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現象学の二つの困難~エトムント・フッサールその3:キャリアと学びと哲学と

2010年に社会保険労務士試験に合格して今は都内のIT企業で人事の仕事をしています。社会人の学習やキャリアに関心があって、オフの時間には自分でワークショップや学びの場を主催することを続けています。その関心の原点は、学生時代から哲学書が好きでよく読んでいたことです。キャリア開発や人材育成の研究には、哲学からきた言葉や考え方が用いられていることが少なくなく、哲学の知見の活かし方として非常に興味深いのです。キャリアに関心のある社労士という私の視点から、哲学のことをお話しできたらユニークなのではと思って、この記事を書いています。

自己紹介


ひとつめの困難 身体

フッサールの現象学は、世界の中心を私の意識に見出したというお話をしてきました。やっと見つけた世界の支え、疑いようのない確かなものだったわけですが、しかし、そこにたどり着いてふと周囲を見渡してみると、当初思いも至らなかった難問がそこにあったという事件が起こります。

フッサールの哲学的な大冒険は、実はここから始まっていくのではないかと私は思うのです。この難問には二つあると考えています。ひとつは身体、もうひとつは他者です。

超越論的主観性は世界を構成する原点です。世界は私を中心に存在しています。ということは、私はつねに世界の中にいることになります。あれは木である、あれは電車であると、世界を意味づけるには、私は世界の中にいないといけません。「世界内存在」でないといけないわけです。

私はこの物質的な世界のどこかに存在しています。ということは、この世界には私の視点を支える物質的な土台がなければなりません。それこそすなわち「身体」です。

人間は世界の内部にひとつの身体をもたねばなりません。それは反面、私には世界を外から眺める視点は一切もてないことになります。世界を外側から眺める視点、世界全体を俯瞰して見渡す視点、それは言わば、「神の視点」ですが、それを私は決してもてません。科学の導く客観的な理論、法則は、その普遍性において、神の視点とも呼べるものでした。ニュートンの力学法則は、地球上でも月面上でも変わることなく、人間も、動物も、天体さえも同一の法則で運動することを解き明かしました。唯一無二絶対の法則。神学者でもあったニュートンは自身の力学法則の探求を神の天地創造の真理を解き明かす営みとしていたのでした。

しかし、身体の存在を認めてしまえば、その身体から見える世界しか見ることができないことも認めなければなりません。自分自身の物質的な制限をないものとして考えることはもはやできません。

ヨーロッパの哲学は伝統的に物質的なものにではなく精神的なものに絶対的な価値を置いてきました。精神的なものの粋たる理性の力を突き詰めれば普遍的な審理、いわば神の真理を解き明かすことができるという立場をもちつづけてきました。だから、物理的な身体という存在は長らく捨て置かれており、哲学的な議論のテーマになることもありませんでした。

だから、「身体」という物質的な支えがなければ、そもそも人間は思考することも、世界に存在することもできないというフッサールの論点は、プラトン以来の西洋哲学の常識を根底からひっくり返してしまうような大きな困難だったのです。


ふたつめの困難 他者

身体に続く、もうひとつの問題、それが他者です。世界の中心としての私、それを絶対に疑いえない確かなものの位置に置いたまではよかったのですが、フッサールは気づいてしまうのです。世界にはたくさんの「私」がいることを。

一歩でも家の外に出てみれば、道の向こうから歩いてくる人に出会えるでしょう。都会だったら、電車に乗れば、毎朝、満員電車でたくさんの人が乗ってきます。会社や学校に行けば、同じ場所でいろいろな人と働いたり、学んだりします。そのそれぞれが「私」として存在をしていて、それぞれが主観性をもっていて、それぞれが世界の中心として世界をつくっている。この世界には無限に多様な人が存在しているわけですから、その人の数だけ世界も存在することになります。

無数の人がそれぞれ自分自身の世界をもっていて、それだけ世界も無数存在しているにも関わらず、みなが同じひとつの世界の中で、ひとつの世界を共有して存在してもいる。これは矛盾でもあり、大きな困難です。

他者、「自我」(エゴ)に対して「他我」(アルターエゴ)と呼んだりもしますが、フッサール以後、フッサールと何らかの縁のあったすべての哲学者は、なんらかの仕方で、この「他者」の問題を考えなければならなくなります。これが20世紀の哲学最大のテーマと言ってもよい「他者問題」です。

もちろん、フッサール自身も彼なりに「他者問題」の答えを導こうとしました。でも、万人を納得させる答えを出すことができなかったのです。こうして、「他者問題」は現象学にとって容易に解くことのできない大問題となっていくのですが、だからといって現象学がダメなのだというわけでもありません。

身体や他者といった矛盾や困難があるからこそ、フッサールに続く現象学者たちが、ああでもない、こうでもないとたくさんの議論を重ね、それぞれにユニークな哲学を発展させ成長させていくきっかけにもなったわけです。一面においての矛盾が、実は豊かな可能性として、後世にその花を開かせていくような種となることは、哲学にはよくあることです。


そして、間主観性へ

フッサールと現象学がたどり着いた二つの困難について話してきました。ひとつは身体、もうひとつは他者。これらが学習やキャリアの領域にどう影響するかについても触れていきたいと思います。

身体は私の視点を限ります。身体で動き回れる範囲、感じられる範囲でしか、私は世界を経験することができません。したがって、身体は自分自身の限界として存在します。

自分の身体を超えた神の視点で普遍的で絶対な判断はできません。何が正しくて何が間違っているか、神であれば誤ることなくジャッジできても、身体をもつ私にはできない話です。

そして、世界にはたくさんの私が存在するという他者の問題は、世界にはたくさんの身体が存在することと同義です。この世界には身体の数だけ多様な経験が並存しているのです。

たとえば、同じ職場で同じ仕事をしているAさんとBさんがいたときに、Aさんはこの仕事にすごくポジティブな意味をもっていて、すごくやりがいがあって、やりたいことができてると思っているけれど、Bさんはすごくネガティブで、なんでこんなところに自分はいるんだろうと悩んでいるといったケースについて、考えてみましょう。同じ場所で同じことをしている2人がそれぞれの経験に全く異なる意味づけをしているのは非常に興味深いものですが、同じ職場や同じ学校でキラキラしている人もいれば、どんよりしている人もいるのは、ありがちでもありますし、そして、きわめて現象学的だともいえます。

そこで、AさんとBさんが互いの視点の差異に気づくことがあれば、どうしてこの仕事がそんなに辛いのだろう、どうしてそんなに前向きなのだろうと、互いに見えている世界の違いに思いをめぐらせることにもなるでしょう。自分にはすごく楽しいことを辛いと思う人もなかにはいるんだな、これからはそういう人もいることを想像しながらコミュニケーションを考えようとか、この仕事にもポジティブな側面があるんだとしたら、明日から仕事にもうすこし違ったアプローチをしてみようとか、反省をして、行動を変えようとするかもしれません。

相互に視点が違い、相互に意味づけのポイントも違う。それをお互い自覚することで、新たな発見があり、自分自身の成長にも繋がっていく。このプロセスはまさに組織開発の根幹にあるものです。

組織開発の現場では、ワークショップを開催したり、対話の場を作ったりするのですが、そのエッセンスは、組織の構成メンバーそれぞれのもっている意味を言語化させて可視化させ、相互の違いを見せることで相対化し、別の意味を生み出すような可能性を探っていく過程にあります。

同じ職場にいるメンバーに、すごくキラキラしてる人もいれば、すごくどんよりしてる人もいるというのはあまり望ましい状況ではありません。また、特定の意味づけや価値だけに凝り固まったメンバーだけがいても組織としては問題があります。「すげえいいじゃん」「すげえいいじゃん」ってポジティブな人ばかりいても、「でも、これってもしかしたらまずいんじゃないかな」みたいな反省ができる人がいるからこそ、組織が変な方向に行かなかったりもするわけです。
 
組織の中には多様な見方や経験をもってる人がいます。それぞれの世界の違いを認めあって、同じひとつの世界へと結びなおしていくような作業は、非常に大事なことでしょう。

現象学には「間主観性」という言葉があります。主観性A、主観性B、主観性Cとそれぞれの主観性は独立して閉じこもってるのではなく、主観性には主観性と主観性の「間」がある。主観性と主観性は互いに働きかけあって、影響をしあって存在していて、だから、主観性と主観性の間には相互に作用をする力場が生じていると考えます。そのような場こそ間主観性です。

多様な主観性の間に発生し、主観性同士が関わりあう場としての間主観性。複数の主観性が複数の世界を構成しているのにもかかわらず、それぞれの主観性がひとつの世界の中に存在しているのは、まさにこの世界が間主観性の場として生じているからです。

組織開発に代表される、参加者が相互に働きかけあい、自分自身を振り返り、成長し変容していく、そのような相互学習の場は、まさに間主観性の働きに根差しているわけです。

身体と他者という二つの困難を見つけ出してしまった現象学は、そこから間主観性という新しく、そして、非常に魅力的で可能性に満ちている言葉を生み出していったわけです。


【了】

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