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偏愛ってなんなんですか

偏愛をテーマに小説を書かなくてはならないわけだが、どうにも偏って何かを好きになったことがない。
恋愛が一番近いのだろうが、おそらくそこまで人を好きになったこともない。他のものを蔑ろにしてまでそのものを愛するような激しい愛を僕は知らないのである。

第一に


偏って何かを愛するとはどういうことか。
まず、そのもの以外の他者はおまけのような人生である。
その者と会うためであるならば、道端で倒れている人間を邪魔だと無視できる、そんな異常性を持った人間でなければ偏愛は成し得ない。
博愛の逆というわけではないことに気づく。別に道端に倒れている人間が行手を阻んでいたとしても、蹴りつけたりするわけではないのである。
攻撃性ではなく透徹した社会無関心。それこそが正体なのかもしれない。

僕にとって、思い遣りは平等である。まあ多少家族や友人に偏ってはいるが、偏愛をいうべきものではない。「普通の」人間なら、こんなものだろう。
僕は小説題材の物事は、極端であればあるほど味わい深い作品の種になると思っている。故に先日ふと市川雛菜の持つ浅倉透への感情を極端にしてみたものを取り出したらどうなるのかということを考えてみたわけだが、自分の感覚として理解ができない。
言い訳をしておくと、ロールプレイは非常に得意なのである。市川何某ならどう考えているかは、プロファイリングなどしなくても理解できるのであるが、ただ自身の中の偏愛は、見つけられない。

仮定1:偏愛の種は執着・依存


愛を極端たらしめるのは、依存、執着であると、まず言えるのではなかろうか。
ただし、依存にも、執着にも、縁がない気がする。
思い出すのはパチンコ、競馬、タバコであるが、パチンコは借金してまでやりたいとまでは思わないし(というか前Vパンクして以来怒りを覚えているし)、競馬は勝てる算段が立っていない中でやりたい気はしない。23年暮れの有馬記念は、なんとなく勝てるビジョンがあって、準備も何もせずに予想できたから買ったまでである。ギャンブルについて努力する気も、必要以上の投資もしたくはない。よってギャンブルへの依存は否定される。タバコは、健康との兼ね合いで、というか部活動との兼ね合いで常用は避けている。とは言っても、部活がなくなったら散々吸うかもしれないが。ただ現状でも、疲れている時以外で進んで吸いたいとは思わないので、依存である気はしない。

依存とは忍び寄る悪であって、だから君は気づいていないのだ、と誰か私にいうかもしれないが、なるほど私は親に依存していたのだと最近気づいたばかりなので、他に思いつくところもない。親への経済的依存も、死を考えさせられる局面の数々によって、自覚した次第である。なにより、親への依存は人間の持つ最初の依存感情であるだろうから、親への依存はそもそも偏愛の考察においては不要だろう。不要である。

執着。これは私の中から生まれ得るものだ。
執着している、と日常でいつか、なにかのタイミングで思った記憶がある。
簡単に定義を調べると、『ある物・事に強くひかれ、深く思い込んでどうしても忘れ切れないこと』(Oxford Languageより)とある。
まずもって僕が作品に抱く感情については大抵執着だな、と思うところで疑問が生じる。
執着という言葉の範囲が広すぎやしないか。
依存が現在的に対して、執着は思い出的である、と第一感。
依存が近く、執着は遠距離的であると、第二感。
故に、執着に経験があっても依存には経験がないのかと納得した。

自分を省みる


僕の中に、誰か、何かに縋らなければどうしても不安になるというものもない。部活を除く。テニスを3セットやることにはもはや楽しみを見出せなくとも、同期と離れたくないから気合いのみで続けている、部活。コミュニティを部活に依存しているわけではないが、進んで彼らから離れたいとは思わない、部活。嫌なことも楽しいことも常に半々の、部活。
DVのような組織である。テニスが好きなだけでなく、好きすぎる人間でないと、面倒を感じる機会が増えてしまう、あの部活である。
もしかしてこれが依存なのではなかろうか、と思う。
ただ、市川の視点を自分とし、浅倉=部活を見ることはできない。浅倉が嫌なやつ過ぎてしまう。半々の時点で偏愛考察に必要な依存にはなり得ない。ただの腐れ縁でしかない。腐れ縁考察をする機会があったら、必殺技としてこの関係をお出ししようと思う。

最後、仮定2:偏愛の真の種


偏愛とは、という議論に立ち返ると、偏愛は相手の欠点にも注がれる。他者へ向けられる愛情が、特定人物のマイナスを満たすように注がれる。失敗をしたら、お茶目だとか、そんな感じに脳内補完されて最終プラスくらいで落ち着くのだ。
対象Aがよければ他はどうでもいい。さらにそのどうでもいい対象には自分の半分くらいも入っている。自己愛100%が、他者、対象Aを見つけて自分から溢れる愛を注いでいくのだ。
そんなプロセスが大半だから、偏愛が崩れる時、その人物は自己愛に再度目覚め、憎悪にも近い激しい感情を、対象Aに抱きうるのではないだろうか。
自分が初めて他者に分けて”あげた”愛を、無駄にさせられた怒りが、向くのではないだろうか。
こう考えた方がしっくりいくか。
前言撤回。依存・執着ではなく、偏愛の種は「自己愛」である。
もうなんか、そういうことにする。


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