現代論考 番外編〜竹林の七賢を目指す書生希望の高学歴ニートが考えるキャリア今昔物語


私はとある人材紹介会社に勤務していた。

業界内でも最大手一歩手前で、CMとかもばんばんやってるところだ。

人材紹介会社と言われてピンと来る人は少ないと思うので、簡単に説明する。

ビジネスモデルとしてはこうだ。

CMや転職サイトから転職希望のある個人を集め、カウンセリングを行う。その過程で転職を勧め、具体的な求人の紹介まで行う。応募意志獲得後は面接の対策や書類の添削など、転職に関するアドバイスをプロであるアドバイザーが選任で行ってくれる。はれて内定が出た暁には、入社意志を個人から証拠の残るメールで回収し、企業側に報告する。この時点で企業側は入社受け入れの準備を始め、最終的に入社日を向かえたら、企業側から、当該個人の初年度年収の30%前後をフィーとしてもらう、という感じだ。

社内としては、個人から入社意志のエビデンスメールを回収した時点で売上を計上するため、もしその後入社日までになんらかの理由で入社不可となった場合は、マイナス計上となる。当然、成績に響く。これは、企業側としても入社意志を表示した以上入社準備のためにコストを払うことや、社会通念上入社意志を覆すことはありえない、というある意味性善説に基づいている。

ちなみに個人にとってこのサービスは無料である。

だから、極端な話そこそこの条件の会社で内定が取れたら、入社意志だけ示しておいて、勝手に個人で活動してもっと良いところがあったからいきません、ということも、法律的になんら咎められるわけではない。

が、これは日本という社会においては道義的に許されないという風潮がある。

逆に言えば、だからこそ成立するシステムなのである。


ただ、昨今の状況を見ていると、これがわりと崩れてきている。さすがに悪意をもって入社意志を覆す人間は少ないが、たいてい意思決断前に確認すべきだった事、もしくは確認したつもりになっていたことが、やっぱりダメだった、というパターンが多い。

具体的に言えば、恋人、配偶者、親などの反対だ。本人が勝手に賛成してくれるはず、と思い込んでいるパターンから、一度は相談したがその後翻意した、というパターンまで様々だが、わりと頻繁に起こることが多い。


そもそも、今の日本社会は転職に寛容になったと言われている。たしかに一昔前に比べて転職は市民権を得たと言える。

転職とは、社会人として生命線である仕事を環境から根こそぎ変えることである。だから、今の日本においても未だ、結婚に次ぐ一大決心として就職が挙げられており、転職も大きな意味でそこに含まれる。

その決断を、より多くの人がなせるようになった。

それは喜ばしい事だろうか?


私はそうではないと考える。


今も昔も、日本人の性質は変わっていない。

戦後から現代に至るまで、根本的に変わっていないシステムはいくつもあるが、大半の国民が教授するシステムとして教育がある。

私たちはそもそも自己決定を促す土壌に育てられていない。道徳の授業がわかりやすい例だが、要するに模範解答(その場で一番偉い人の言って欲しいことを忖度する訓練)をはじき出すことしかしていない。

そうなると、転職が否とされた時代の社会人も、今の社会人もそう本質的には変わらないはずである。


インターネットが日常に溶け込みスマートフォンを1人一台所持する時代になって、多様な価値観が共存する時代となったと言われて久しい。そしてその代表例の一つとして多様な生き方、すなわち転職や起業というものも市民権を得てきた。

一見、耳障りよくまた筋が通っているはずの言説だが、果たして本当にそうだろうか?


戦後以来、学校教育、とくに義務教育が変わっていない中で、使える技術だけが進歩した。というのが実情ではないだろうか。いくら優秀な機械を持っていようと、今のところそれを使う脳みそは人間にしかない。

その脳みその調教は、戦後から大きくは変わっていない。

そう考えれば、じつは戦後の日本と今の日本で、なんら人々の営みは変化していないのではないかと思う。


昔は、人生の転機に差し掛かった際、相談する相手は親だった。それは、要するに自己決定できない人間が、選択肢を提示してもらう過程である。昔はそれが片手で数えるほどしか選択肢がなかった(親の意見、配偶者の意見、同僚の意見、ぐらい?)。

しかし今はスマホやネットのお陰で無数の選択肢を提示されているように感じる。

しかし、思い出していただきたいのは、そもそも日本人は自己決定できるように作られていないということである。沢山の選択肢を前にしても、その選択肢を吟味し、取捨選択する機能は非常に劣っている。


となると、結局のところ誰かの意見に従いたくなる。

でも、近しいところの意見よりは、「それらしい」意見がネットにはある。でも、顔の見える人の意見に従いたい。

そういう無意識の願望を釣り上げるように出てきたのが、人材紹介会社といえよう。


プロという顔をしているから、初めましての他人に人生の相談をし、果ては導かれるままに転職していく。


やはりそこに本人の意思は少ない。

私がアドバイザーをしていた経験から言うと、直接会いに面談に来られる方の実に9割は結局転職する。その場で動かなくても、私と相性が悪く、ほかの人材紹介会社(エージェントとも言う)を使ったとしても、結局、転職するのである。

そして、みな一様に言うことは同じだ。

「一生食うに困らない仕事を教えてほしい」

言葉やニュアンスは違えど、とどのつまり、そう言う事である。もっと言うと「一生依存できる=これから先思考停止していても人並みの生活が送れる企業や資格を教えて」という感じだ。


今の会社になんとなく入ったけど、居心地が悪い。だから、次は何も考えずに生きていたい。

そんな感じでみんなやってくるのである。

当然ながらそんな仕事などない。

そもそも、そんな仕事を知っていれば我々エージェントの人間は全員そこに転職している。

ただ、それだと商売にならないから、あの手この手で信じ込ませるのである。よく使う手が、転職を思い至った理由(転職理由)を解決できる企業を提示するパターンだ。

これは非常に大事だし本質的な提案(少なくともノルマのために受かりやすい企業ばっかり紹介するのに比べれば)だし、良心的だが、一方で応急処置でしかない。

頭が痛いんです、という患者に対して思考停止でロキソニンを出すようなものである。

CTやその他の検査をした結果、深刻なガンかもしれない。もしくは、日頃の不摂生が原因だから生活環境の改善が必要かもしれない。場合によっては仕事の際の姿勢の問題で、外科的処置が必要かもしれない。

キャリアの問題というのは、常に多義的な意味を持ち、その解決法が効果を発揮するには時間(得てして数年単位)が必要である。

そこをあえて深掘りせず、応急処置として絆創膏をはっつけるように求人を持って解決する。

それがいまのエージェントで「顧客志向」と言われているものの実態である。


そもそも、アドバイザーのなかでもきちんとキャリアに関して学び、向き合っているひとはごく少数である(そんな職場に嫌気がさした結果私は抑うつを再発した)。


ただ、エージェントを悪と糾弾することや、アドバイザーの質についての問題提起が本稿の主旨ではない。


問題としたいのは、こういった素人集団でもビジネスが成り立ってしまう事である。


それほどに、日本人は自己決定の訓練が出来ていない。情報の取捨選択ができない。

肩書き、権威、学歴。さまざまな仮面が日本では重宝されているが、ふたを開ければ意外とただの素人のモノマネだったりする。

日本におけるビジネスとは、壮大な素人における茶番劇に過ぎない。


自己決定の訓練が未熟な人間が、より多くの情報に触れたところで、情報の洪水に飲まれるのがオチである。いま必要なのは、ごくごく身近な、手の届く範囲の生活で、自分の好き嫌いをはっきりと表現することではないだろうか。そもそも、情報の取捨選択は、何か判断基準があって初めて実行できるものである。その軸が好き嫌いでも最初は構わない。というか、それが本質である。ネットを見れば、大勢のいいねと言っているものがよしとされる風潮があるので、そこはあえて見ずに、日常生活の中で自分がいいねと思うものを、これもまた顔が見えて日常的にやり取りする他人に対して臆せず主張していくことが肝要だ。

地道な好き嫌いの訓練の果てに、さまざまな情報を取捨選択する選択軸のようなものを得ることができ初めて自分の人生を歩めるようになるだろう。


未だこの日本では転職はかなりの一大事だ。

大半の人間にとっては、そうである。だから、そんな後に引けない決断を、他人に委ねてしてしまう前に、自己決定力を少しでも高めた方が良い。

自己決定できれば、他人のせいにして愚痴るだけの人生から、自分で自分の人生を生きることができるようになる。


日本は壮大な素人の茶番劇で成り立ってきた。阿吽の呼吸のようなもので、お約束が多々あった。でもそれが崩壊しつつある。そこで求められるのは、自分の好き嫌いをちゃんと表現できるという、至極当たり前の人間である。















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