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伊勢信仰を支えた御師(おんし)+α             (1/3)

7月1日の岡田登先生(放送大学非常勤講師、皇學館大學名誉教授)の「伊勢信仰を支えた御師」という講義を基にしながら、私なりに考えてみました。

「伊勢おしろい」は丹生(水銀)を加工して作られているので、その話が聞けるのではと期待したのです。が、2日間の講義のうち1日しか行けなかったので、丹生のことはよく分かりませんでした。ただ、素人ながら面白い考察にたどり着いたので、後ほど少し書いてみたいと思います。

講義を受けた感想は「知らないことばかり、伊勢神宮って、御師おんしって、本当にすごかったんだ!」で、ついあれこれ書いて長くなりそうなので、3回に分けます。
1,伊勢信仰の歴史
2,御師(おんし)
3,氏子狩り(駈)






伊勢信仰の歴史

伊勢神宮とは天照大神をお祀りし、内宮と外宮に分かれており、たいそう古い神社という事しか、私は知りませんでした。

ところで、大昔は天照大御神は天皇の御殿(奈良)の中で祀られていたのです。(同床共殿祭祀)けれど、それでは不具合だと、天照大御神はよそに移されることになりました。各地を転々としたので、関西や中部地方には元伊勢の伝承を持つ神社が残っています。そして、現在の伊勢に辿り着いて、「祭(夜.豊鍬入姫命).政(昼.天皇)」が分離しました。(今風に言えば、政教分離。)

以上は『日本書紀』に書かれた内容なので、確かな年代は言いづらいものがあります。けれど、平安時代末の式年遷宮に大勢の人が見物に来たそうですから、たいそう古いのは間違いなさそうです。(持統天皇の時代の690年に式年遷宮が行われたとも言われます。)

なお、内宮の天照大神は太陽神であり、外宮の豊受大神は内宮の天照大御神のお食事を司る御饌都神(みけつかみ)であり、衣食住、産業の守り神としても崇敬されます。

伊勢神宮は、私幣禁断(しへいきんだん)でした。「天皇の許可なく祈ってはならない、自分のために祈ってはならない。」ということです。許されたのは、「天下泰平.五穀豊穣.子孫繁栄」だけでした。けれど、鎌倉時代になるとこの掟は破られていきました。

武士により戦勝.武運長久祈願が行われるようになったのです。禁断であったはずの私祈祷が神職により行われて、御師の動きが始まります。


参宮した著名人

古代は天皇や皇族がお祀りをする神宮でしたが、鎌倉期以降は武士の信仰も集め大名も御師の檀家となります。

ほんの一例ですが、菅原道真.西行.日蓮.信長.秀吉.松尾芭蕉.大塩平八郎.吉田松陰.伊藤博文などが、参宮しています。歌人や政治家のみならず僧侶までも伊勢神宮にお参りしていたとは、驚きです。



                歌川広重/「伊勢神宮 宮川の渡し」からの一部


参宮の有様

フロイスの記した伊勢参り(安土桃山時代)

ところで、ルイス=フロイス(イエスズ会の宣教師)は、天正13年(1585年)の年報にこう書いています。彼はキリスト教を布教する立場の人ですから、異国の信仰の熱さにはよほど驚いたのでしょう。

(略)この無数にある神の中で最も尊崇されているのは、天照大神.春日大明神.八幡大菩薩の三つで、第一の天照大神は太陽に化したものと言い、伊勢にいる。日本諸国から巡礼として、この神の元に集まる者の非常に多いことは、信ずべからざる程で、賤しい平民だけでなく、高貴な男女も競って巡礼する風があり、伊勢に行かないものは人間の数に加えられぬと思っているかのようである。

イエスズ会『日本年報 下』天正13年



江戸のお伊勢参り(おかげ参りなど)

江戸時代は庶民のお伊勢参りが盛んになったのですが、では費用をどうしたか… 村や職場の人が参宮仲間(伊勢講)を作って貯金し、代表者を参宮させる代参が盛んでした。

また、抜参(ぬけまい)りといって、雇われ人や女.子供などが、往来手形や路銀を持たず、主人や雇い主.親に無断で突然伊勢参りをすることもありました。街道沿いの人から施行(無償の宿.食事.船.手ぬぐいなど)を受けたそうです。

江戸時代に始まったお蔭参りは、式年遷宮の前後に江戸の商人や女.子供の抜け参りから起こりました。最大規模は、文政13年(1830)で半年間ほどで全国の26か国におよび、全人口の6人に1人約500万人が参宮したそうです。さかのぼる明和8年(1771)からお蔭参りと称すようになり、日本の人口3,110万人のころ、200万人が参宮したとか。

この明和8年のお蔭参り絶頂期では、自分の家から横切って向かいの家に行くことすら困難なほど大量の参詣者が街の中を通って行ったと、当時の松阪の人の日記に書かれています。街道の物価も高騰し、白米一升50文が数か月で70文になったそう。

さらには、動物(犬や白牛など)のお伊勢参りも行われていたそうです。
   *参考図書 犬の伊勢参り(平凡社新書)仁科邦男著 2013年発行



「ええじゃないか」についての留意

お札が降りてきたと民衆が熱狂乱舞したええじゃないか」は、1867年(慶応3年)の夏から翌年の春まで続きました。ぼんやりおかげ参りのようなものかと、私は思っていたのですが…。

「あれはお伊勢参りとは無関係な動きであり、現にその頃の参宮者の数は減小している。」と、岡田登先生は述べられました。「ええじゃないか」は自然発生的な民衆運動というよりも、政情不安をあおり幕藩体制を混乱させるために討幕派が仕掛けた可能性が高いそうです。おかげ参りのイメージが巧みに利用されたのかもしれません。確かに1867年に幕府は崩壊しのち内戦もあり、討幕派の関りは疑われます。




参宮の歴史

平安末から鎌倉時代には式年遷宮も行われ、室町将軍.守護大名.僧侶なども参宮しました。

フロイスがイエスズ会に送った日本年報は安土桃山時代時代になりますが、その当時すでに庶民にも盛んになっていたようです。

さらに、近世の江戸になり五街道や宿場が整備され、戦のない時代の到来が参宮の旅を容易にしたのでしょう。そして、参宮のためなら、通行手形も発行され関所も通ることができました

また、資料を読んでいると、17世紀ころまでは信仰心の厚さがうかがえたようです。18世紀になると、旅の楽しみに魅かれる観光的要素が増します19世紀には街道は事故が起きるほど混雑し、仮装のような格好で参宮する人までいて、より娯楽的になったようです。

外宮の豊受大神は農業神とも解釈され、伊勢参りの理由にもなったのでしょう。お伊勢参りは農閑期の12月から4月が多かったようです。この道中では、目新しい農具や作物などの知識を得て、地元にない作物を持ち帰り育てることもあったとか。信仰や娯楽だけではなく参宮者は大いに見聞も広めて、地元に土産物と話をたっぷり持ち帰ったことでしょう。また、伊勢から京都や四国まで足を延ばした人もいたそうです。

また、外宮から内宮に向かう古市参宮街道は、お伊勢参りで栄えました。古市では多種の文化が生まれ、芝居小屋もでき歌舞伎などが盛んでした。

1639年(寛永16) 古市に初めて歌舞伎芝居が来演
 (略)
1782年(天明02) 古市が全盛期に入る(人家342軒、妓楼70軒、寺3ケ所、大芝居2場、遊女約1,000人)

伊勢古市参宮街道資料館 公式サイト

けれど、1910年(明治43年)に天皇の伊勢参詣のため御幸通りが作られて、さらに第二次大戦の戦火などでさびれ、今は旅館が一軒残るものの古市街道には名建築の石碑が残るぐらいのようです。

ところで、現在の令和4年の伊勢神宮参拝者は、約600万人です。(うち外国人は2万人弱。資料:神宮司庁)同年の日本の人口は1億2千万人なので、今も5%つまり20人に一人は伊勢神宮にお参りする計算です。気づいてみれば、私も子供たちもそれぞれにお伊勢参りをしていました。(宗教心の厚い家庭ではないのですが…)


御師(おんし)

それにしても、徒歩以外の交通手段がほとんどない時代でも、何故こんなにも伊勢神宮に参宮する人が多かったのか?
それは鎌倉時代から御師の働きが大きかったようですが、次回へ続きます。





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