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<研究紹介>『樗牛全集』の史料学的検討(2003年)

私のデビュー論文でもある。2003年発表。
卒業論文以来取り上げてきた高山樗牛研究の基礎となる『樗牛全集』について、色々な角度から史料批判を試みたもの。
とくに『樗牛全集』は、若い人たちによく読まれたので、戦前期だけで3回刊行され、その都度増補版が出ていた。ただ、樗牛研究においては、どの版が一番信頼できるとか、研究にどれを使うのが妥当かという議論は、ほとんどなされてこなかった。
そのため、古本屋などで買って手にしたものや、図書館が持っている版を選んで研究者が論じてきたきらいがあった。

論文では編纂の経緯など、あれこれと調べてみたのだが、高山樗牛の代表的論文で、高校の教科書でも取り上げられる「日本主義」関係の論文について、初出、生前の単行本、全集の各版を比較したところ、かなり違いがあることがわかった。

なにより、雑誌『太陽』に載った初出だと、「日本主義を賛す」だったものが、後になると「日本主義を唱ふ」に変わっているのである。同時代的には、先輩諸氏の運動に「賛成だ」と言っていたわけだが、後になると自分が唱えたように書き換えられている。これは、全集だけ読んでいると絶対に気が付けない。

しかも、である。
高山樗牛の思想はというと、研究史上、三期に区分して、それぞれの時期の整合性や矛盾を分析するというパターンが昔からずっと踏襲されてきた。:
しかし、この三期区分はというと、没後に友人の桑木厳翼が、高山樗牛の追悼会で、高山君の思想は色々変わったように見えるが、三期に区分するとわかりやすいのではないか?と提案したのが元になっているのである。同じく高山の親友の姉崎正治が編者となった全集ではその方式を踏襲している。

私が引っ掛かったのは、高山本人は「ぼくの思想は三期に区分できる」と一言も言っていないことである。本人も自分の考えが一貫しているとは思っておらず、言っていることが矛盾していることは自覚していたらしい。「予は矛盾の人なり、煩悶の人なり」と言っているからである。

だが、そんな人が自分の思想を三期に綺麗に区分するだろうか。この三期区分は、友人たちが、そうやってみれば高山君も報われると思って作り上げた像に過ぎないのであって、少なくとも高山本人の主観とは全然関係ないではないか・・・。

そう思ってみれば、『樗牛全集』というのは、高山研究の入り口ではあるが、彼の思想を再検討するためには、一度全部初出の雑誌『太陽』に遡って時代背景とセットで見直さなければならない。

では、全集は全く使えないのか。そんなことはない、ということも書いたつもりである。樗牛の書簡は全集でしかほぼ見ることができないし、後代の人はあくまで全集によって樗牛の思想を理解してきたので、影響を知るためには全集の分析が不可欠である。
また、従来の研究では評論の巻にばかり議論が集中していたが、第一巻は彼の専門の美学研究の巻となっている。これの研究は(当時)手薄であった。だから、「美学」の思想を中心にして高山の思想を検討していけば、先行研究とは違う高山樗牛の思想を描き出していくことが出来るのではないか。

書いていたころ、そんなことをよく考えていた。

その成果は博士論文にまとめた。

その後の研究では、毎回、全集だけに依拠せず初出も確認するというハードルを自分に課すことになったので、大変ではあったが、自分なりの視点を打ち出すことができた最初の作品ということもあって、私自身、思い入れがある論文である。

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