見出し画像

いまさら反抗期

子供は親に反抗することで親の管理から自由になろうとする。

親が「人と話している時にスマホ見ないの!」といったとして

1.いうことを聞いてスマホをしまう(従う)

2.うるせえと思いスマホを見続ける(反抗する)

未熟なうちはこのどちらかを選ばなければならない。

従いたくなければ反抗するしかない。

私はそう言われていないとしてもそう言う空気を察してスマホを見ないようにする人間だった。

私は反抗期がなかった。(と思っている)
あえて反抗してヤンキーになりたいわけでもなかった。
反抗するほどひどい親ではないのを知っているし、それをすると親がどんな気持ちになるのかも察してしまい反抗しなかった。

だからといっていうことばかり聞いている優等生になるのも苦痛だ。そんな従順な人間ではなかったし自分の好きなようにやってきたつもりだ。

しかし反抗しなかったツケとして、
今でも心は親の言うことに従順に従おうとする。
親の言葉が絶対的な感じがして、親がいなくても親に叱られるからとか、親の期待とかを背負って行動してしまう。

(親との関係は良好です。)

大人としての反抗。心の距離感。

自分の生きづらさを親のせいにしたいわけではない。

ただうるせえと反抗するのではなく、かといって従うでもない第三の道はないか。

いや反抗したいのではなくていつも最初に親の顔色を伺うことをやめたいのだ。

たぶん大人になったかつては反抗していた人たちも、大人になり仲良くなるとしても親と心はちゃんと切り離されている。多分普通はこんなことが当たり前にできるのかもしれない。

今の私はいわば境界線がない。親と一心同体のようになっている。親は絶対で、親の言うことの方が正しい思ってしまう。

それが他人にも及んでいる。
自分の意見はいつも他人より劣っていると考えてしまったり、
自分と他人の境界が曖昧で相手の言葉に影響されやすくなる。
自分と他人の違いが受け入れられなかったりする。
コントロールしようとしてしまったり、
人は自分が考えるように考えているという思考の一般化をしてしまう。

hspの相手の考えていることがわかる。
目線や表情だけでどう見られているのかを察するというのはここにも少し原因があるかもしれない。

実際相手が考えてもいないのに、自分の考えるように相手も考えていると思い込んでしまう。それは自分と他人が同じだと思い過ぎているのかもしれない。

親も人間

でも親も世間から見たら考え方に偏りがある。

親も人間で、一人の人間としての価値観を持っている。

当たり前だけれど。

親もはじめての子育てを若いうちから模索してきたのだ。
うまくいかないことの方が多いだろう。
責める余地はない。

反抗は親を否定するためや育て方が悪いからと言うのでなく、ただ人間として分離するためにある。それは自立するための成長に過ぎない。

親の宿命

しかし子は親の理想を叶える手段ではない。
子は親の満足を満たすためのものではない。

親はどうしても心配する生き物だ。

愛が強いほどそうだ。

その子に一人前になって欲しいからどうしても理想と比較して理想に近づけようとする。
あるものより足りないものを見てしまう。
その子自体のあるがままをなかなか見れなくなる。
しつけの延長線でいつまでもコントロールしようとしてしまう。
そんな責任を背負ってしまっているのかもしれない。
親もまた世間から見て恥ずかしくないように育てなければいけないという世間の目にさらされているのかもしれない。

子の責任

失敗や苦しみはその子の経験になるとわかってはいてもできるだけ挑戦より安定を求めてしまう。

それは押し付けられた理想というより親はそう考えるしかない生き物なのかもしれない。

それは親の理想だけれどそれに従うかは子どもの自由だ。

実際安定を望みながらも、その子がその子らしくイキイキと生きて欲しいという矛盾した感情も抱えていたりするのかもしれない。

大人になると成熟して、親と子は同じ目線になる。
親は完全ではないことがわかる。
よわい部分や偏ったところがあるのがわかる。

親と子はそれぞれ別の生物で、独立した生命体なのだとわかる。
そして自分もまた偏りのある独立した存在なのだとわかる。
当たり前だけど自分とは同じではないとわかる。

親と自分が別々な存在だとしたら、子は自由に選択する権利を持つ。
自由に選択できるとしたら、親に自分をわかってもらおうと言い争う必要もない。

親は親のまま、子は子のままでいられる。

それは反抗ではないが心の独立だ。
子が心を独立させることによって親も独立できるのかもしれない。
子が親と同じくらい成熟して支える側にあるからこそ親も子がもう子どもではなくて一人の大人なんだとわかることができるのかもしれない。

自分が他人の責任を負う必要がないように、親の理想を負う責任もない。

人はそれぞれ自由だ。誰にも縛られる必要はない。一度きりの自分の人生を人任せにして後悔しても遅い。

親と自分。他人と自分。
その心の距離や独立性がわかっていくと人の意見に心がもっと影響されなくなるのかもしれない。
他人の目線も、他人と自分は違うので何を考えているのかはわからないと割り切れるのかもしれない。

親と不仲になりたいのではない。各々がちゃんと人間として自立してお互いを思いやれる対等な立場になれたらいいなと思う。

私はまだまだ心は独立しきってないなと自覚する。

そんなことを考える今日。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?