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ミハイロ・ペトロヴィッチにまつわる5つの妄想

「北海道コンサドーレ札幌 Advent Calendar 2023」に寄稿した記事です。毎年恒例になっているこの企画、どれも興味深い記事が並んでいます。企画者のアヤさんに感謝です。ありがとうございます!



1.序:ミシャを考えるのに必要なのは分析ではなく妄想だ

2023年12月3日、J1リーグ最終戦後のセレモニーでコンサドーレの三上GMの口からミハイロ・ペトロヴィッチ(通称ミシャ)監督に来季も指揮をたくす意向が明らかになった。正式契約はまだであるが、ミシャ自身もスピーチで来季もコンサを率いることに前向きな発言をしている。彼が北海道で7年目のシーズンを送ることはほぼ間違いないだろう。

ミシャが率いるコンサドーレを見てきて6年、頭の中にずっと消えなかった問いがある。

「ミハイロ・ペトロヴィッチとは何者なのだろうか?」

メディアを通して伝えられるミシャは一見すると分かりやすい。「超攻撃的サッカー」、「ポリバレント」、「オールコートマンツーマン」、「チームはファミリー」、「サッカーが上手くなる」などキャッチ―な言葉が並ぶ。それらの言葉はどんな人でもミシャのイメージを分かったような気にさせてくれる。

だがその言葉の裏を考えると疑問が残る。「そもそも『攻撃的』とは何なのか?」、「なぜミシャの元でプレーするとみな口を揃えて『サッカーが上手くなる』と言うのか?」、「『サッカーが上手くなった』のになぜチームは結果が出ず、選手個人も代表やヨーロッパで輝かないのか?」など「ミシャすごい」だけでは解けない問いがいくつも浮かぶ。

2006年にサンフレッチェ広島の監督に就任してから、ミシャ自身が取り組んでいるサッカーが少しずつ変わっているのは間違いない。一方で「ミシャのサッカーは分かりきっており研究され尽くした」という声もある。だが仮に研究され尽くしたとしたら、彼がここまで日本でキャリアを続けられているのはなぜだろうか。J1から降格したのは広島時代の2007年だけである。

これらの疑問を考えるとき、もはや試合の中で起こっている事象を分析するだけでは難しく思えてくる。といっても僕が苦手なだけかもしれないが。だからといって一般のサポがピッチ内の事象を観察する以外にアクセスできる情報はメディアが流すニュースだけである。

そこで必要なのが「妄想」だ。コンササポがミシャの本質にたどり着く方法として「分析」ではなく「妄想」があっていいのではないだろうか。

この記事では、僕が常々思っていたミシャにまつわる問いの答えを「妄想」する形で探っていく。実態を知る者からすると、まったく違う答えだったり考えすぎてとんちんかんな方向に話が進んでいるかもしれない。それもまた一般のサポが手に入れられる情報から思いつく限界なのだろう。

だがクラブや選手からの公式見解を絶対視するのではなく、それをふまえて自分なりに考えをふくらませることもサッカーの楽しさだと僕は信じている。

2.妄想1:ゴールが決まらないと「攻撃的サッカー」ではないのか

ミシャが監督に就任してからのコンサは「攻撃的サッカー」(あるいは「超攻撃的サッカー」)が代名詞となってる。ミシャ本人はあまり声高にこの言葉を連呼しているわけではないが、クラブの経営陣やメディアが積極的に使っておりコンササポにかなり浸透している様子だ。

この「攻撃的サッカー」という言葉、コンササポはどんなイメージでいるだろうか。なんとなく浮かんでるイメージを他の人も同じように思っていると無意識に思い込んでいないだろうか。

一番浮かびやすい「攻撃的サッカー」のイメージは「ゴールがたくさん入る」や「(ゴールチャンスになる)シュートを数多く打つ」といったものだろう。たしかに経営陣もメディアもゴール数やシュート数を「攻撃的である」と示す材料に使っている。

他には「ボールを支配して相手にボールを渡さない」というイメージもあるかもしれない。ボール支配率を使って「攻撃的」だと示すケースもある。

もし、来季のコンサドーレが史上一番ゴールを決めシュートを打ったシーズンになった姿を想像していただきたい。まさに「攻撃的サッカー」にふさわしそうなシーズンである。

では、9人で自陣に引きこもって守備をし、誰も止められないようなスーパーなFW1人が一人で突破してゴールを荒稼ぎするようなサッカーでこのような成績を残したとしたらどうだろう。そんなサッカーを僕らは「攻撃的サッカー」と果たして呼んでいるのか。

続いてボール支配率の話をする。ボールを支配していても、なんとなく「攻撃的」な感じがしないコンサの試合を我々は何度もみているはずだ。自陣でボールを回してる時間帯が長いときである。そのプレー自体が悪なわけではない。でも「攻撃的だ!」とみんながイメージするかは別の問題だ。

そもそもボールを支配していなければ攻撃的になれないのだろうか。そうならば相手チームがボールを持っているとき、コンサドーレは絶対に「攻撃的サッカー」ができないことになる。本当にそうだろうか。おもしろいことに過去のミシャの試合後コメントを読むと、ボール支配率が相手より低い試合でもミシャが内容に満足していたりする。どういうことだろうか。

ここで「妄想」である。ミシャの考える「攻撃的サッカー」は、ボールを持つ持たない関わらず実現できることなのではないだろうか。つまりゴールもシュートも本質ではない。「攻撃的サッカー」が実現した結果として、ゴールやシュートがあるだけだ。それらは「攻撃的サッカー」を実現する条件ではない。

ここでアヤックス、バルセロナ、オランダ代表、マンチェスター・ユナイテッドなどを率いたオランダの名将ルイス・ファン・ハールに登場してもらう。彼の考える「攻撃」について、ジョナサン・ウィルソン『バルセロナ・レガシー』には以下のように記されている。

マンチェスター・ユナイテッドを筆頭に、ファン・ハールのサッカーは攻撃的とは程遠いと主張する人はたくさんいるが、「攻撃」という単語はサッカーにおいてはあいまいなものである。最もスリリングなゲームとは、攻められていたチームがあっという間に攻撃に転じるカウンターアタックである。ファン・ハールにとって攻撃とは、ボールを保持するにもプレスでボールを奪い返そうと狙うにも、常に積極的な姿勢で向かうという意味なのだ。

ジョナサン・ウィルソン『バルセロナ・レガシー』より
(太字は目立たせるためにつじーが太くしました)

攻撃は英訳すると「attack」だ。僕らはゴールにattackすることが攻撃だと思いがちだ。でもファン・ハールにとっての攻撃はどんなときもボールにattackすること、積極的にボールに関わることを指す。積極的にボールへattackした先に相手ゴールがあり、得点がある。

自分たちがボールを持っているときは、すべての味方がどのように動けばボールに関われるか意識してプレーする。相手チームがボールを持っているときは、積極的にボールに関わる、つまり能動的にボールを奪いに行く姿勢をみせる。

このファン・ハールのあり方は、ミシャの「攻撃的サッカー」の考え方と通ずるものがあると僕は思っている。偶然にも両者はヨハン・クライフの影響を受けた監督だ。

この考えならば、仮にボールが相手に支配されていても奪い返すときの姿勢が「攻撃的」か否かの基準になる。自陣に押し込まれてた状態でも、例えば最終ラインの岡村選手が冷静な判断から勇気を持ってラインを上げてボールを奪えば、それは「攻撃的」なのだ。

相手よりも積極的にボールに関わることは、ボールを持っていても持っていなくても能動的にゲームをコントロールしようとする姿勢につながる。そうやって90分間ゲームを支配し続けることがミシャの考える「攻撃的サッカー」の最終目標ではないだろうか。

ジョナサン・ウィルソンが書くように「攻撃」という言葉はサッカーにおいてあいまいなものだ。あいまいだからこそ「攻撃的サッカー」は、みんなが理解したように思えるし、みんなが理解してないようにも思える不思議な言葉である。

3.妄想2:いつまでも勘違いされる「ポリバレント」

ミシャがコンサドーレを率いてから本人やメディアから聞かれるようになったのが「ポリバレント」という言葉だ。

日本人の多くはポリバレントを「複数ポジションができる」というニュアンスでとらえているように感じる。だから僕らもあらゆるポジションができる荒野選手や駒井選手のことをまさに「ポリバレント」だと評するだろう。

ミシャが影響を受けた監督にイビチャ・オシムがいる。彼はユーゴスラビア代表、ジェフ市原、日本代表などで監督をつとめた名将だ。ミシャとはSKシュトゥルム・グラーツで監督(オシム)とコーチ(ミシャ)の関係であった。

オシムはインタビューでポリバレントについてこのように語っている。ポリバレントではなく、ポリバレンスという言葉になっている箇所もあるがニュアンスは一緒なので気にしないでほしい。

サッカーでポリバレンスというと、私の思うところでは、走り、フィジカル、テクニカルの面で最高レベルであり、メンタル面であらゆるシチュエーションに対応できること。ポリバレントな選手は、どのポジションでも使える

シュテファン・シェンナッハ、エルンスト・ドラクスル『オシムが語る』より
(太字は目立たせるためにつじーが太くしました)

オシムの考えるポリバレント(な選手)を僕なりにざっくりまとめると、以下の5点になる。

(1)走力が最高レベル
(2)フィジカルが最高レベル
(3)テクニカルが最高レベル
(4)あらゆるシチュエーションに対応できるメンタル
(5)どのポジションもできる

整理してみると彼のいうポリバレントは「すべての能力が高い」ことにならないだろうか。六角形のグラフがパンパンにふくれあがったような選手だ。つまり「サッカーがめっちゃできる選手」がポリバレントである。

オシムはポリバレントを考える際に多くの役割をこなせることではなく、能力の高さに主眼をおいている。

そんなオシムに影響を受けたミシャにとっての「ポリバレント」もオシムの解釈とまったく異なるとは僕には思えない。

それをふまえて今季のキャンプ前に道新スポーツにのったミシャのインタビュー記事を読んでみる。

「キャンプでは、より選手のポリバレント性が増していくようなトレーニングをやるだろう。FWの選手が中盤になったり、中盤の選手がDFになったり、DFの選手がFWになったり。より選手が流動的に、どこでもできるようにもっていきたい。練習試合の時に、センターフォワード・岡村大八、トップ下・田中駿汰、そんなことがあり得るかもしれないし、駒井と深井が3バックをやっているかもしれない。攻撃的な選手がストッパーをやったら守備の能力が上がるだろうし、守備の選手が攻撃的なポジションをやったら攻撃の能力が上がるだろう。そうした選手の能力を高めていくような試みをしていきたい

来季は選手の新たな一面を引き出す 年末特別インタビュー連載《ミシャイズム再考》②より
(太字は目立たせるためにつじーが太くしました)

このミシャの言葉を「複数ポジションをこなせるようになる」という解釈ではなく、紹介したオシムの解釈にそってミシャの真意を考えてみる。すると「複数ポジションができる」ことは、ポリバレントになることではなく、ポリバレントになるための手段の一つということに気がつかないだろうか。

「ポリバレント性を増す」ということは、選手の能力を高めるということだ。攻撃的選手は守備能力を上げ、守備的選手は攻撃能力を上げることで能力がバランスよく高い選手を育てていく。そのためにミシャは選手にあらゆるポジションをやってもらい、バランスよく能力を上げようとするのだ。

「ポリバレント」は簡単に言えば「能力がすごく高い」という意味合いでしかない。能力が高ければ、試合に勝てるようになり、成績もあがる。ミシャは当たり前のことを言っているだけなのである。何も特別なことではない。でも頭に残る言葉だ。だからこそ「ポリバレント」はミシャを象徴する魔法の言葉のひとつとして印象づけられている。

4.妄想3:練習を公開している本当の理由

ミシャ体制でのコンサの大きな特徴として、基本的に練習を全公開していることがある。

現在、世界中を見渡すと多くのクラブは練習をほとんどを非公開にしているようだ。なぜなら「研究されてしまうから」だ。練習を見ればチームのやりたいことやチーム状況が丸裸に分析されてしまう。分析をもとに対策されて試合にのぞまれればチームは勝てず結果を残せない。チームの一番の仕事は勝つことだ。そのために非公開は仕方がないのである。

日本でも練習見学しているサポーターが練習の内容や参加してるメンバーをSNSで発信するとやんや言われるなんて話がある。反町康治さん(現・日本サッカー協会技術委員長)が監督をしていた頃の伝説として「対戦相手のサポーターが練習見学したときのSNSの発信もチェックしている」というものがあるそうだ。

反町伝説の真偽はさておき、このエピソードから分かるのは「プロの監督やスタッフならば、相手チームの練習に関する断片的な情報でも分析のヒントにする力がある」ということではないか。そう考えると、コンサとミシャが行っている練習全公開は自殺行為に等しい。仮に公開された練習の様子を他のチームの人間が知れば完璧に分析される可能性があるからだ。

だがミシャは練習を公開し続ける。そこには次のような思いがあるからだ。

「他のクラブでは1週間で1、2日程度の公開練習や、非公開を貫くクラブも少なくない。コロナも理由に『秘密主義』が進んでいるんじゃないですか? 私にとってサッカーは見る人あってのスポーツ。いかにお客さん、サポーターを大切にするかだと思っている」

J1札幌、ペトロヴィッチ監督が大切にしてきた練習公開…コロナ禍で加速?「秘密主義」へ名将からの言葉

対戦相手の試合だって、毎試合見ていれば、どこにどの選手がいて、どんなサッカーをしてくるかは大体分かってくる。どこまで隠す必要があるのか、練習にどれほどのサプライズがあるか。私はできるだけサポーターと近い距離で、サポーターに(プロの)トレーニングを観て楽しんでほしい

J1札幌、ペトロヴィッチ監督が大切にしてきた練習公開…コロナ禍で加速?「秘密主義」へ名将からの言葉
(太字は目立たせるためにつじーが太くしました)

日本にサッカー文化を根付かせるため、サポーターを楽しませるために練習をすべて公開する。なんて素晴らしい考えなのだろうか。現に宮の沢の練習場にいくと、ミシャの願い通り老若男女のコンササポがプロの練習を楽しんでいる。

……本当にそれが理由なのだろうか?

もちろん紹介したミシャの思いに偽りはないし、本気でそう思っているのは間違いない。そこは全面同意する。ミシャが「見ていて楽しいサッカー」を表に出すことで、勝ち負けを大事にする印象が薄くなっていることも「サポーターを思って練習公開してる!ミシャすごい!」というイメージをサポに与えている側面もある。

しかし、この6年間真面目にミシャの振る舞いや言葉を見続けていたコンササポにはわかるはずだ。おそらくコンサドーレの中で最も負けるのが大嫌いなのがミシャであることに。誰よりも負けるのが大嫌いな男が、負ける確率が上がるかもしれない行為をサポのためとはいえ行うだろうか。多分しないだろう。

ミシャが練習を公開する根っこにある理由は単純明快だ。「練習公開しても勝つ自信がある」、これだけである。その根拠はなんだろうか。

改めてミシャのコメントを読むと「対戦相手の試合だって、毎試合見ていれば、どこにどの選手がいて、どんなサッカーをしてくるかは大体分かってくる。」という発言が出てくる。

素直に読み取れば「試合をずっと見てたら互いに対戦相手を分析することは容易。練習を公開しようがしまいが丸裸にできてしまう」という話に思える。ミシャからすれば「サッカーは分析されてからが本当の勝負」なのかもしれない。

そこでミシャがコンサドーレに来てから取り組んでいるマンツーマンの話につながる。要は「最終的にみんなが1vs1で勝てば、何もかもひっくり返るよね。勝てるよね」ということなのだ。分析されても結局は選手一人ひとりが自分の力を発揮して、相手選手を上回れば勝てる。それがサッカーなのである。

もう一つ、突拍子もない妄想をしてみる。

もしかすると、練習を全部見てもコンサドーレを分析で丸裸にすることは不可能なのではないだろうか。

ここでちょっとした思考実験をはさむ。例えば1ヶ月間コンサドーレの練習をずっと観察し続けて、練習内容を完全にマスターしたコーチがいたとする。その人が自分のチームでまったく同じ練習、同じアプローチを行ってもミシャのチームとは似ても似つかないチームになってしまう。つまりコピーに近いものが絶対に作れない。それがなぜかは細かく僕には分からないけど。

広島時代、ミシャの元でコーチをつとめた森保一・日本代表監督は次のような証言を残している。

ミシャさんは本当に天才で、頭の中にすべてのことが入っていて、デイリーのスケジュールは何をやるかも決まらないというか、ミシャさんの中では決まっているかもしれないですけど、練習メニューも当日になってみないとわからないですし、その中でコーチはいろいろなことに対応できないといけないことを学びましたし、それが当たり前だと思っていました。

土屋雅史『蹴球ヒストリア』p329より
(太字は目立たせるためにつじーが太くしました)

広島時代からもう10数年経っており多少なり変化はあるかもしれない。でも人間の本質はそう変わらない。森保さんの言葉にはミシャの本質がつまっている。ミシャの描いている絵やプランの全体は彼の頭にしかない。秘伝のタレのレシピは彼の脳内にしか存在しないのだ。頭の中は公開されないので完全にコピーできない。

ただ、この妄想の最大で最悪の問題点はその秘伝のタレが何かがまったく分からないことなのだが。

経営学者の楠木建さんは、優れた経営戦略について『ストーリーとしての競争戦略』で次のように書いている。

しかし、個別の違いをバラバラに打ち出すだけでは戦略になりません。それらがつながり、組み合わさり、相互作用する中で、初めて長期利益が実現されます。

楠木建『ストーリーとしての競争戦略』p20より

優れた個々の施策を無作為に実行しても戦略にはならないし成果は出ない。大事なのはそれらの施策をどのようなプランで組み合わせて、どのような順番で実行するかだ。

サッカーの練習も似ているのかもしれない。個々の練習を同じようアプローチで真似しても意味がない。それぞれの練習をどのように統合していくかというプランこそ秘伝のタレである。それは実行者である監督の頭の中をのぞかないと絶対にわからない。

5.妄想4:ミシャ≒マーロン・ブランド(『ゴッドファーザー』)説

日本にやってくる外国人監督の中には「チームはファミリー」と強調する人が少なくない。ミシャも例外ではなく「チームはかけがえのないファミリー」と語っている。

実際にコンサドーレは雰囲気がよいと他クラブから移籍してきた選手が口をそろえて言っている。「こんなに雰囲気のいいチームは見たことがない」とまで断言する選手もいるそうだ。ミシャが選手やスタッフを愛してる様子を伝わるし、ミシャもみんなから父のように慕われている。

コンサドーレというチームはまるでファミリー、「疑似家族」のようだ。雰囲気のよさは選手がのびのびプレーできる要素でもあり、新たな選手がコンサでプレーすることを選ぶきっかけの一つになり得る。

ただし、ミシャのいう「ファミリー」には注釈が必要だ。そのファミリーはあくまで「(ミシャを絶対的トップに置いた)ファミリー」である。ミシャの元では誰もが平等で、序列はない。コンサには「ミシャ」と「チームみんな」というグループしか存在しないようにも思える。

僕が思い浮かべるのは、映画『ゴッドファーザー』でマーロン・ブランドが演じたドン・コルレオーネ(ヴィトー・コルレオーネ)だ。マフィアのボスとして、自分に忠義を尽くす仲間はどんな手を使ってでも手助けするし、本物の家族のように愛する。だがそれは自分が絶対的ボスとすることが条件である。

このリーダーのあり方に問題があるわけではない。Netflixのドキュメンタリー『ベッカム』では、マンチェスター・ユナイテッドの監督だったアレックス・ファーガソンもまさにドン・コルレオーネのようにチームを束ねていた。

彼はピッチ内ではなく、選手の私生活にも非常に気を使った。教え子がチームのためにより素晴らしいプレーするためにはどんなことも惜しまず協力した。だからこそ、スターへの道を歩み始めたベッカムに自分と親しい代理人を紹介して契約するようにすすめたのだ。それを袖にして自分で代理人を決めたことがファーガソンとベッカムの関係性を揺るがす出来事のひとつになってしまうのだが。

この『ゴッドファーザー』的なミシャのあり方と非常に相性の悪い話がコンササポからときどきTwitterのタイムラインに流れてくる。「ミシャに優秀な右腕コーチをつけろ」論である。

よく聞くのは2018~2021年までヘッドコーチをつとめていた四方田修平・横浜FC監督を呼び戻せば守備を立て直せるという話である。

そもそも横浜FCとちゃんと契約を結んで一生懸命仕事にはげんでいる状況で「帰ってこい」などと軽々しく言うこと自体、横浜FCと四方田さん自身に失礼かつ馬鹿にした話である。正直「ほんと自分のことしか考えられないんだな……」と思ってしまうのだが、本題からズレるのでこの話はここまでにしておく。

また四方田さんに限らず「誰か守備を立て直せるコーチを」や「ミシャに進言して考えを変えさせるコーチを」なんて嘆きに似た提案もタイムラインに流れてくる。

一見すると一理ある話だ。しかしこの議論には重要な論点が欠けている。そもそもミシャは右腕の存在を望んでいるのだろうか?

ミシャの元では誰もが平等とするならば、そこから逸脱してミシャと肩を並べるようなコーチはマネジメントとしてノイズになる。なぜなら自分が絶対的ボスだからだ。もっといえば、自分を最も理解し、ずっと寄り添っている右腕なら杉浦大輔コーチがいるではないかと。

「守備を立て直せば……」という気持ちはわかるが、それがもしミシャの方針や哲学に合わないのであれば彼は決して受け入れないであろう。ミシャは「哲学を曲げない」ことも己の求心力の養分だからだ。そこで進言を聞き入れたらミシャはミシャではない。

だから僕は右腕となるコーチを新たに入れて今のサッカーを改善させられる体制にしたいなら、そのやり方を受け入れる監督をまず連れてくるべきだと思っている。結局みんなの理想は、ミシャに退任してもらい体制をひっくり返すことでしか実現しないのだ。

では、現コーチ陣がミシャに何も進言できないかというとそうではないだろう。自分の考えを持たず意見も言えない人間に仕事はない。これはサッカーに限らずどんな環境でもそうだ。

しかしそんなコーチたちでもミシャと議論することはすごく骨が折れると推測される。ミシャとコーチで「サッカーを学ぶ」という行為にかけられる時間が違いすぎるからだ。

いろんな証言を拾うとおそらくミシャは典型的なワーカホリックだ。ショートスリーパーの可能性もある。チームの練習が終わった後も夜中までずっとあらゆるサッカーを見ているそうだ。実はオシムもまったく一緒である。

そうして得た知見から、ナーゲルスマンのライプツィヒやガスペリーニのアタランタを参考にしたサッカーにコンサで取り組んだりして実際にアウトプットしている。

果たしてそんなことが他の人たちも普通にできるだろうか。別にワーカホリックでもなく、ショートスリーパーでもない。ミシャのような単身赴任ではなく家に帰れば家族だっているかもしれない。その状況でミシャと同じやり方で絶えずサッカーを学ぶことは困難だろう。そう考えるとミシャのような知見の持ち主と議論を戦わせて、考えを通すのは相当難易度が高いミッションだ。しかも相手は何があっても自分の哲学を貫く監督である。

6.妄想5:どうして「サッカーが上手く」なっても優勝できないのか

「サッカーが上手くなった」

ミシャの元でプレーをしたあらゆる選手がそう証言している。主力として活躍した選手はもとより、出場機会の少ない若手やベテランもそう話しているのは興味深い。

実際は上手くなってないのに「上手くなった」と選手が勘違いしているとは思わない。コンサの選手を見続けていても確かに上手くなったと感じるし、そもそも嘘ついてまで「上手くなった」と公言する理由が選手にはない。

僕が気になったのは「みんな、ミシャの元でプレーしたときだけめっちゃ言うじゃん」という点だ。サッカー選手としてキャリアを積む以上、大なり小なり成長を実感する、サッカーが上手くなるタイミングはどこかしらであるはずだ。しかし多くの選手はそう簡単に「上手くなった」を声を大にして言わない印象がある。

にも関わらずミシャの元でプレーすると口を揃えて「上手くなった」と選手たちは発言する。選手にとっては「口に出したくなるくらい上手くなった」ということなのだろう。

ここで非常に意地悪な問いを立ててみたい。

どうして口に出したくなるくらいサッカーが上手くなった選手が集まっているのに、コンサドーレは2018年以来J1リーグで一桁順位になれないのだろうか。2019年以来カップ戦で決勝はおろか、ベスト4まで行き着かないのだろうか。なぜそんなに上手くなった選手たちは日本代表で活躍していないのだろうか。ヨーロッパのトップレベルでプレーしていないのであろうか。上手くなったはずなのに。

上手くなっただけで結果の出せる世界でないことは素人なりに承知している。だから意地悪な問いなのだ。元々のベースの実力が低いと上手くなったとはいえ日本の上位に食い込む実力にはないかもしれない。上手い選手が11人集まっても勝ち続けるほどサッカーが甘くない。日本代表には代表なりの選考基準があるし、ヨーロッパでプレーする機会も縁とタイミングがないとめぐり合わない。

それでも僕は「上手くなった」という自信に満ちた言葉と、コンサドーレが置かれた現実がうまく釣り合わず困惑している。

そもそも「サッカーが上手くなる」とはどういうことかを検証する、そういう切り口もあるだろう。だが今回はそこには触れず、ミシャの元でプレーすると本当に選手は「上手くなる」のは間違いないとして話を進めてみる。

僕が考えた妄想はこうである。

ミシャは、ある練習で選手の実力が1上がったすると、選手本人にはその数値以上に上手くなったと思わせられる監督なのではないか。

とにかく選手は自信がつく。自分は上手くなったし、もっとプレーに自信を持てばより結果を出すことができる。ミシャは選手にそういうマインドを植え付ける。実際に上手くなっただけでなく、その上手さに絶対的な確信を与える。ミシャにはそれを可能にする。だから選手は声に出したくなるくらい「サッカーが上手くなった」と思うのだ。

サッカー選手という生き物が根底に持っている感情は「もっとサッカーが上手くなりたい」だと思う。それは「勝ちたい」以上に大きいかもしれない。サッカーを始めたての頃はきっと純粋に「もっと上手くなるには」を考えていたはずだ。

だから選手たちはみんなミシャに心酔する。「サッカーが上手くなった」というかつて毎日のように感じたあの喜びを実感させてくれるからだ。それこそミシャがカリスマたる理由であり、どんなにチームが不調でもチームが瓦解しない求心力の源である。

ミシャの元でプレーするコンサの選手がどんなにチームが調子の悪い時も、自分たちのやり方に確信をもったコメントをするのは決して強がりではない。本気で自信を持っているからだ。それはどんなに高度な戦術を練ることよりも監督として大事なことをミシャができている証拠だ。

監督に一番必要なのは「選手をその気にさせ、自信を持ってプレーさせること」である。国民的喜劇俳優の渥美清が『男はつらいよ』で寅さんの役を演じ始めた頃、小林信彦さんに「あの役はねえ、おれ、乗ってるんだよ」と話したそうだ。サッカーもまさにチームが目指すサッカーや自分のプレーに「乗れているか」が選手が100%の実力を発揮するのに不可欠である。

このミシャのカリスマ性の源泉にこそ、僕が思うミシャ最大の欠点がある。つまり監督がミシャから別の人間に代わったとき、この「サッカーが上手くなった」の魔法が解ける可能性があるからだ。

仮に同じ練習をこなして実際には同じくらい上手くなっても、ミシャと他の監督ではアプローチの違いなどもあり「上手くなった」実感が変わるかもしれない。そうなったとき「あれ?ミシャの元で同じ練習したらもっとサッカー上手くなったのに」とちょっと引っかからないだろうか。そうした違和感の積み重ねや実際の結果も重なり、ミシャが恋しくなる現象が生まれる可能性はないだろうか。

後任監督の立場を考えてみよう。ミシャが退任する経緯にもよるだろうが、基本監督は「チームでうまくいかないところ」があり(その延長線上に結果が伴わないがある)、クラブを離れる。

となると後任監督は「ミシャのチームに足りなかったところを埋めてくれ、修正してくれ」というクラブのオーダーを踏まえて乗り込んでくるはずだ。だから後任はミシャのやり方の一部をある意味否定して修正する必要にせまられる。

しかしそのアプローチには落とし穴がある。もし後任のアプローチで上手くなった実感を選手が得られなければ、それは「サッカーを上手くしてくれた」ミシャの否定になってしまうからだ。だから後任は困惑する。「自分は前任者に至らぬ点があり、その欠点を埋めてほしいと頼まれてにきたはずなのに。なぜ前任者のやり方を直そうすると反発されるのか。勝ちたいんじゃないのか」と。

ミシャの後任を引き継ぐのは非常に難しい。浦和レッズは何人かの監督でバトンを繋ぎ一度チームを更地のような形にした上で再びレッズのサッカーを作り上げた。

広島を引き継いだ森保さんは日本代表でも発揮している抜群のコミュニケーション能力に用いて選手たちに「ミシャのやり方を尊重しながら、ミシャ時代の弱点を埋めるサッカーを実行させる」という困難なミッションを成功させリーグ優勝に導いていた。

近年、コンササポの中でも「ポストミシャ」の話がささやかれている。僕が思うポストミシャの条件は「ミシャのサッカーを尊重しつつ、それを進化させるという名目で弱点の対策に取り組むよう選手をその気にさせる」監督だ。そんな監督がホイホイいるわけないのは分かっている。だからこそ昇格人事やコンサゆかりの監督からすんなり選ぶのではなく、彼らも含めて世界中のあらゆるところから最もふさわしい監督を見つけてきてくれることを願っている。

7.終:ミシャの存在がみんなの思考を停止させる?

ここまで5つの妄想を交えてミシャを考察してみた。

コンササポとしてミシャと共に過ごした6年間、僕は彼を知ろうとすればするほど訳が分からなくなっていった。

どんなに会見で饒舌なコメントを残しても、その内容は抽象的な話が多く雲をつかむ気持ちになる。端からみると最悪なチーム状況に見えても不協和音が漏れ出てこない。それでいて「ミシャを漢に」という声も選手からちらほら聞こえてくる。なんなんだこのカリスマ性は。サッカーへの情熱は、年を重ねても衰えないどころか増しているようにも感じる。もはや妖怪のような存在だ。

僕にとってミシャを「知れば知るほど分からない存在」だ。しかし一方でミシャは多くの人にとって「分かりやすい存在」だと思われてないだろうか。

ミシャが北海道にやってきてからこの地には彼を説明するためのキャッチ―な言葉であふれている。

「ミシャ式」、「オールコートマンツーマン」、「攻撃的サッカー」、「ポリバレント」、「ミシャサッカー」などだ。

これらの言葉によって、コンササポの誰もがサッカーを語りやすくなった。「あれは攻撃的サッカーじゃない」、「ミシャサッカーの限界だ」。このように語ればなんとなく論じれてる感じが出てくる。これらの言葉は、コンササポの間では共通のイメージがあるためだ。

だがここまで読んでいただけると、その共通のイメージとやらが実は共通でもなんでもなく、目線が合ってない可能性があると思えてきた人もいるかもしれない。僕はまさにその疑念をずっと持っている。

「攻撃的サッカー」という言葉ひとつとっても、「何が攻撃的か」を考えないとその言葉の意味は腹落ちしないはずだ。でもキャッチ―な言葉があるから腹落ちせずともなんとなく語れてしまう。

ミシャがコンサに就任してから明らかにコンササポがサッカーを見るときの気持ちは変わった。

後ろでパスを回していてもそれを恐怖に感じる人は少なくなった。点を取られてももっともっと取り返そうという気持ちで観戦できるようになった。最初から引いて守るのではなく、どんな状況でも前へ前へ向かう姿勢に面白さを感じるようになった。

マインドは確実に変わった。そしてサッカーについて考えも深まった……と僕も思っていた。しかしひょっとすると僕らは「言葉」を覚えたせいで「思考」がそれ以上進まなくなっているのではないか。

考えることは強要されるものではない。すべてのサポがやるべき話でもない。それでもこうやって僕が記事を書いたのは「サッカーは分かりやすさとは無縁のスポーツである。でもだからこそサッカーは面白い」ということを改めて訴えたかったのかもしれない。

サッカーは人によって好みがある。正直に言えば、僕はミシャのサッカーがずっと好みではない。就任した時からずっとだ。でも好みではなくとも、ミシャが僕にとって観察しがいのある監督であることは間違いない。6年間、この監督を応援できたことに感謝するとともに、来季の彼がどんな振る舞いを見せるのか変わらず見届け応援していきたい。

8.参考資料

◎バルセロナ・レガシー(ジョナサン・ウィルソン)

◎オシムが語る(シュテファン・シェンナッハ、エルンスト・ドラクスル)

◎来季は選手の新たな一面を引き出す 年末特別インタビュー連載《ミシャイズム再考》②(道新スポーツ)

◎J1札幌、ペトロヴィッチ監督が大切にしてきた練習公開…コロナ禍で加速?「秘密主義」へ名将からの言葉(スポーツ報知)

◎蹴球ヒストリア(土屋雅史)

◎ストーリーとしての競争戦略(楠木建)

◎ゴッドファーザー

◎おかしな男 渥美清(小林信彦)

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