「飲食店ラプソディ~何の飲食店哲学の欠片もなく」

2019年3月13日(土)鎌倉の「まちの社員食堂」(神奈川県鎌倉市御成町11-12)で開催されたトーク・イベントの内容をお届けします。
前の記事はこちら

ヒグラシ文庫に行ったら「あ、こんなんオレでもできる」と思うはずです。

― ヒグラシ文庫が今年8周年なわけですけど、按田餃子は1年違い。齢は違うけど(笑)じゃあ中原さんのヒグラシ文庫、どうでしょう。

中原:あの、まず、今日お配りしたものの中に、『そのヒグラシ』ってタイトル。これヒグラシ文庫のお客さんが、勝手に作ってるんです。

― 公式じゃありません(笑)。

中原:「いい加減にしろよ」って思ってるうちに、だんだんクオリティあがってきて。お、いいな、みたいな感じに(笑)。もう本当に。
それで、何度か話してきましたが、開店のきっかけにやはり地震があって。ちょっとその前の話をしますと、今日の司会の遠藤さんとか、客席にいる瀬尾さん(料理研究家・瀬尾幸子氏)とか、大竹さん(雑誌「酒とつまみ」初代編集長・大竹聡氏)とかと一緒に北九州でちっちゃな本をつくって。

「雲のうえ」っていうあの、情報誌があるんですけど。

中原:お配りした中に最新号が入ってるはずです。

― これ2006年創刊ですかね。北九州市の情報誌、いわゆるPR誌ですが、その第1号にそこにいる大竹聡さん、おい、立て(笑)。はい、もういいです(笑)、というライターが書いて、私は2007年の5号の食堂特集にライターで参加して、それで中原さんと会いました。

中原:創刊号特集が「角打ち」。パブリックな出版物の創刊号が角打ちかよっていう。それを書いてくださったのが大竹さんです。90万くらいの人口に、数は定かではありませんけど、150~170軒くらい角打ちがあるんですね。これ純粋な角打ちで、立ち飲みと違います。酒屋さんがやっていて、酒屋さんの棚に陳列されてる酒をそこで銘々で飲める、とっても面白いシステム。3年半くらい北九州いたんですけど毎晩のように飲んでました。

で、こちらに戻ってきて震災がありまして。僕、逗子に住まわってるんですけども、その非常に不安な心持ちで、でも逗子の立ち飲み屋は、真っ暗な中でもローソクで開いてた。これは、そういう心細いときに、こんなスペースというか場所があるとね、いいなあと思って。で、思い出したのが北九州の角打ちです。それで3月11日の地震からひと月あまり、4月20日に無理やりオープンしました。

その間に一度、沖縄に行ったんです。沖縄の市場で夕方シャッターが下りた前に、こういう会議机ひとつと、水道とバケツとコップと日本酒、だけのお店を見て、「あ、これオレもやれるわ」ってなった(笑)。それでいいんだよな、と思えたんですよね。
客席の顔みますと、もううんざりするほどヒグラシに来られてる方たくさんいらっしゃいますけど、はじめての方はぜひ今日行ってみてください。あの、唯一言えることは「あ、こんなんだったらオレもできる、私もできる」ときっと思いますんで、ぜひ寄っていただければ。

そういういきさつの中で8周年どうしようかと思っていたところ、エンテツさんから「スペクテイター」というカルチャー雑誌にちょっと書いたよって連絡いただきました。その特集「新しい食堂」で、丸山さんや按田さんが取り上げられていたんです。昔から丸山さんのお名前はお聞きしてましたし、按田さんの本も以前読んで、ああ、こういう若い人たちが出てきたんだなと思ったりしてました。それで8周年は、お2人に頼んで、まあエンテツさんがいればなんとか2時間まとめてくれるかなということで、今日は。

ボヘミアンたちの、複合・融合的シェア、ファンタジー的共同、私小説的ワンマン

― ここの3人もほとんどそうだと思うんですけど、何かまとめる、結論を出してくってのがまったく苦手な人間で。どこに拡散していくか、わからない。今日もそんな感じでいこうかな。そんな感じで本当に飲食店やれるのか? というあたりをちょっとやってみたいなあ、なんて思ってるんです。

資料にも書いたように、三者三様、まあ十人いりゃ十色って、そのとおりなんですけど、なかなかそのことが実は理解されてない。なんかの型にはまらなきゃいけない、型にはめられるということがわりとある。一方で、そういうことをあなたたちはまったくこう、無視をして生きてきた人たちではないかというのが、私の考えなんですよね。

たとえばオレが勝手に考えると丸山さんはシェア。これは複合融合型っていうふうに。料理も経営の仕方も。按田さんは共同。もともと共同経営ではじまったり、シェアっていうのはわりとこう混ざり合っちゃったりしてどこにいくかわからないっていうコントロールの難しさをこの丸山さんは平気でやってるんだけど、按田さんの場合はもうちょっと、ある程度見通せる。その見通しっていうのは、必ずしも計算的にはっきりしてるわけじゃなくて、これは「ファンタジー」って。
按田さんが料理を考えるときに何かファンタジーがあって、そこに近づけばOKで近づけないとちょっといまいちだなって考え方があって。それが料理についても経営についてもあるなっていうのがある。

で、中原さんの場合、これはもう私小説的な(笑)。もうとにかく、オレ、これ!(笑)。その凄さがあるわけですよ。小説的っていうのは非常に難しいんだけど、でも彼が料理を説明するときは必ず、「オレ」。オレはこうだ、オレはここにいてこうだ、こうだ、こうだ、クーッたまんねえな! って感じで迫ってくる面白さがあって。ある意味じゃワンマンっていうのは悪い言い方のように思われるんだけど、ミュージシャンの場合ではワンマンライブって言い方がある。わりとワンマンライブな面白さが中原さんにはある。

と、たとえばそれぞれに個性があって、まあ要するにこれはきっとたどるとどうしようもない因縁があるんだろうな、なんて思って。今日はあんまりそこは突っ込まないんですけど? あとでボロボロでてくるかもしれない。
ただ、共通してるのは、ボヘミアンだね、この人たちは。もうそれに尽きるんですよ。そんな人生送れるかい、ボヘミアン(笑)。でもわりと平気に送れる余地がこの世界にゃあるっていうことを3人は感じさせてくれる、というふうに私は思っています。
だからキーワードはボヘミアンになるけど、ボヘミアンって自由だってことだけどその自由の概念がずいぶん違うんですよね。本当に大変だなと思います。

中原:ボヘミアンが狂っちゃってボヘミアン・ラプソディ(狂詩曲)

― は、え? 中原さんあのーちょっとだいぶ体調悪いんで。はい。でも最近「ボヘミアン・ラプソディ」というのありまして、今日のタイトルにも「飲食店ラプソディ」ってありまして、なんだこれ、わかんねえタイトルつけやがってと思って、こんなんで司会どうするんだって感じだったんですけど。わりとボヘミアンな意識ありますよね。

苦し紛れが生み出したシェアスタイル

丸山:ええと意識というか、そうせざるをえないというか。まあ型にはまらないと先ほどおっしゃったけど、型にはまりながらどうやって外すか。まあ自分がそれに合わないって感じたことは人と違うほうにいったりとかっていうのは根っからのどうしようもない性格なんだと思うんですけど、それをもとにして人とちょっと違う面白いことなんか考えたいなっていうのはあるし。人がちょっと違うこと出してくると、あれそれ面白いじゃんってやっぱりそこに反応するっていうのが昔から僕の性格としてあるんですけど。

あと、それこそ人と共有するとかシェアするってことは別にそれを最初からそうしようとしてたわけじゃなくて。色々な行き詰まりとか、失敗とか。だけど人生いろいろね、いろんな流れがあって、あの時ああじゃなきゃ、ってよく言いますけど、あの時ああじゃなかったからこそ今っていうのは、誰もがそうであって。そういう、どうしようもないなとなった時にじゃあこの方法があるかなっていうひとつの形がシェアだったんです。

でもシェアという形をカフェでやるようになる前段階として、実は前からそういうことをしてたなっていうのは。なんでもそうですけど、実は自分で意識してないけど、やってたなと。

僕の場合だと、大学はそれこそ大学紛争の時代、学校に行かない理由がたくさんありましたからあの時代は。それを使ってロック喫茶に入り浸ったり。そこでいろいろ面白い人に出会ったり。大学に行くと闘争一本か、まあそんなこと無視した人たちしかいないんだけど、外の世界にいくと、いろんな人がひとつの場所、それは高円寺の「ムーヴィン」という場所だったり、吉祥寺やいろんなとこにあったロック喫茶、ジャズ喫茶だったんですけど、その音楽がどうとかいう以上に、そこを、そういう場所を頼りに寄り集まってくる人たちに、僕の知らない世界とか、それぞれのたどってきた道なりが色々感じられるわけです。それは面白かったです。

だからお店自体はその当時、シェアでもなんでもないんだけど、いわば集まってくる人でその場をシェアしてたわけですよね。
 もうひとつは、そういう大学紛争の時代だったんで、大学それほど行けず留年もして。卒業するとき、僕も就職かあと思ってたら、たまたま「丸山さん保育士やってみない?」って声かけてくれた人がいたんです。免許ないんですけど、ちょっと手伝いに来てよって言われて行って。

その人がとっても開かれた保育の考え方をもった人で、僕もはじめてそういう仕事をやったわけですけど、子どもの様子をみながらその日のスケジュールを考えていく。もちろん、どういうふうに持ってくかみたいなのは漠然とあるんですけど、ああ、そういうふうに人の集まる場所で考えることができるんだなってことを、その仕事を通じて覚えました。
その後、その方から離れて自分でも保育士の仕事を何年間かやりましたけど、そういう下地があって、人がいろいろ集まると、3歳児でも0歳児でも、それぞれの性格があるし、やりたいことがその日の気分で違う。大人だってそうです、みんな違う人がひとつのところに集まって、さあ一日どうするかっていうようなことを決めてくっていうのが、これは面白いなって自分でも思って。それを楽しんでる自分がいて。

まあ、たまたまそれこそ縁あってお店をやることになったときに、自分も別に料理の学校にいったり修行したわけじゃないけど、さっきの「オレでもできる」じゃないですけど、そういう形で集まった人でなんか考えを出し合ったら、もう店はできるんじゃないかと考えちゃったわけです。

そのへん丸投げ状態なんですけど、で、はじめたのが38年前になりますか。1980年にはじめたカルマという感じです。
なので、按田さんが、自分がやりたいわけじゃないけど、そういうパーティの冗談からやらざるをえなくなったのと同じか、それと似たような感じ。自分もお店という場所がこれからどんな大変さがあるかとか、人がたくさんいたら、うちもそうだったんですけど、ひととき、20人25人、そんなに売り上げがないのにスタッフがいっぱいいて、ちょっと整理しないとまずいとか、そういう、こう、お店経営のハウツーとかまったくわからないまま。でもやってるのは、楽しいっていう、やってはじめてわかる面白さがあるから、大変でも続いてきたと。

で、やっぱりやってる間にもこのままじゃ続かないということが何度も、今でもありますけど、何度も何度もありました。そのたびに、せっかく場所作ってきたし、ここを面白がってくるお客さんもいる。あるいは、お店やってくれてる人たちが場所作ってくれてるのに、辞めてしまうのはもったいないというので、日々なんとか続けられる方法を考えてるということです。

今はシェアって言葉も世間に浸透してて、ああ、じゃあシェアカフェやってみようとか、シェアすることを前提に考えるわけですけども、もう苦し紛れにシェアができた。もうその「苦し紛れ」っていうのが僕の中ではすごく重要なキーワードになっております。

― 苦し紛れって、いいですねえ(笑)。シェアって言葉、最近はわりと流通するようになったと思うんですが、10年前くらいかな、まだ日本ではあまり普通じゃなくて。今でもその意味はどうかな、概念やとらえ方どうかなと思って。

その10年ちょっと前に私はシェアを、ゲストハウスの経営にからんでいたんですが、そこでなんと、按田さんに会ったんですよ。

丸山:それも中野でね。

― まだそのころは、按田餃子なんて、按田さん自身も思ってませんよね。ほんの一瞬。そのゲストハウス、私たち単純に言えば、みんな使わなくなった家を、そのままじゃもったいなからって区割りとか再利用とかをしてて、按田さんが確か一軒家を。

按田:そうですね、庭付きの。

― 庭付きの一軒家。

按田:庭付き風呂なしですよね。

― そこを自分で、大家さんは自由に使っていいっていうんで。私は家の中にいるのがあまり好きじゃなくて、どこでも寝れるよって感じで。みんなに、じゃあ、あの庭にあなたテント張って暮らしなさいよってからかわれていたら、按田さんに会って。ほんと、挨拶しただけなんですよね。

按田:だから今日2回目ですよね。

続きはこちら。ボヘミアンたちの店づくり


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?