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田中稲城の死

2月22日は帝国図書館長、田中稲城の命日である。

拙著『帝国図書館』にて田中退任をめぐって「無念の退任であった」とし、「後に田中は郷里に戻り、一九二五年二月、病により世を去った」(p.187)と書いたところ、田中稲城の死因は自殺ではなかったのか?という質問を、実は複数の方から受け取った。

この説は、今なお広まっており、特に少し田中稲城について知っている人ほどそう思い込んでいるらしい。
この話の元になったのは、衛藤利夫の回顧録の記述で、さらにこれを引用した田中稲城の伝記が載る石井敦編『図書館を育てた人々』日本編Ⅰ(日本図書館協会)が、日本の図書館史ならびに田中稲城研究の上で数少ない先行研究に数えられるため、なかなか消えていないようである。
なおWikipediaでは2024年2月の本日時点で、「神経衰弱」で亡くなったとある。

しかし私は以下の理由により、田中稲城自殺説を採用するのは適当ではないと考える。誤解を正すために拙著の記述の根拠について申し述べる。


まず、『図書館を育てた人々』日本編Ⅰにはその後の訂正補遺の記事が出ている。

石井敦氏自身が「田中稲城自殺説について-『図書館を育てた人々·日本編I』補遺-」『図書館雑誌』78巻4号(1984年4月)において、「田中稲城氏が自殺したのでないことは、ほぼ識者の熟知するところであるが」としたうえで、引用文については「”自殺”と誤認さるおそれが十分あるので、同書引用文に「注」を付し、稿末に実際は自殺でないことを注記したい」と釈明している。また「記述にやや舌足らずの点があったことをお詫びする」として遺族にも謝罪している。

それだけだと実際はわからない、ということになりそうなので、念のため当時の新聞広告も見る。

『東京朝日新聞』の大正14年(1925)2月26日夕刊一面のお悔やみ欄には、大正14年2月23日の日付入りで、息子ほか親戚一同、友人総代の名で以下の記事が出ている。

前帝国図書館長正四位勲三等田中稲城儀病気の処養生不相叶本日死去致候に就ては来る二十四日午後三時より郷里岩国町長久寺にて告別式相営候此段辱知諸君に稟告候也

『東京朝日新聞』の大正14年2月26日夕刊1面

「本日」というのに広告の日付が23日なのはちょっと不可解だが、同じく息子ほか親戚一同、友人総代の名で出された大正14年3月2日付の次の記事では22日と訂正されている。

前帝国図書館長正四位勲三等田中稲城儀予而病気之処養生不相叶二月廿二日逝去致候間此段謹告仕候
 追て去る廿四日郷里山口県岩国町に於て葬儀相済ませ申候

『東京朝日新聞』の大正14年3月3日夕刊3面

お墓にお参りにいった際、自分の眼でも拝見したが、墓碑に刻まれた日付も2月22日であったので、亡くなったのは2月22日で間違いなかろう。

上記を組み合わせて普通に解釈すれば「病により世を去った」と書くのが妥当だと考えた次第である。

岩国市立図書館で配っていた田中稲城のパンフレット

なお、田中稲城の墓地が岩国にあることは竹林熊彦が『土』第45号(昭和31年11月)連載の「近代日本の図書館を築いた人々(7) 近代日本図書館史の史的研究 第十七 田中稲城の人と業績(承前)」に附された「田中稲城先生の奥津城に詣づるの記」で知った。


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