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脳みそ・ラジオ・肩書き【2023年振り返り】

2023年の年末は、人生で最も「今年の振り返り」と「来年の目標」を腹落ちするまで考えることができた。こんなことは初めてだったので少しはしゃいでいる。その勢いでnoteに今年の振り返りを書くことにしたい。

今年は急に東京から地元の札幌に引っ越したりなど大きな出来事がいくつかあった。ただしこの記事ではSNS(Twitter、noteなど)で活動している「つじー」の2023年に焦点をあてて振り返っていくことにする。


1.「情報収集」から「思考発信」への転換

3月ぐらいからSNSの使い方を自分なりに変えてみようと考えるようになった。細かい微調整は今も続いているが、一つの大きな軸はブレずに意識して使えるようになっている。

その軸が「自分の『脳みそ』をさらけだすこと」だ。

本音をむき出しのまま好き放題いうことではない。どんな話題にも自分の旗色を鮮明にして見えない何かと戦うわけでもない。自分がどんな切り口で思考していたり、どんな過程で思考しているのかが少しでも見えるように自分の考えを発信するイメージだ。

バズることやみんなに支持されること狙ってつぶやくのではなく、淡々と自分の頭の中を誤読されにくい表現に言語化して発信していく。キラキラしてないし華もない。地味な使い方である。

10数年以上の付き合いになるTwitterはもちろん、途中からはnoteを昨年以上に使いだした。Twitterの140字では考えの過程や背景がわかりずらい話はつぶやくのをやめてnoteに持っていくことにした。

「考えの過程や背景がわかりずらい話」をするのに便利だったのが書評だ。

オードリーの若林正恭さんは、自身が書いた紀行本『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』について「紀行文の中に自分の本音を忍ばせている」とテレビプロデューサーの佐久間宣行さんに評されていた。

僕もそんなイメージで書評を書いている。本の紹介だけではなく、自分が何を思考したかしっかり書き残す。書評を読んでいけば僕が普段何を考えているか振り返られるようにしたのだ

この1年でSNSの使い方が「情報収集」ではなく「思考発信」が中心になった。なんだかTwitterをはじめた頃、誰が見てるとか気にせず気ままにつぶやいていた楽しさを思い出すことができた。ここにきてまたSNSがすごく楽しい。

大変ありがたいことに、僕の脳みそをちょっぴり面白がってくれて交流を深めた方々もいらっしゃる。こんな自分を見つけてくださりありがとうございますという気持ちである。来年も同じように淡々と発信することをきっかけに、一人ずつ交流が増えていくと楽しい1年になりそうだ。

2.憧れのラジオブースで生放送1時間ゲスト出演

11月に札幌のコミュニティFM・三角山放送局の「コンサドーレGO WEST!」にゲスト出演した。1時間の生放送である。

出演の経緯は、たまたまMCの方と顔をあわせたときに自ら「僕、(ゲストで)しゃべれます」と半ば逆オファーしたのがきっかけだ。

なぜそこまでして出たかったか。それは「ラジオブースでしゃべること」が僕の夢だからだ。2020年頃からラジオを聴くことにハマって以来、ずっとラジオに日常を支えられてきた。同時にパーソナリティが内面をさらけ出しながら心底ラジオを楽しんでいる姿に憧れを感じるようになった。

どうせ最初で最後のラジオブースになるかもしれない。自分が精一杯楽しめるようにちゃんと準備しよう。過去のゲストの傾向を調べて番組を研究し、事前アンケートはMCとスタッフのみなさんが興味をもってくれそうなトピックをいたるところに散りばめた。曲をリクエストできると知り、話すチャンスがあるか分からないのに選曲理由の前口上を準備した。

実際の結果は聴いていただいた方々に聞かないとわからないが、本当に楽しく夢のような60分間を過ごすことができた。ラジオブースに座り、ヘッドホンを片耳に当てながらディレクターの指示聞きながらしゃべる。僕が普段聴いているラジオだ。前口上を言って曲フリをした瞬間は泣きそうになった。

何年も交流がなかった大学時代の後輩たちから「聴きました」と連絡がきたり、想像以上に知り合いが聴いてくれていたことには驚いた。これがPodcastやYouTubeに出演なら、そこまで聴かれていたか。「ラジオ」だからこそ、様々な知り合いが興味を持って聴いてくれたと僕は思っている。オールドメディアなんて言われていても「ラジオの格」は健在なのだ。

自分にとってラジオブースでしゃべることがどんなに憧れだったかを改めて感じた。この気持ちは動画配信やPodcastでは代えがたいものだ。最初で最後かもと思ってたくせに「何かしら出演オファーされてみたいなあ」や「万が一パーソナリティになれた日には卒倒するだろうなあ」など寝言は寝て言えな妄想がどうしても浮かんできてしまう。人間の欲望は果てしないのだ。

「……ところで、ラジオってどうすれば出演できるんですか???」

3.自称「書評家」になる

12月、自分のプロフィールに「書評家」という言葉を入れた。その日より僕には「書評家」という肩書きができたのだ。とはいえ生業になっているわけでもないし、なる見込みも予定もない。自分のnoteで細々と不定期に書評をあげてるだけである。勝手に名乗っているだけ。まさに「自称書評家」だ。

こうやって肩書きをつける決断をした理由はいくつかある。中でも非常に大きな2つについて書いておく。

ひとつは、単純に「肩書きがほしかったから」だ。ここ1年半ぐらい、いろんな交流の場などで感じたことがある。「多くの人は肩書きがある人と比べて、肩書きがない人を軽んじる」という事実だ。

肩書きは見た目と同じくらい効果がある。一度軽んじられると、人間の中身を見てもらうことは難しい。正直僕は今でも「上っ面の肩書きより大事なのはその質でしょ?本質が大事じゃん」と思っている。かといってせっかくアウトプットしても、その内容以前の問題で見向きもされない確率が増えるのはもったいない。でも自分が名乗る勇気を持てる肩書きが見当たらなかった。

非常に興味深いのは「肩書きの『質』はあまり求められてない」ということだ。僕のような書評家、あるいはYoutuberやモデルなど様々な肩書きが存在している。その肩書きで残してる実績やアウトプットの質は二の次、三の次である。何かしら名乗って看板をかかげていれば「おおっ」となって目つきが変わる人が思いの外いるのだ。もちろん深く知れば知るほど質にも目がいくが、「ぱっと見」ではまず看板があるかどうかで人間は人間を判断する。

もう一つは、これも単純に「書評をほめられた」からだ。僕の書評はたくさん読まれているわけではない。他の人が読んで面白いのかも分からない。でもありがたいことに「書評を読んでいるとその本を読みたくなる」や「読書欲を再びかきたててくれる」という言葉をぼちぼちいただいた。その言葉ひとつひとつが僕の自信につながっている。ぜひ来年もよろしくお願いいたします。

さらに大きかったのは「本に関わる職業」の人たちからもほめられたことだ。プライベートとはいえ、いわば業界人に近い人たちから面白いと言ってもらえたのなら僕の書評もぼちぼちの質と信じていいのかもしれない。そう思うと「書評家」を名乗る気持ちにかたむいていった。

肩書きにつけたからには、2024年は気まぐれではなくもっとコンスタントに記事を書いていけたらと思っている。とりあえず1年間は目標を立ててコツコツがんばってみるつもりだ。

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