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ヒグラシ文庫8周年トーク・イベント(1)「飲食店ラプソディ~何の飲食店哲学の欠片もなく」

2019年3月13日(土)鎌倉の「まちの社員食堂」(神奈川県鎌倉市御成町11-12)で開催されたトーク・イベントの内容をお届けします。


登壇者

丸山伊太朗(ウナ・カメラ・リーベラ)
1980年から東京中野で無国籍料理店「カルマ」をはじめる。「こだわらないことにこだわる」をモットーに料理だけではなく人の場作りを常に模索。2001年頃より同じ中野で「una camera livera」、その後「エカイエ」、阿佐ヶ谷「イネル」を次々に共同オーナー方式でたちあげる。そこから自分の店や生き方を作り上げた人たちが全国に居て、今は実店舗はなくなってしまった「カルマ」を支えてくれている。その一人、鳥取の「カルン」の佐々木薫さんの店を引き継ぎ、tottoriカルマも運営中。

按田優子(按田餃子)
1976年東京生まれ。按田餃子店主。2012年より、食品加工専門家としてペルーアマゾンを訪れること6回。
著者に『男前ぼうろとシンデレラビスコッティ』『冷蔵庫いらずのレシピ』『たすかる料理』などがある。

中原蒼二(ヒグラシ文庫)
ごく若い頃、酒場のカウンターで、隣りあわせになった老人から、名刺を頂戴したことがあった。ずらりと並ぶ誇らしげな肩書には、すべて「元」が付いていた。それで貴方は、と問いかけると、老人の姿は忽然と消えていた。
1949年、東京生まれ。北九州角打ち文化研究会関東支部長。立ち飲み屋「ヒグラシ文庫」(鎌倉・大船)主宰。横浜周辺の酒飲みが欠かさず愛読している『はま太郎』の版元、星羊社から、昨年『わが日常茶飯ー立ち飲み屋「ヒグラシ文庫」店主の馳走帳』を刊行。

司会

遠藤哲夫(著述家・大衆食堂の詩人)
1943年新潟県生まれ、さいたま市在住。フリーライター。『大衆めし 激動の戦後史』(ちくま新書)、四月と十月文庫『理解フノー』(絵=田口順二、港の人)など。

左から、遠藤さん、丸山さん、按田さん、中原さん

型にはまらない人たちの「新しい食堂」茶話


― 司会を仰せつかったエンテツこと、遠藤哲夫と申します。よろしくお願いします。まあ、ほぼアル中なので朝から飲んでて。今、司会するにはちょうどいい状態ではないかと思ってます。

今日の方々は、なんていうんでしょうねえ、型にはまらない人たちがこうやって生きて、生き延びて、なんか店らしいものをやって、なおかつちょっとメディアに取り上げられたりするという非常に不思議な現象が起きていて。まあ、そのことについて言っておきたいわけではないんですが、とにかくそういう人たちのお茶飲み話をきくような気持ちで聞いていただけたらいいな、と思っています。

だんだん歳とると、なんか伝えたい、食の何か、自分たちがやってきたような飲食店とか食事の場所みたいなのがもっとできるといいなと思っているところが実はあって。そのあたりがたぶん今日の話題になると思うんです。

今日の顔ぶれはどうかなー、すでに今、飲食店やってる人もいると思いますけど、これから飲食店をやってみたいな、なんて思っている人がいたら、ちょっと手をあげていただけると嬉しいんですけど。おおー、お? おー、うれしいですねえ、ゼロよりは。

でも、もしかして今日の話を聞くと、「やっちゃえ」、イヤな商売だけどやりたくなっちゃう、かもしれない。今日はそのあたりをいきましょう。

さて、それで今日登壇いただいた方々は、まず主宰者である中原蒼二さん。1949年生まれ。で2011年に立ちのみ屋ヒグラシ文庫を鎌倉に開店したと。そのあと大船に開店したの、私いつなのか知らないんですが。

中原:四年後。

― じゃあ2015年に、大船店を開店したと、いうことであります。次に、ちょっと老けた順番にいくと、丸山伊太朗さん。実はこの人はあとで話をしていくとどんどんわかってくる。とんでもないところで影響力を持っている人ですが、とりあえずそういうことは抜きにして、1950年生まれ。で1980年に無国籍料理カルマっていう、もう、これは80年代でその分野で知らない人はいないくらい、もう、マルヤマ! カルマ!

丸山:いやいやいや(笑)

― 当時はまだ無国籍料理なんて認知されてないジャンルで、その後エスニック料理とかいわれたりするようになりますが、その分野の先駆者です。
それから、按田優子さん。もうこの人は、もう最近メディア露出がこの3人の中で一番激しい(笑)。雑誌、テレビなどで有名ですが。なぜか、いきなり離れて1976年生まれ。両脇の男からしたら、子どもの年代であります。2012年、このヒグラシ文庫ができたのが2011年ですけど、その翌年に按田餃子が開店して、もうどうしたんでしょうってくらい一気にのぼっちゃった。

いつでも何かまわりにあるものを面白がって取り入れて、それが、現在も続いてるだけ

― それで、私が丸山さんを大先輩だと思う理由は、お配りした資料で。

丸山さんの一代記みたいになってますが、丸山さんがはじめた時代といいますと、それまで小売業的というか、個人店と言われていた概念が、「インディペンデントなお店」というふうに変わっていく。レコード、ミュージシャンの世界でもインディペンデントレーベルとか、そういうのが出てくる時代なんです、80年代って。その時代に丸山さんがお店をはじめた。お店は80年ですが、その前からそういう動きがあった、そのあたりをちょっとやりますか。

丸山:カルマというお店をはじめる前、高円寺のロック喫茶の雇われマスター時代の話をすると、ごく一部だけで盛り上がってしまって、逆にみなさんにあまり伝わるものがないんですが(笑)

― ふふふ。

丸山:でも、それがなかったら、カルマというお店はできなかったと思うんですね。それで今、インディペンデントという言葉ありましたが、今でも個人店は個人店のまんまで、日々、苦悩しながら、今日も客がこないとか、無国籍料理カルマをはじめた時と、今現在と、まったく何も変わっていない。
齢をとったからお店を知ってる方が増えたとか、そういうことはありますけど、苦悩してる部分は全然変わらないんです。

なので、お店を開こうとしている方にこういう手法があるよ、こういうことやると面白いよなんてことは何もいえなくて、逆に「何かいいアイデアない?」って今の感覚を聞きたいくらいです。

で、お店の成り立ちとか、その時代のことはエンテツさんが書いてくれてるので省略して、今やってることの一つとして、みなさんにお配りした中にパンが入ってると思います。薄い、天然酵母のパンで、ココスキーパンと、勝手に名前をつけて。「ココスキーってどんな意味なんです?」って聞かれますが、別に意味なんか何もなくて、ココスキー、なんかロシアっぽくていいんじゃないかって。そういう考え方は、お店をはじめた時からずっとそう。

ココスキーパンの酵母はどなたにでもおわけできます。高知・四万十のほうでやってる方にわけて分は、ココモスキーパンってやっていただいたり。酵母はいつでも、無尽蔵に。今回は鳥取で焼いてきたので天然の鳥取の酵母が入ってるはずです、はい。もしよかったら食べてみてください。生で食べるよりちょっとあぶって食べたほうがおいしいです。

僕自身は別にパンがすごく好きなわけではなく、どっちかっていうと、ごはんとかラーメンが好きなタチなんですが、ある時、「マルさんホームベーカリーで簡単にパンができるよ、酵母も実は簡単なんだよ」、「へえ、おもしろいからやってみようか」 と、すぐその気になってやりだしたのが今に至って。もう10年…ええっとホームベーカリー6代目かな。そのくらい酷使して焼いてるパンです。

そんな感じで、いつでも何かまわりにあるものを面白がって取り入れて、それが、今現在も続いてるだけで。

この鎌倉にもカルマで働いてくれた方が、ワンダーキッチンっていうお店やってますし、昔からの知り合いが、Cafe GOATEEっていうロック喫茶をやってたり。それこそディモンシュもつながりがあって。どこの町にいってもなんか同じように苦悩して続けてるお店があって、そういうの知るたびに、ああ、やってて良かったなと思います。

お店、始める方はいっぱいいるんですが、2年3年で、なんで辞めちゃうのってすごく多くて。そりゃ大変なのはわかるんだけど、でも、長く続けて、よほどうちなんかよりもお客さん多いお店もたくさんあるんです。そういうの見ると、もうちょっとやろうかねってなって、まあずっとやってる。エンテツさんの話してほしいこととは全然違うかもしれない(笑)パンの説明になってしまいました。

― どうもありがとうございました。丸山さんは今おいくつでしたっけ。

丸山:ロックです(笑)。

― まあ、69年生きてりゃ喋らせると、このトーク終わっちゃいますんでこれくらいで。どうしようかな、中原さん最後にして、そこから娘以上に齢の離れた女性がなぜここにいるか。按田さんはもう有名人の部類に入りつつあるけど、やってることはまあ大して変わってない、くらいの、ちょっとやってることを。

餃子なんて別に食べ歩きもしないし、全然好きじゃないんですよ。

按田:はい、按田優子と申します、こんにちは。今は按田餃子という水餃子のお店をやっています。2012年に、共同経営で代々木上原に1店舗目をオープンして、去年の11月末、二子玉川に2店舗目をオープンしました。

私は、飲食業っぽい仕事をするのは按田餃子がはじめてで。それまでは製菓と製パンの仕事を、大学在学中からアルバイトで、ずっと焼き菓子とか天然酵母のパンを焼いたりしていました。まあ、そこはすごく職人の世界。朝、「おはようございます」って挨拶したら、そこからは何も教えてくれない。次何やりますかとか、1日の段取りがホワイトボードに書いてあるようなところじゃなくて。なんていうか、やっぱり全部知ってるのは親方で、ちょっとおかしいなと思うことがあっても、職人さんよりできないから口ごたえもできないという中で、10年間くらい働いてました。

その会社の流れで、お菓子やデリとかを作るようなお店をオープンして、自分もその工房長や商品開発を経験して、もうお店はこりごりというか。やっぱり、自分の下にも当然弟子みたいな人ができていくわけで、そういう人をどうやって育てていったらいいか。世代もどんどん変わる中で、自分が学んできたようなやり方ではたぶん、難しいって薄々思っていたし、人をまとめたりとかも、そんな好きなほうじゃなかったので、もうこの店をやめたら絶対に店なんてやらないと思っていました。

で、東日本大震災があった年に、ふと、なんとなく私生活を見直した時、冷蔵庫ないと生きていけないみたいなことに疑問を感じて、ちょっと家の冷蔵庫の電源引っこ抜いちゃったんですよ。食べきらない生の野菜は干したりとか漬けたり、お肉も塩分濃度高くしていけば夏も常温で越せるってことがわかったり。お魚もたくさん買いすぎなければいい。そんなふうにしながら『冷蔵庫いらずのレシピ』っていう本を出版しました。
その時にたまたま写真をとってくれたカメラマンが、その撮影の時のパーティトークというか、雑談のなかで「自分は水餃子屋やりたくて」みたいなこと言っていて。どうせそんなの話半分だから「それ、すっごくいいじゃん」なんて適当に相槌打っていたら、なんとその人、物件探してきちゃって(笑)。え? って。

だから本当は、最初は全然やりたいお店じゃないし、餃子なんて別に食べ歩きもしないし、全然好きじゃないんですよ。全然やりたくないお店なのに自分の苗字がくっついちゃって。あ、どうしよって。まあ愛着がないんですよ、最初のほうは。
でも、自分の店じゃないぶん、好きなものをこう、すごく盛り込んでっていうよりは、まあ誰か働いてくれる人がやりやすいとか、提供してほしいメニューがわかりやすくシステムになってるという仕組みをつくれば、私はその店にあんまりいなくて大丈夫っていうか。

というのも、按田餃子を始める2012年に時を同じくして、「冷蔵庫いらずのレシピ」のご縁で、別の方から、ペルーのアマゾン、低地ジャングルの電気とかガスが通ってない地域に、食品加工の専門家として行きませんかってお話をいただいたんです。セルバ地帯とか、昔、地理の授業の中ででてきたじゃないですか、アマゾン川がこう、うねうねしてるところ。「それは行きます!」って5年間、年に1回1か月くらいずつ行ってたんです。その間私は当然お店にいないので、はじめから自分がいなくてもまわる、誰かが店を守ってくれるから自分も好きなことができるっていうお店を作りたいなと思って。
はじめは数人だったアルバイトの人が今50人弱です。代々木上原のお店も10席しかないのに、スタッフ30人くらいいるんですよ。子育て中で、子どもがまだちっちゃいので週に1、2回、3時間だけ働きたいとか、そういう人の力を借りながらパッチワークでやってるので50人って感じ。で、なんとかみんなでがんばってます。

― どうもありがとうございます。明日で開店から?

按田:ちょうど7周年です。はい。

続きはこちら。ヒグラシ文庫登場。

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