見出し画像

喜屋武綾菜 「裸足でなぞる。」を観てきた

喜屋武綾菜は、触感型のフォトグラファーです。

「裸足でなぞる」は昨年の夏に東京品川のキャノンギャラリーでの展示があり、それを一部新しく大判プリントを足して、INTERFACEで昨年末に展示が行われた。幸いなことに両方を観ることができました。

両方を見比べて、同じ写真でも展示する壁の色やライト、展示のスペースのレイアウトでこんなにも印象が変わるのかと驚いた。仮に俺の写真を展示した場合を想定しても、ここまで印象が変わるとは思えない。この展示スペースの違いで印象が大きく変わるのも、彼女の写真の特徴なのかも知れない。キャノンは黒い壁に白熱球のようなライトだったが、INTERFACEは白壁に白いライトだった。キャノンでは写真が壁に溶け込んでいるようで、写真の境界が曖昧だった。それが、白壁になったことで写真の境界がハッキリとし、1枚1枚が自分を主張するようになった。キャノンでは全体の中に曖昧に控えめに自分の存在を主張しているようだったので、かなり印象が違う。

そうなると、展示の印象も変わった。
キャノンでは混沌の中に美を見いだしている。誰もが見落としてしまうものの中に潜む美を感じ、それを被写体にしている。
写真家は人の気付かないところにレンズを向けたい修正があるが、彼女のターゲットは曖昧な感覚の先にあるように見える

人は何でもカテゴライズしたがる動物で、言語を駆使してカテゴライズを行ってきている。写真や絵などの表現事態も言語でカテゴライズしようとする、少なくとも感じたものを伝えるには言葉にしないといけない。
彼女の写真はそれが難しいと感じた。
本人も自分が何感じているのか言語化する前に感じた感覚、感じ取った美に向けてシャッターを切っているように感じられた。
そこには意図をもって撮影するのではなく、その時に感じたものを写真に取り込む繊細な感覚と言語化されない未分化な美、観る者に少しざわついた感覚を呼び起こさせるような不思議な魅力が漂っていた。

話題にもなった流れ着いた軽石を珍しい現象としてみるのではなく、その存在に美を見いだしている感性、それは視覚的なものなのか、彼女の心の動きなのか定かではないが、写真という非言語的な表現手段の中に漂っていた。俺自身も彼女の写真に魅力を感じていたが、それが何かを具体的に表現できなかった。

それでも、印象的なおばあの顔がずれた写真、逆光でハイビスカスの雌しべがシルエットになった写真、軽石の繰り返しの模様、自然の中に彼女が感じた美と生命力のようなものを感じた。
モヤッとした感覚を抱きながらキャノンギャラリーでの展示を見た。

そして、年末のINTERFACEでの展示である。
彼女の写真は多彩でした。
ずれたおばあの顔から、ハイビスカス、赤いミズ、軽石の模様と影、橋柱に張り付いたフジツボなど、一貫性のない被写体のように見えるが、何か共通するものが感じられた。
それが何かを悩んでいた。気付いたのは、彼女の写真を観ていると心のどこかザラッとしたような感覚が全ての写真に共通してあること。
写真に写り込んでいる被写体に観られるザラッとした感覚を呼び起こすような模様であったり質感なのか。

どうも違うような気がする。

俺は彼女の写真をどこか心の表面に一枚ザラッとした紙で覆うような、テクスチャー感があると表現をしたが、ラット&シープのジュンさんがもっと的確な表現をしてくれた。

それが冒頭の「触感型のフォトグラファー」という言葉である。

写真家の中には、観ている者にザラッとした質感のようなものを写真に写し込む写真家がいるという話をした。なぜそうなるのかは説明できないが、観ていて何か、そのものを触っているような感覚になる。
そういう写真家がいるそうです。
彼女にピッタリだと感じた。

おそらく、その触感は撮る本人は意図していないところで成立しているのだろうし、その意図しすぎない感覚の中で成立するものだろう。
意図するとその触感はスルッと指のすき間から逃げていくかもしれない。
コントロールしようとして意図をすると逃げていく、感覚の中にだけに存在する触感と、微妙な感性の中で成立する写真。
まるで、感性と意図の細いすき間をスルスルと歩いているような、細い糸の上を歩いて行くような、観るものがどこか落ち着かなくなるような感覚が彼女の写真の中にあるように見えた。

キャノンでは未分化な美や生命力のようなものを感じたが、INTERFACEの展示ではそれが前面にあまり感じられず、もっとも二度目なので自分が鈍感になったのかも知れないが、彼女の触感がより感じられた。
また、空間の広がりを感じられる写真も多く、特に今回新たに大判にした橋柱の柱や軽石の模様、赤いミズなど。
どちらもマクロな被写体であったり、限定した空間であるが、そこに広がり、宇宙へ繋がるような印象の写真が観られた。

本人も宇宙などに惹かれるような事を言っていた。

彼女が意識する宇宙の広がりを限定した空間の中、ミクロの中にマクロな世界が感じられた。
観ていて感覚が広がるような展示でした。

何か、微妙な感覚の中で成立するような彼女の写真は、これからどんな広がりを見せてくれるのか楽しみです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?