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宗教者の存在意義

我ながらぶっこみすぎではと思いつつ、冒涜するつもりはないのでジハードしないで。ナウいとつぶやいて、ナムいを思い出したので、今日は宗教の話。

1995年の地下鉄サリン事件によって、宗教イコール危険思想みたいなステレオタイプができてしまった部分がある気がします。最近ついに死刑執行されましたが、事件の被害者や遺族からすれば未だに人間じゃないとすら思うかもしれません。しかし宗教者だからといって必ずしもよからぬことを企んでいる輩ばかりでなく、たとえばお坊さんとしてあろうと一生懸命に専門の学校や大学院に通ったり、勉強や努力を続けている人もたくさんいます。もちろん思い描く夢や動機の部分もそれぞれにあるかと思います。

洋画なんかでみる、食事や就寝前などのお祈りシーンですが、その宗教的行為自体には馴染みがなさすぎて、意味や重要性について考えてもなかなかピンときません。むしろ本編とは関係ないので気にも留めないところでしょうか。しかしルーティンやレギュレーションのごとく行われるそれによって、彼らが何を得ているのかあえて言葉にすると、自分がこの世に存在し続けるにあたっての心の拠り所とか精神的支柱という、道徳や安心なのかと思います。生きていれば迷いもあれば悩みも尽きません。自分のことすら信じられない瞬間もおとずれます。そんなとき、絶対に揺るがなくて、無償の愛を注ぎ、許してくれる存在を信じられるというのは、この上なく心強いことかもしれません。いるかいないかということを超えて、いると思えることがです。だからお祈りの儀式を欠かさないことで、自分の一部としてそれを保っているのかと思います。

今日において、お坊さんとあう機会なんて、知り合いにいなければ法事のときだけでしょうか。葬式では、"みんなそうだから" ほぼ確実に頼らざるをえないでしょうし、素人が真似のしようのない複雑で難しい作法なんかは、存続のための集金システムとしてうまく確立されていると思います。呪文、じゃなくて、そう、お経とか。もちろん、メンタルの面において、非日常を演出することで、きちんと故人と向き合えるような時間を提供できるものかとも思います。

でも、彼らは葬儀屋というわけではありません。なんらかの役割のあるだろう僧侶という仕事を選んだ "人" です。小さい頃は特定の職業や、特に先生と呼ばれるような人は、特別でとにかくすごい人のように思ったものですが、実は、同じ人なのでソシャゲ課金もすればアイドルの追っかけもします。想像するような聖人君子はいません。そう、プライベートであえば当然ただの人です。ホイミもしてくれません。
じゃあ僧侶とか宗教者の仕事って何かといえば、心の安寧とか、そういった生きる知恵を授けてくれるものなのだと思います。普段は必要なくても、いざというときあるなしが明暗をわけるようなそれです。できたら説教によってではなく、こうすることで生きやすく感じられているよと体現するような存在であってほしいというのは漠然とした私の願望です。安心を売るのは保険の営業と同じなので、そりゃ契約をとるのも難しいでしょうよ。しかし、喪失体験のような心身とも揺さぶられるようなショックのなかであっても、支えになることのできるポジションにあるのも事実です。

中学生のときに宗教体験でたしか知恩寺に泊まったことがあるのですが、今でも浄土宗の法事で「同称十念」ときくと、あぁ10回一緒にいうのねと思い出します。8回「なむあみだぶ」で一呼吸、9回目は「なむあみだぶつ」で、10回目は「なむあみだぶ〜」て習ったと。あと、大きな数珠をみんなでぐるぐる回したのも覚えています。それ以上には特に持って帰ったものはないかな。

大切なのは知識としてというより、それでもって生きづらさをやわらげられているとか、いきいきした人と出会うことによって真似したいと思えるかどうかなのだと思います。だから出会って、話して、触れてくださいという点において、巷で話題になってる知恩院の#ナムいはすごくおもしろいなと。

なかなかぶっとんでるけど、本当にそれで救われたり、生きる支えになり得ると信じてるなら、ときにはこんな迎合もしつつ営業努力をするのは大事よね。

潜在的には誰もが大丈夫って抱きしめてもらいたいのだから。

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