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責任ある言論とは

もうあと少しで2022年が終わる。
しかし、余韻に浸っていられる暇はなさそうだなと常々感じる。

「責任ある言論」と聞いて、みんなは何を想像するだろうか。
嘘をつかない、デマを流さない、間違ってたら謝罪・訂正するetc…
挙げていったらキリがないだろう。

しかし私が思う「責任ある言論」とは、「誰かの加害者になることに対して覚悟をもつ」ことだ。
もちろん悪辣な誹謗中傷はあってはならないが、これが大原則だと思う。

そもそも「物を申す」と言う行為が「誰かの加害者」になることとニアリーイコールと言っても差し支えない言ってもいいだろう。
「誰かの加害者になったとしても、言葉で伝えたい」から言論を行う。
しかし、こんな初歩的なことでさえ、忘却の彼方へと飛んでいってしまったのが昨今の状況なのではないかと悲観してしまう。

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「エコーチェンバー現象」という言葉が(私がメディア系の大学に通ってた当時に比べれば)割と一般化しはじめている。
「SNSでは、自分にとって心地よい意見ばかり集めるのではなく、適度に反対意見の声も見えるようにしておかないと、エコーチェンバーに嵌って認知が歪んでしまうぞ」という戒めに近い形で広まってきている。

その対処法orバランス感覚を身につける方法として、「反対意見を視界に入れる」や「ブロックやミュートをせずに多種多様な言論を視界に入れる」などが挙げられるだろう。

しかし、その対処法というのが一昔前、2010年代ならでは感が否めない。年齢層が高め≒おっさんが多いの政治界隈にはピンとこないかもしれないが、2010年代と2022年現在では全く別の時代だ。つまり、このエコーチェンバー対策も2022年現在では通用しなくなってきている。

ブロックorミュートを多用する人間は、自分にとって心地いい言論しか聞こえてこないからおかしくなる

ブロックorミュートを使わず、多種多様な言論に耳を傾けることによって、バランス感覚を保つ

それを心がけている私は、中立or中道を保っている

なんとなく聞いていると筋が通ってるように思える。
しかし実際のTLはどうだろうか。

極論を言って悪目立ちしている各界隈の最底辺を覗いては、「こんな不届きものがいたぞー!」と怒り狂っては正義の棒を振りかざしてる。
”多種多様な言論に耳を傾けブロックorミュートで拒絶しないバランス感覚に優れた自分”
そんな潔癖な存在でありたいという欲求とは裏腹に、極論を言ってる悪目立ちした人を見つけては原理主義者だの信者だのラベリングに勤しんでいる。
はっきり言ってバランス感覚の涵養かんようにはなんら寄与していない。「日本は右傾化したー」と騒いでる極左と同様、自分が端っこに行き過ぎたせいで周りの全てが極論に見えているだけだ。

挙句の果てには「他から引かれないように行動に注意してください」と自分のフォロワーに向けて”お利口にしてなさい”とやんわりと圧をかけたりする者いる。

しかし誰かの加害者になることに対して覚悟をもつことなく、物を申すバグ技が一つだけある。いわば「誰も傷つけない言論」を行う方法と言ってもいいだろう。
「誰も傷つけない言論」を行うたった一つの方法は、批判対象を悪魔化させることだ。
殺人は許されないがハンティングなら許される」のごとく、批判対象者を非人間扱いすることによって、「誰かの加害者になることに対して覚悟をもつ」ことなく、いわば無責任な言論を行うのだ。
極論を言ってる悪目立ちした人を見つけては原理主義者だの信者だのラベリングに勤しんで攻撃するのは、これに近いのかもしれない。

「人を傷つけないように振る舞う、発言に気をつける」
マイルールとして設ける分には全く問題ない。
ただ、言論というのはどうしても「誰かの加害者になる」性質が孕んでしまう。そうするとこのマイルールはどうしても足枷になってしまうのだ。
他人はお構いなしに言論を行う。それぞれの自己責任で。
自分だけ我慢してる状況に耐えられなくなった結果、Twitterマナー講師のごとく、全方向に"けしからん"をばら撒いて、自粛させようとする。

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とある日の日曜日、私は有楽町に訪れていた。
駅前は年末ジャンボの宝くじを買う人たちで長蛇の列をなしていた。
有楽町のとある焼き鳥屋さんで、私は会社の同期たちと少し早めの忘年会をして、楽しいひとときを過ごした。そこでの会話では仕事の話を一切せず、健康診断の話やマイホームの話といった当たり障りもない世間話で溢れかえっていた。

それとは対照的に、ガースー政権とは違った方向の決断力増税を岸田政権が見せつけ始め、それに阿鼻叫喚する様がTL上で駆け巡っていた。

「反対意見を視界に入れる」や「ブロックやミュートをせずに多種多様な言論を視界に入れる」ことによってバランス感覚を養ってると殊勝なことを言ってる人たちは、極論を言って悪目立ちしている各界隈の最底辺を覗いて勝手に怒り狂っていた。

一体どっちが健全なのだろう。
SNSという狭い世界だけで中道を保とうとする人とSNSの外側にあるリアルを見てる人とでは。

各界隈の最底辺の極論や反対意見(≒傷つけていい悪魔)を見つけて吊るし上げては「こんな不届き者けしからん!」と呼びかけて終わりのない戦争を繰り広げている放火魔ごっこをSNSでやってるかと思えば、自分はバランス感覚に優れた賢者であるかのように振る舞う。そういった人たちが「中道」や「是々非々」なんて言葉を仮面のように使う。
一体なんのホラーなんだろうか。

そして中道を名乗る人に私は問いかけたい。
一体どうして自分は中道だと名乗れるのかと。
結局のところ、吊し上げた人たちを見て「こいつらよりはマシ」そんな観点で導いたのが関の山だろう。
自分の思想というのは、就活の自己分析のように(いやそれの数十倍難しいとは思うが)これまでの経験や感情などを深掘りしていき、終わりの見えない自問自答を続けていった先にある物であると思う。
決して外れ値と比較しただけでは見つからない。

所構わずいい子ぶっては、無責任な言論お気持ちマナーを振りかざしては、極論叩きに勤しむ。脳みそがSNSで支配されてしまった人たちに正常な言論ができるとは到底思えない。
「人間性に食い込みます」だの「品性」だのを言ってさも自分が”常識人”かの如く振る舞いたいのかもしれないが、その日の自分の気分≒お気持ちだけで人を断罪したいだけなのだ。
自分にまともな知識がないことがバレないように、カモフラージュしているだけとも言えるのかもしれない。

もう一度言おう、「責任ある言論」とは、「誰かの加害者になることに対して覚悟をもつ」ことだ。
覚悟を持つことができない意気地なしを置いて、私は来年もこのnoteで色々書き込んでいきたい。

来年のnoteはどんなテーマで何を書こうか思いを馳せようと思う。

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