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超人とニヒリズム~フリードリヒ・ニーチェその2:キャリアと学びと哲学と

2010年に社会保険労務士試験に合格して今は都内のIT企業で人事の仕事をしています。社会人の学習やキャリアに関心があって、オフの時間には自分でワークショップや学びの場を主催することを続けています。その関心の原点は、学生時代から哲学書が好きでよく読んでいたことです。キャリア開発や人材育成の研究には、哲学からきた言葉や考え方が用いられていることが少なくなく、哲学の知見の活かし方として非常に興味深いのです。キャリアに関心のある社労士という私の視点から、哲学のことをお話しできたらユニークなのではと思って、この記事を書いています。

自己紹介


超人と神

他人に依存することなく自分の人生の責任を自分で引き受けて生きること、それこそニーチェが求める強さです。そして、その強さをもった存在をニーチェは「超人」と呼びます。「超人」とは、それこそ人間を超克した存在ですから、もっと特別なことかと思われるかもしれませんが、自分の人生の責任を自分で引き受けるというのは、思いのほか当たり前のことのようにも思えます。

それが、ニーチェが生きた時代には当たり前ではありませんでした。だからこそ、ニーチェは「神は死んだ」と主張する必要もあったわけです。

「神は乗り越えられない試練を与えない」(コリント人への第一の手紙の10章13節)という新約聖書の言葉はよく知られています。人生には不幸なことや理不尽なことが幾度となく起こるものです。「なんでこんなことが自分に起こるんだろう」「なんでこんな目に遭うんだろう」と悩むことは絶えません。そのとき、「乗り越えられない試練は与えない」という神の言葉は、その苦難に意味を与えてくれます。「この苦難はきっと乗り越えられるんだ」「この苦難は私の人生に意味のあることなのだ」と思えることは、がんばろうと気もちを奮い立たせるものです。

そして、キリスト教には死後の裁きという教えもあります。生前に善良な行いをしたものは神の国に招かれるというものです。究極、人生苦しいまま、辛いまま終えて死ぬことがあったとしても、善良に生きた人ならば死後に救われるとの教えです。生きている間、どんなに苦しくて、なにもいいことがなかったとしても、意味のある人生だったと終えることもできるわけです。

つまるところ、「神」とは人間が生きる世界、そして人生に意味を生み出す「物語」を与えてくれるものです。その物語(「神話」とも呼べるでしょう)を信じることで人間は人生の意味を失うことがなく、安心して生きていくことができます。

キリスト教文化のなかに生きていない私たちには馴染みの薄い「神」かもしれませんが、多くの人が漠然と信じていて、人生の意味を支えてくれる物語というものはあります。たとえば、「良い学校に行って良い会社に入る」とか「新卒一括採用・終身雇用」とか、これらの物語は、多少苦しいことがあっても信じてがんばっていれば人生を大きな破綻から救ってくれるものと少し前まで当たり前のように信じられていました。あるいは、医師や弁護士といった職に就ければ良い人生を送れるとかもそのひとつでしょう。いまは反対に「自分の人生は自分で守る」とか「好きを仕事にする」といった言葉で紡がれた物語が浸透しているようです。

そう考えると、現在の世の中にも至るところに「神」は存在していることになります。むしろ、いまは無数の神話が氾濫している状況で、生き方に迷った人たちを呑み込み激しくうねっているかのようです。


神は死んだ!

このように、神を信じないで生きていくことは実は非常に難しいのです。その非常に難しい道をニーチェは求めているわけです。

神を信じれば、目の前で起きている不幸や、世界に起きる悲しいことや苦しいこと、それらに意味を見つけることができます。自分自身にとって価値あることと思えば、理解することも、受け容れることも、乗り越えていくこともできるでしょう。しかし、ニーチェは、そうしたすべての神や物語をまやかしであると、虚無であると切り捨ててしまいます。自分の人生の意味や価値は自分でつけろ。自分の人生を他の誰かに預けるなと。

それが「超人」です。

神や物語があれば、人生どちらに進んでいけばよいのか見定めることができます。何かに寄りかかったり、誰かに救いを求めたりして生きられるのなら、楽なのかもしれません。反対に、ニーチェのように、寄っかかれるものをすべて手放して、ただ自分の体ひとつで生きていけというのは、非常に厳しい生き方でしょう。それは、地図もコンパスもない状態でひとり海に漕ぎ出していくかのような危険溢れる冒険になるでしょう。

目的地が明確な旅は、そこにたどり着ければ終わりだという安心感があります。反対に、目的がない出発というのは、どこにたどり着くかわからないし、たどり着いた先が天国なのか地獄なのかもそもそもわかりません。寂しく不安な旅です。

それでも、ニーチェはただひとり自分の体だけで生きて行け、前に進めと教えます。そう言い切れたのも、ニーチェがこの世界や人生に意味なんてそもそもないということを深く理解していたからでしょう。ニーチェの主張する「虚無主義」(ニヒリズム)も、そこから生まれてきます。

ニーチェのニヒリズムは無気力なことでも絶望することでもありません。そうではなくて、 この世界や人生に外から意味を与えてくれる神様や物語はいっさい存在しないのだと、したがって、意味そのものも存在しないのだと徹底して突き詰めることです。

世界に起きる戦争も、大災害も、パンデミックも、それに意味などありません。必然性や運命といったものではありません。ただ偶然のままに生じて偶然のまま終わるだけです。そして、世界はただ続いていく。人間の命も当然ただ生まれただ死んでいくだけの無意味な偶然でしかありません。

私たちはあるとき突然この世界のなかに生まれました。もしかしたら明日、事故とか災害に巻き込まれてあっさり命を落としてしまうかもしれません。では、そこになんの意味があったのでしょう。その事故や災害にどんな理由があったのでしょう。きっと誰も答えられません。結局、人間の生まれにも死にも意味や理由なんてものはなくて、すべて偶然の賜物。なんの意味もなく生まれてなんの意味もなく死んでいく。ただそれだけです。

不条理でしかないのですが、仕方がない。そこに意味を求めてもどうしようもない。それがニヒリズムです。それでも私たちは生きていくしかないのです。その悲壮ともいえる決意が生んだ叫びが「神は死んだ」だったわけです。


ゴールをもたない哲学

ニーチェの哲学は「ゴールをもたない哲学」と言えるかもしれません。 人生の目標とか、目指すべき場所とか。そうした一切を拒絶する哲学です。

したがって、「超人」もゴールにはなりえません。病んだ存在から回復した存在へ、弱い存在から強い存在へというのはたしかにニーチェの求める変容ではあるのですが、だからといって、超人に達したから終わりかといえばそうではない。超人とは目指すべき目標とはまったく別のものです。

超人とは理想の姿とか本当の自分とかそういったものではないということは大事な理解です。思い通りにならないくすぶった自分を脱け出してありのままの自分らしい自分になるとか、いつか本気出してやったら本当の自分になれるとか、そういったものとは無縁です。

どんなに強い人、どんなに力のある人がいたとしても、それは決してゴールではありません。あるべき場所に到着するということをニーチェが考えるはずがありません。どれほどの努力をして過去の自分を乗り越えたとしても、そこに終わりがあるわけではなく、 行く先行く先で新しい困難に直面することになり、克服できなかったり、新しい弱さを見せつけられたりとかするわけです。

どんな人でも人知れず悩みや弱さをもってます。人の目にはキラキラとしているスーパースターでも、周囲には見えない悩みや悲しみを抱えているかもしれません。それを完全に拭い去ることはできないし、完全に決別できるわけでもない。どれほど置き去りにしようとしてもまた追いつかれてまとわりつかれてしまう。だから、何度でも自分の弱さに向きあって、認めて、自分のものとして引き受けていくしかない。超人とは、つねに過程のなかにある存在なのです。

人間は完全無欠で完璧な存在にはなれません。常にどこかにダメな自分を抱えているものです。だから、支えが欲しくなる。神を求めてしまう。でも、そこで神にすがるのではなくて、ダメさも含めて自分なのだ、自分の人生なのだと受け容れて生きていこうとする。たとえ、その先に報いがなくても、意味がなくても、それでも自分の人生を全うする。それがニーチェの哲学です。

自分の人生に外側から意味を与えてくれる存在、すなわち神を拒絶するニーチェの哲学は、世界の外から世界全体を俯瞰する神の視点を認めない現象学に近づいていきます。「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」とはニーチェの言葉ですが、万人に客観的な事実ではなく、個々に主観的な経験にこそエビデンスを置く現象学に重なるものがあります。

現象学の主観性は自ら意味を生み出し与えていく力をもっているものです。ニーチェの求める力は、他者の価値を借りるのではなく、自ら価値を創造していく力です。学習やキャリアの理論にとって現象学が重要な価値をもつのであれば、ニーチェの哲学もまた同様に意義をもつはずです。


【了】

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