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生きづらいお母さん専用の子育て支援が必要だ

最近では色々な子育て支援サービスや、お母さん自身による活動が展開されていて、それはとてもいい事だ。けれど、ずっと『生きづらさ』を感じて生きてきて、今、母親をやっている私からみると、なんだかどれも最低限の人付き合いが出来る人向けの内容のように感じてしまう。

今まで見聞きした中で、一番いいな、と思ったのは、東京のある市で行っていた、「ひきこもりの主婦専用」の交流会だ。

私は完全にひきこもりと言える状況になったことはないけれど、そのくらい参加対象を絞り込んでもらわないと、母の集い的なものに参加できない人の気持ちはわかる気がする。

大変な条件が重なる中で子育てに奮闘しているお母さんたちをTwitterなどで見かける度に思うのは『子育て支援は、子どもの特性や困りごと毎だけでなく、母親のタイプと状況別にメニューが必要だ』ということだ。

育児は自分の生きづらさの再体験でもある

生きづらさを抱えてこころ病んだり人付き合いの苦手さから働きにくくなったりしていても、子どもを授かって専業主婦になると、一見その困難さは外から見えにくくなることがある。ましてや、通院や服薬もせずに、辛いけれど何とかやってきた人は、なおさらだ。

でも、しかし。

見えにくくなっただけで、生きづらさが軽くなるとは限らない。生きづらくなっている人のほとんどは、その育ちで本人が受け入れきれなかった過不足を抱えていて、子どもを育てる時にもう一度、自分の中の過不足に苦しむ。

生きづらいまま母になった人にとって、子育ては大きな試練だ。

特に子どもに発達特性がある場合は、実質的な苦労(寝ない・癇癪がひどい・コミュニケーションが上手くとれない・多動などなど)と、「自分の上手くいかなさがこの子にも遺伝されてしまったのではないか?」という心理的な罪悪感などが重なる。

さらには、「自分が豊かな人間関係を持っていないから」「ママ友の輪に入れないから」色んな人に接したり、色んな経験をする機会を子どもに与えられないのは自分のせいだ、と、いわば自分の『ダメさ』が子どもの発育に悪影響を及ぼしているのではないか?と自分を責めてしまう。

そんなメンタルの人が、(実際それぞれに悩みはあるとしても)ある程度の友人、親類関係などがあって当たり前の人たちと同じテンションで、子育ての悩みなどは語れるわけもない。

自分の生きづらさごと打ち明けられるような場でない限り、子育てに関する悩みもなかなか話せないのだ。

生きづらい人は、子育て大変さ度数が高くなりがち

子育ては、どんな人のどんな子育てでも大変なのは間違いない。それでも大変さの度合いは一緒ではない。

その度合いを決める重要な要素は「生まれながらにその子がもつ性質」と「ヘルプを出せる相手がどれだけ身の回りにいるか?」だと私は思っていて、生きづらさを感じながら生きてきた人はほとんどもれなく、ヘルプを出せる相手がいない、または、居たとしてもヘルプを出すのが苦手だ。

割と生きづらさをこじらせている人は、親との関係が良くないケースも多く、パートナーの選び方を間違えてしまう率も高く、数少ない友人も未婚な場合も多い。そうした場合、まったく相談相手がいなくなってしまうということが起こる。

保健師さんなど、本来、公的に頼ってよい立場の人にさえ、ヘルプを出すのは簡単ではない。

その上、特別手のかかる性質の子だったりした日には、子育て大変さ度数がマックスに振り切ってしまい、もう、八方塞がり状態なんである。

かくいう私はといえば、妊娠前20年間くらいは断続的にではあるけれど抗うつ薬を服用したり職を転々としたりしていて、ものすごく生きづらさを感じながら生きてきた。

そして37歳の時に、実家には全く頼れない状況で、1歳過ぎまで2,3時間おきに夜泣きする息子の母になった。ちなみに、生後2か月まではベッドや布団に置くと泣く子だったので、夜は、抱いたままソファなどに持たれかかって休んだ。

私は元々ロングスリーパーで、睡眠時間が6時間を切ると体重が減るありさまだった。そして鬱体質の高齢出産者なのだ。産後半年くらいは今思えばノイローゼ状態だった。

救いは、夫が家事と子どもの世話が出来る人だった事だったけれど、当時は休みが週1取れればいい方で帰宅も遅かった。保守系の技術職をしているので、休みの日でもトラブルがあれば呼び出されるから丸一日は休めないことも多かった。居れば頼れるんだが、居ないんである。

しかも、ものごとの感じ方がまるで違う夫婦なので、共感して欲しいことを共感して欲しいように聴いてもらえることはなく、実務では頼れても心は孤独感がとても強かった。

出産前は割り切ったり出来た事も、産後の過酷な状況下のメンタルでは対応出来なかった。

また、産後半年頃、市で開催する同時期に出産した母親同士の交流会に参加したこともある。私にとっては運の悪い事に、ほとんどの参加者は「夜は寝てくれるので助かる」タイプの子を育てていて、おまけにキラキラした感じの人が多く、気が晴れるどころか、孤独感がさらに深まったりした。

幸い、出産した総合病院では、保険適応で1時間くらいのカウンセリングを受けることが出来て担当の先生とも相性が良かったので、定期的に通うことで救われていた。そこで話を聴いてもらう時間がなかったら、どうなっていたことかと今でも思う。

虐待やネグレクトは決して他人事ではないし、何かがひとつふたつ掛け違えていれば、自分もそうなっていた。

私の場合は、元々通院していたことや、安価でまとまった時間話を聴いてもらえる場が身近にあったからまだ良かったけれど、そこまでの状態ではない、でも色々苦しさを感じながらもそれまでなんとか医療に頼らずにやってきた生きづらい人がお母さんになった時の方が、むしろ苦しい立場に立たされることもある。

人付き合いが苦手だったり、他者に理解されない体験を重ねてきた人は、子育てサークルや相談の場にも参加しにくく、一人で孤独を深めがちだ。子どもの療育などでつながった医療者に自分自身のことも相談するチャンスが得られれば良いけれど、誰もがそれに恵まれる訳でもない。

一番支援が必要な人たちほど、一番支援に繋がりにくい状況が、確かにある。

そして「支援」という利用する側にとってハードルの高い言葉で表されるようなシステムではなく、もっと気軽に、追い詰められる前の段階で(そもそもあっという間に追い詰められてしまう層なのだ。)利用出来る何かが必要だ。

生きづらさを抱えた母と発達特性の子(もちろん子どもが定型発達の場合でも必要だけれど。)という難しさのある子育てに特化した悩みを吐き出し、安心して相談できる場が、もっと広がって欲しい、と、心からおもう。

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