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欲望するキャリア~ジャック・ラカン:キャリアと学びと哲学と

2010年に社会保険労務士試験に合格して今は都内のIT企業で人事の仕事をしています。社会人の学習やキャリアに関心があって、オフの時間には自分でワークショップや学びの場を主催することを続けています。その関心の原点は、学生時代から哲学書が好きでよく読んでいたことです。キャリア開発や人材育成の研究には、哲学からきた言葉や考え方が用いられていることが少なくなく、哲学の知見の活かし方として非常に興味深いのです。キャリアに関心のある社労士という私の視点から、哲学のことをお話しできたらユニークなのではと思って、この記事を書いています。

自己紹介


何を望むのか?

今回はジャック・ラカンです。1901年に生まれて1981年に亡くなった戦後フランスの精神分析の大家です。ラカンのテキストは難解至極。読むのに非常に苦労をするということで有名ではあるのですが、学習やキャリアということについて考えるとき、そのもっとも本質的なところを突いてくるのがラカンだと私は考えています。

というのも、精神分析が扱うのは人の欲望です。学習もキャリアも人の欲望が動かすものに間違いありません。「学びたい」とか「成長したい」とか、あるいは「幸せになりたい」とか、そのすべては人の欲望です。

欲望は無意識の領域にあります。だから、人は「学びたい」とか「成長したい」とか「幸せになりたい」とか望んでも、その望みの意味を知ることがありません。人は自分の無意識のことを知ることはできないからです。自分でも何を望んでいるかわからずに、それでも望むわけです。

現代社会に生きている限り、残念ながら、人は欲望を捨てることはできません。たとえば就職活動をしていて、採用の面接で「やりたいこととかないんですよね」「成長したくないんですよね」と一言でも口にしたら、まず採用はされません。「やりたいことがある」「成長したい」という欲望をもっていなければ自分の望む居場所は得られません。

資本主義は人々の欲望を吸収して膨れ上がり成長を続けていきます。成長をするためには欲望をもたねばなりません。したがって、欲望をもつことは、この社会では、間違いなく正しいことなのです。

人材育成業界だってそうです。ある年は「ジョブ型雇用」、またある年は「ジョブクラフティング」、そして、またある年は「リスキリング」と、毎年のように新しい言葉を見つけてきては、最新の「商品」を見せつけてきます。さらには、「このままではAIに仕事を奪われる」とか「10年後には消えている仕事」とか人の不安を煽るようにして、自分たちの新しい「商品」を買わせようとします。

学習やキャリアに感度の高い優れた人材は、つねに新しいトレンドを追って、情報をアップデートしていく人間なのです。皮肉なようですが、そういう優れた人材は、人材業界の「太客」でもあります。そうした人材がキャリアの欲望渦巻く社会をうまく乗り切っていく人であることも一面の真実です。

このように、欲望は学習やキャリアの本質と言っていいでしょう。繰り返しますが、適切な欲望をもつことが資本主義社会では必要不可欠な第一倫理です。欲望をもたない人間には現代社会に居場所がありません。しかし、欲望に振り回されるだけの人もまた人生を持ち崩してしまうでしょう。だから、欲望と適切につきあっていくスキルは現代社会を生きる人間すべてに重要なことだと思うのです。


欲望は空虚に向かう

ジャック・ラカンの定式によれば、欲望は空虚に向けられるものです。空虚、無、欠損、裂け目、言い方は様々ありますが、空虚とは意味の空虚のことです。つまり、意味が分からないこと、不確かさ、不可解さ、謎といったもののことです。

大きな事件が起きたとき世間の視線はそこに集中します。たとえば、猟奇的な事件があったとしましょう。「犯人の犯行動機は?」「犯人の人となりは?」「どんな犯行だったのか?」「被害者はどんな人だったのか?」と報道は過熱します。事件が不可解で謎であればあるほど。人々は知りたいと欲望します。

謎は日常の世界に意味の裂け目を生みます。よくわからない、意味がつかない、そうした謎は、人を不安にさせます。不安だからこそ、その不安を収めたくなります。だから、知りたいという欲望をもつのです。知りたいとは意味をつけたい、意味の裂け目を閉じたい、空虚を意味で満たしたいという欲望です。反対に、意味が定まっている事象に欲望は喚起されません。わかっていること、知っていることに人は欲望を向けません。

では、人にとってもっとも不安なものとはなんでしょうか。それは、もっとも欲望を引き起こすものであり、人にとって最大の空虚、欠損というわけですが、それは自分自身の生そのものです。

人生は明日のことさえわかりません。不運な事故や災害で明日、命を失うかもしれません。明日を生き永らえたとしても、いつか大きな病気になるかもしれません。年老いた後、どのような苦労をするかもわかりません。考えれば考えるほど謎は深くなり、不安ばかりが増していきます。

人間の人生に前もって意味が定められていることはありません。なんのために生きているのかなど誰も知りません。人間存在の本質は巨大な空虚か欠損であって、決して埋めることのできないものです。だから、人間が欲望をもってしまうのは、人間存在に課せられた宿命なのです。誰も欲望から逃れることはできません。

人生を安定させようとして「10年後も通用する仕事はなんだろうか」「資産はどれくらい必要なのだろうか」「子どもは何歳までに産んだらいいのだろうか」と人は考えるわけです。キャリアとは人生の計画であると一般的に認識されているようですが、すこしでも先々の人生の見通しをよくしようとするためのものだとしたら、キャリアとは欲望そのものです。不透明な将来をなんとか透明にしようとする欲望から、意味の見えないものになんとか意味をつけようとする欲望からキャリアへの意思は生まれてきます。それは将来の不安をコントロールしようとする人間存在の本質から来るものなのです。

ラカンの精神分析にとって、欲望の主体、人間主体とは巨大な空虚です。でも、ほとんどの人は自身の空虚を知りません。どうして自分が欲望してしまうのかを知りません。だから、欲望をごく当たり前のこととして受け止めています。「成長したいです」「やりたいことがあります」と疑いなく口にできる人がほとんどのように。

すべての人が将来に不安を覚えているわけでは、もちろんありません。それでも、新しく世にリリースされる新商品を心待ちにして、それを欲しいと思う人がいるのは、既知の意味の世界に満ち足りなさを覚えているからで、その満ち足りなさを埋めてくれる何かを新商品に期待するからです。そして、その満ち足りなさ、欠損が根源的にどこから来るのかといえば、人間本質の空虚からなのです。人は自身の欠損を埋めてくれる何かを常に期待しているのです。


現実界・象徴界・想像界

フッサール現象学の主体は世界に意味を与えて世界を構成する能動的な主体でした。そのフッサールの現象学的な主体は無意識の構造が動かしていると考えるのが、ラカンの精神分析です。無意識の構造について「現実界」(レエール)「象徴界」(サンボリック)「想像界」(イマジネール)の三つの言葉でラカンは論じています。現象学的な経験、生き生きとした「現実」の経験は、「現実界」「象徴界」「想像界」が組み合わさることで生じるというわけです。

「象徴界」とは意味と言葉の世界です。純粋な意味と言葉は、辞書のなかにあったとしても、物質的なこの世界にいっさい存在しません。対して、「現実界」とは物質そのもののことです。そして、「象徴界」と「現実界」をひとつ結びつけ現実として経験できるものとするのが「想像界」の力です。

「現実界」にある物質そのものは意味をもっていません。というのも、「現実界」の物質はまったく偶然で一回限りだからです。偶然で一回限りのものを人間は認識すること(現象学的に言えば意味づけること)ができません。一度起きたことと同じことがまた繰り返し起きるから、両者は同じこととして意味づけることができるのであって、まったく偶然で一回限りのものを意味づけることは不可能です。

抽象的な話になってしまったので、「鳥の群れが飛んでいる」という事象を例にとりましょう。群れて飛んでいる鳥は、そのすべてがそれぞれ別の鳥です。一羽一羽異なる存在です。同じではありません。そして、過去に見たことのある鳥とも異なる存在です。すべての鳥はこの世界に一羽限りの存在です。すべてが一回限り、ひとつ限りの世界、同じものが二つない世界が物質そのものの世界、すなわち「現実界」です。

次に「象徴界」です。「鳥」という言葉は物質的な姿を一切もっていません。スズメもムクドリもハクチョウもワシもすべて「鳥」ですが、「鳥」そのものはこの物質的な世界に存在しません。しかし、私たち人間は、一羽一羽、異なる存在であるはずの存在を同じ「鳥」として認識することができます。物質的な姿をもたない「鳥」という言葉を物質世界に存在する対象に当てはめることで認識をしているのです。

物質の世界は、その都度その都度生じるバラバラな出来事の連続でしかありません。でも、人間は物質の世界に言葉によって意味を与えてひとつの世界につなぐことができます。現象学でいえば意味を付与して、世界を構成することができます。それが「想像界」としての人間の力です。現象学で言えば世界の中心としての主観性です。

「現実界」「象徴界」「想像界」の三つは人間の欲望の仕組みもまた説明することができます。私たちの生存、命ある身体というのはまさしく「現実界」です。心臓や脳を自由に動かしたり止めたりはできません。命は主体の意思とは無関係に動き続けます。そして、ある日突然命を落とすことがあるように、偶然の前では無力です。「象徴界」は自分自身の命に対して与えられる意味、人生の意味と言ってもよいでしょう。「幸せな人生」「充実した人生」「安心できる人生」という言葉は「象徴界」に属します。しかし、これらの言葉は物質的な姿をもってはいません。だから、命と意味を統合する「想像界」が必要なのです。そうして、はじめて「私」を「私」と認識できる安定した自己像(セルフイメージ)を生み出すことができるのです。

しかし、この「想像界」は自分ひとりで自分の像(イメージ)を作ることができません。自分の顔を自分で見ることができないのと同じです。ここで必要なものは鏡です。人間主体は自分の生命と自分の意味を接合するために、その似姿となってくれる誰かを必要とします。「あの人のようになりたい」と思わせる憧れの相手です。こうして欲望が生まれてきます。

SNSのインフルエンサーは多くの人に「ああいう風になりたい」と思わせる存在です。人々の欲望を自身に向けることで自分の価値を高め、そして、収益を上げます。あるいは、学校や職場で「あんなふうになりたくない」「なんとなく許せない」と思えて仕方ない相手もいるでしょう。それは、憧れとは反対の胸像で、自分の持っている意味、あるべき姿と合致しない振る舞いをする存在です。ときにその相手に文句を言ったり、説教をしたりしてしまうのは、自分と相手との間にあるずれを是正して自分の安定したイメージを取り戻そうとするからです。それもまた欲望の一つの現れです。

さきほどキャリアについて触れましたが、キャリアの計画とは自分の人生という物質に、将来の見通しという意味を与え、なりたい自分というイメージに統合していくプロセスです。自分のイメージをつくるためにはお手本が必要で、それがいわゆる「ロールモデル」というものです。


欲望を横断する/欲望を諦めない

私たちの人生は現実界そのものです。人生はまったくの偶然で何が起こるかわかりません。突然の事故や災害で命を落とすかもしれないし、大きな病気になるかもしれません。どうして、こんなことが我が身に起きるのかと嘆かずにはいられないことも度々起こります。それでも、私たちの身体に血は流れつづけ、命は続いていきます。

しかし、このコントロールできない人生をどうにかコントロールできるものにしたい。安心できる人生を送りたい。その願いが欲望を生み、人は生きる努力を重ねていくのです。そして、そのような欲望の多様な発露が、学習であり、キャリアというわけです。

人が人である限り不安は消えません。不安がある限り欲望に終わりはありません。もちろん、欲望をもつように要求するのが資本主義の社会でもあります。しかし、欲望に振り回されて疲弊する、果ては、身を持ち崩していくとなれば人生の悲劇です。だから、キャリアをだしにしたビジネスが「このままではAIに仕事を奪われる」とか「10年後には消えている仕事」とか不安を煽るような言葉を弄ぶのは、よろしくないことだと思います。

キャリアの文脈では「ああした方がよいだろうか」「こうした方がよいだろうか」とフラフラしている人や、周囲の言葉に振り回されて自分の軸が定まらない人にしばしば出会います。要するに、自身の欲望に囚われて振り回されている人たちです。

しかし、欲望に囚われている限り欲望に終わりはありません。欲望に囚われている人には共通点があります。自分の内にある空虚を埋めてくれる何かを外に追い求めているということです。残念ですが、欲望の対象を外に求めている限り、永遠に欲望にとらわれたままです。

人間存在の欲望を生み出す根源が、人間存在の巨大な空虚であったことに立ち返りましょう。人間主体が欲望しているのは、自分自身の空虚を埋めるものです。しかし、自分自身を満たすことができるのものは自分自身しかありません。自分の外にあるものは、すべて鏡像です。自分自身ではありません。

精神分析は人は自分が何を欲望しているのか知らないと考えますが、その理由は、人が欲望しているのは自分自身だからです。それを知らないから、人は欲望の対象を外に求めてしまうのです。では、自分自身のことを知ればよいのかといえば、結局、「現実界」としての人生の意味を知ることなど不可能ですから、究極的には人は自分自身を知ることはできません。

人間の命が究極的には不確かなものであるかぎり、欲望をなくすことはできません。しかし、鏡像を追い求めて終わることのない欲望の鬼ごっこを続けることが幸福というわけでもありません。そもそも自分の欲望は自分の空虚から生まれてくるものです。しかし、この問題にどこかで折り合いをつけなければ、人は欲望にとらわれたままです。

ラカンの精神分析は欲望をもつこと自体を認めつつ、しかし、自身の抱えた空虚もまた受け止めるように教えます。自分が欲望が追い求めているものが実は自分自身なのだ、だから、いくら追い求めても満たされることはないのだと納得することです。それをラカンは「欲望を横断する」と表現します。

欲望を横断することは簡単ではありません。どうすればよいのか実はラカンも具体的には語っていないようです。しかし、大事なことは、自分自身の限りを受け止めることではないかと思います。自分にはできることもできないこともあって、無限に成長することはできないし、どんな人間にもなれるわけでもありません。キャリアの計画を立てるにしても、無際限の望みを広げていけばよいわけではありません。

しかし、ラカンは「欲望を諦めない」とも語っています。たしかに、自分には限りがあって、すべてを望むことはできません。でも、これだけは譲れないという望みもまた人にはあります。限られているからこそ、自分だけの望みというものが生まれてくるのかもしれません。一回限りの「私」の人生で他に代えることができない欲望、そうした欲望はむしろ手放してはいけないとラカンは言います。

欲望を横断することで自身の限界を受け止め、しかし、諦めてはいけない欲望は諦めないこと。学びについてもそうです。図書館に納められた本のすべては読みたいと思っても読むことはできません。学びたいことすべてを一回の人生で学ぶことはできません。学びの限界を受け止めたうえで、これだけは学びたいという欲望は大事にする。キャリアについても同じことだと思います。やはり、欲望は、学習にも、キャリアにも本質的なことなのです。


【了】

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