見出し画像

中二病の王から健康の伝道者へ~フリードリヒ・ニーチェその1:キャリアと学びと哲学と

2010年に社会保険労務士試験に合格して今は都内のIT企業で人事の仕事をしています。社会人の学習やキャリアに関心があって、オフの時間には自分でワークショップや学びの場を主催することを続けています。その関心の原点は、学生時代から哲学書が好きでよく読んでいたことです。キャリア開発や人材育成の研究には、哲学からきた言葉や考え方が用いられていることが少なくなく、哲学の知見の活かし方として非常に興味深いのです。キャリアに関心のある社労士という私の視点から、哲学のことをお話しできたらユニークなのではと思って、この記事を書いています。

自己紹介


中二病の王?

今回お話ししていきたいのはフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェです。

ニーチェは1900年ちょうどに亡くなったドイツの哲学者です。非常に有名な哲学者で、彼の名前を聞いたことがあるという人は少なくないでしょう。「深淵を覗きこむとき、お前もまた深遠に覗きこまれているのだ」という一文はもはやSNSに定着したネットミームです。その他にもニーチェの残した言葉と言えば、「超人」「永遠回帰」「力への意志」、そして「神は死んだ」とキャッチーでパワーのあるフレーズが並びます。

その言葉の響きからして、なんとなく「中二病」のラスボスのようなイメージをもたれている感もあるニーチェですが、でも、実際にニーチェの哲学を読んでみると、中二病どころか、むしろ真反対な性格をもった人なのではないかと思えてくるのです。

ニーチェの書いた本でよく知られているのは「ツァラトゥストラ」(「ツァラトゥストラはかく語りき」)でしょうか。ツァラトゥストラは、ゾロアスター教の開祖であるゾロアスターをドイツ語で読んだ名前です。ただ、ゾロアスター教との直接の関係があるかと言えば、ほとんどありません。「ツァラトゥストラ」は純粋な哲学書というよりは、ニーチェの化身ともいえるツァラトゥストラを主人公とする一連の物語のような(あるいは、イエスの言行を記した聖書の福音書を模したような)作品になっています。

この「ツァラトゥストラ」の冒頭は非常に印象的です。主人公ツァラトゥストラは人の世にうんざりして山にこもることに決めます。そして、ひとり孤独を楽しむ生活をしていたのですが、ある日、住処にしていた暗い洞窟の奥から外に出て、夜明けの太陽の光を浴びたとき、彼は気づきます。太陽はどれほど光輝いても光が当たる存在がなければ、その光に誰も気づかないと。ツァラトゥストラは自分自身が太陽になって人々を照らすのだと決心して、山を降りて人々のなかへと入っていきます。そして、太陽が光で大地を照らすように、ツァラトゥストラは知恵と教えを人々に伝えていくのです。

山の洞窟の暗がりに引きこもっていたところから外に出て、光の下で活動していこうとするのが「ツァラトゥストラ」の冒頭です。中二病とか陰キャとか、そういう暗い影のあるものとは正反対の光景です。日の当たる世界にこそ実はニーチェの哲学はあるわけです。

さらに言えば、ニーチェの哲学を語る上で外してはいけないキーワードは「健康」です。ニーチェは「健康」や病気からの「回復」「治癒」ということを非常に強調して自身の哲学を語ります。ますます中二「病」とは遠ざかっていくように思います。人々に病からの回復を説いて回るニーチェは、むしろ健康の伝道者とも言える存在ではないでしょうか。


「ルサンチマン」という病気

では、ニーチェにとって病気とは何かということです。もちろん、風邪や肺炎といったリアルな病気ではありません。メタファーとしてです。ニーチェは、人間のもつ乗り越えなければいけない弱さ、それを病気として語ります。弱い状態を乗り越えて強い状態となること、この移行こそ、ニーチェにとっての回復です。強い人とは健康な人ということになります。

ニーチェの指摘する人間の病気を今回は二つ挙げたいと思います。その一つ目は「虚栄心」です。

虚栄心という言葉を、現代風に言い換えてみれば、「承認欲求」ではないかと思います。SNSにした投稿にたくさんのイイネがつくとうれしかったり、とくにインフルエンサー、有名なアカウントからのイイネだったらなおさらうれしく、自分自身もすごく有名になったような感じがしたりする。あるいは、有名なアカウントの投稿に揚げ足取るようなリプライをすることでちょっと上に立ったような感じがする。他者に認められたいとか、他者に認めさせたいとか、他者より優位に立ちたいとか、すべて見慣れたネットの日常です。

しかし、それで自分自身に変化があったかと言えばそうではありません。結局、 有名な人の力を借りて自分も有名になったような感覚を覚えているだけです。他者の力を利用することで、自分が強くなったかのような、価値のある存在になったかのような身振りをすること、それこそニーチェの虚栄心です。

ニーチェにしてみれば、自分自身は弱く無力なままなのに、誰かの力を利用して強く価値あるように見せようとする虚栄心は、自分が自分に対してもつ価値ではなくて、他人が自分に対してもつ価値の方を重く見て、周りの人たちに自分を価値ある存在と思わせるように仕向けるものです。要するに、虚栄心にとらわれた人とは、自分で自分自身の価値を認めることができず、他人に認めてもらわないと自分の価値を認識できない存在です。

そして、もうひとつの病気が「妬み」です。

弱い人間は自分自身の無力さを直視することができません。自分が無力でちっぽけな存在だということを認めるのが耐えられないのです。反対に、 強い人を妬ましく思うわけです。

嫉妬にかられた人は目立つ人や輝いている人が自分の視界に入ることに我慢がなりません。でも、自分自身の無力さはわかっているから、強く見える人たちを直接乗り越えることができないことも心の底ではわかっています。

だから、無力で弱い人は群れ集まるようになります。嫉妬心を共有することで、 強い人や力のある人を集団の道徳で引きずり降ろそうとします。「あの人、わがままだよね」「 好き勝手やってるよね」「みんなの輪を乱すよね」というようなことを口にして。そうして、自分たちは正しいことをしていて、悪いのは好き勝手しているあの人の方だ、といった理屈、自分たちを守り相手を下げるような理屈をつけるのです。

妬む心はさまざまな理屈を生み出します。自分たちは無力なのではない耐え忍んでいるのだとか、卑屈ではない謙譲の心だとか、屈辱ではなく忠誠心であるとか、本当は望んでいないことなのに、嫌々していることなのに、それを認めたくないから、よいことをしているのだと認識をすり替えてしまうのです。そして、自分たちが嫌々受け容れていることを受け容れない力ある人たちを敵視して否定するわけです。

虚栄心や妬みといった感情こそ、ニーチェの語る病気です。自分自身の弱さを認めようとせず、強く生きようとする存在を否定します。この感情をニーチェは「ルサンチマン」と呼びます。


自己啓発の元祖

ルサンチマンに駆られた人は、無力であることとか、苦しい思いをしていることとか、満たされない不満を抱えていることとか、自分自身のことには目を向けようとせず、反対に、他者にばかり目がいくようになります。そうして、自分がいまこんなに不遇なのは誰かのせいだと口にしたり、いつか誰かがこの不遇な状況をかえてくれると勝手な期待を寄せたり、結局、自分のために自分で何かをしようとすることはなく、その責任をすべて他人に押し付けるようにもなります。

ニーチェの語る「病気」とは、良くないことがあれば他人のせいだし、よくしてくれるのも他人がいつかしてくれるものだと他人任せで、自分の人生をすべて他人に預けてしまうような、自分の人生のことなのに、自分では何もしようとはしない、そのような人の無力さのことなのです。

したがって、ニーチェが主張する「健康な人」あるいは「回復した人」とは、自分の人生を自身で引き受けることのできる人、他人の評価などなくとも 自分の人生の意味や価値を自分で自分に与えることができる人、誰に寄りかかることも依存することもない人のことです。要するに、自分の人生を自分の足だけで立って歩いて行ける人です。それこそ、ニーチェが求める「強さ」そのものです。

自分の人生の責任を他人任せにするのではなく自分で引き受けるのだと主張するニーチェの哲学はすべての自己啓発本の源流となるものです。自己啓発の元祖と言われもするアドラー心理学のアルフレッド・アドラーもニーチェの影響を色濃く受けています。ニーチェの哲学はコーチングやキャリアコンサルティングには非常に相性のよいものです。

キャリア自律やジョブクラフティングといった言葉が知られるようになり、自分のキャリアは自分で形成していくものという考えも当たり前のものになりつつあります。次々と新しい言葉が湧いて出てくる時代には、うかうかしていると時代に取り残されたような感覚にもなってしまいますが、その本質はニーチェの時代からすでに言われていることでもあります。目新しさを過剰に訴え、時代遅れになることの不安を煽る現代にニーチェの哲学を知っておくことは、ある種のワクチンになるかもしれません。


【了】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?