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タワマン文学が生まれるまで

スウェーデン、ストックホルム。口から漏れる息はおろか、まつ毛さえ凍るような真冬の凍てつく空気の中、僕はノーベル文学賞の授賞式が開催されているストックホルム・コンサートホールの建物を遠くから眺めていた。豪華なパーティーの様子やオーケストラの旋律に触れたいのならば、テレビの画面の方がよほど良いとは頭で理解している。それでも、少しでも授賞式の現場に近づきたかった。

「おい中国人、ここから先は立入禁止だぞ」
顎髭を蓄えた、身長190センチはあろうかという警官が吐き捨てるように言う。中国人ではなく日本人だと反論しようと思ったが、僕だってスウェーデンとフィンランドとノルウェーの違いを分かっていない。不毛なやりとりで感傷的な気分が汚されるような気分がしたので黙って頷き、車両通行止めのバリケード越しに、右手親指の第一関節くらいに小さく見えるコンサートホールの建物をみつめた。

雪が降る中、ライトアップされた建物はぼうっと輝いていた。巨躯の無愛想なスウェーデン人の警官と、極東からやってきた小柄なアジア人。この一帯を除いて世界は崩壊したんじゃないかと思うほどストックホルムの夜は静かで、気がつけば頭や肩には雪が積もっていた。底冷えする寒さの中、僕は思った。冬のタワマン高層階の外って、こんな感じなのかなーー。


なお、ここまでの描写はすべて想像で書いている。無愛想な巨躯の警官、誰だよ。そしてノーベル賞の授賞式ってずっとオスロだと思ってたけど平和賞だけなのね。いつだって大切なことは全部グーグルが教えてくれる。


さて、突然だが、僕の学生時代の夢について話をしたい。



沢木耕太郎になりたかった。

あの頃、長期休暇のたびバックパックを背負ってアジアを回っていた大学生の大半がそうであるように、深夜特急の単行本をボロボロになるまで読み込んだ。ボクサー、カシアス内藤の挫折と挑戦を描いた一瞬の夏で、ノンフィクション作家としての客観性を無視してのめりこむ姿に危うさと底しれぬ魅力を感じ、ああいうノンフィクションの文章を書きたいと思った。


伊坂幸太郎になりたかった。

オーデュボンの祈りで文壇に彗星の如く現れた時、軽快な文章とそれでいて鮮やかな情景描写に嫉妬した。アヒルと鴨とコインロッカーの世界観に打ちのめされた。言葉を武器に独自の世界を切り開く、そんな小説家になりたいと思った。


二人のコータローの背中を追いかけるように、文章を書く仕事についたのは自然ななりゆきだった。小学生の頃から、作文だけは褒められた。何を書けば大人に受けるのかを理解していたし、中学生の頃は給食のデザートと引き換えにクラスメートの作文執筆を代行していた。クラスの男子の卒業文集の4分の1は僕がゴーストライターをした。年老いた両親が暮らす実家の居間には文部科学大臣の名前が書かれた賞状が飾ってある。書くということにおいて、自分が特別な存在であることを信じて疑わなかったし、何者にでもなれる気がしていた。



そして現在。僕は今日も一人、ノートパソコンのキーボードを一心不乱に叩く。

「フカキョン、復帰でファンに感謝のヘアヌード!?」

話したことはおろか、会ったことすらない芸能人の下世話な話について「関係者」というマジックワードを多用してコタツ記事を想像で書く日々。ノンフィクションも小説も、途中まで書いては納得できずにボツにして形にすることができず、30歳を超えてからは書こうとも思わなくなっていた。気がつけば、その日暮らしのライターになっていた。

「窓際さん、ちょっと前回の記事はPV弾けなかったから、もっと過激に行きましょうよ。『倍返しの恩返しヘアヌード』みたいな、キャッチーなの頼みますよ〜」

一回り以上も年下の編集者からは、時代に取り残されたライターとしてぞんざいな扱いを受けている。相手は早稲田と言っても商学部ですらない、社学卒。ガルシア・マルケスを一冊も読んだこともないような無教養な男に馬鹿にされるのは我慢できない。とはいえ、仕事を選り好みできる立場ではない。「次は頑張るんで、またお願いしますよー」と媚びておく。

Twitterに出会ったのは、そんな時だった。「これからはSNSからの流入が鍵なんで、窓際さんも勉強しといてくださいよ。あ、今更mixiとか勘弁っすwww」コロナで当時流行っていた、zoom飲みの席で社学卒の編集者が話していた。何を言ってるのかすら分からなかったが、場の雰囲気を壊さないため、ストロングゼロ片手にヘラヘラ笑い、飲みが終わったあとに速攻で調べた。
なるほど、トランプ大統領が使ってるとか話題になってたのはこれか。高齢者でもできるらしいし、なんとかなるだろう。ハードオフで中古の中華スマホを買い、ガラケーから乗り換えた。

最初は手探りで時事ニュースについて呟いていたが、なかなかフォロワーは増えない。藁にもすがる思いで西野某のオンラインサロンに入ったが、プペルを80回分買わされそうになって逃げた。困ったなと思った時に出会ったのが、YAHOOニュースだった。
タワマン、皇室、受験、芸能人の不倫、中韓、朝日新聞…どうやらコメントが付きやすいトピックがあるようだ。コロナで気がささくれだっているのか、みな一様に攻撃的だ。この負の感情におもねった投稿をすればバズるのではーー。目論見は大当たりだった。

「気圧が低くて米も炊けないタワマン高層階に住む奴www」「SAPIXに入ってもαクラス以外は養分!」グーグルで適当に調べたキーワードを打ち込むと、RTといいねとともにフォロワーが一気に増えた。いいぞ、釣場を見つけた。三流ライターとはいえ、文章を書く小手先の技術だけはある。詳しい知識など、今どきググれば全部出てくる。そうだ、タワマンに住む母親たちのマウンティングを面白おかしく書けば絶対読まれるはずだ…後ろ暗い情念に火がつく。

気がつけば、タワマン文学の第一人者としてネット上ではもてはやされるようになっていた。流山文学、投資信託文学、オミクロン文学…森羅万象、あらゆるものがネタになった。人々のコンプレックスを刺激して、笑い飛ばせるような文章を書けばいくらでもRTといいねは伸びた。投稿するたびにネット有名人も飛びついてくる。もう、社会から疎外された惨めたライターはどこにもいない。Twitterの僕が本当の僕なんだ…


…的な感じの設定で、Twitterで駄文を書き散らして生きています。

村上春樹はかつて、書くことを「自己治療的な行為である」と言及したことがある。僕にとって、書くことは「おちんちんを見せるような行為」だ。いや、ここはジェンダーバランスに配慮して「性器を見せるような行為」と言い換えるべきか。

TwitterなどのSNS全般に言えることだが、文章にはその人の癖や思想の片鱗が出る。爆美女のアイコンに丸の内にゃんにゃんOLを語るアカウントの98%からネカマのオッサンの濃厚な匂いがするように、毎日文章を読んでいると、その人の思考の一片や、過去の人生で積み重ねてきたものに触れることができる。僕はネットの海に漂う文章に触れて、どんな人かと想像するのがとても好きだ。

一方、どんな魅力的な文章を書く人間であっても、大半の場合、商業ベースに乗ったとたん、文章は大量生産の規格品となり、個性は消え失せる。真面目な記事やアナリストレポートに誰も個性など求めていないから、当たり前の話だ。しかし、長年、パンツを履いたような文章を書き続けている間に、どうしても満足できない自分がいた。公衆の面前に性器を曝け出したいという気持ちが溢れ、気がつけば僕は窓際三等兵となってTwitterの海を全裸で泳いでいた。ここまで書いて思ったけど頭おかしいんじゃないのこいつ。おまわりさんこの人です。

今回、noteを始めてみようと思ったのも、過去のタワマン文学のアーカイブを作りたかったというのもあるが、Twitter以外にも何かしら文章を書くことで発散できる場があると嬉しいよねと思ったからである。文章スタイル的に、金儲けに走ると面白さが崩れると思うので別にこれで稼ごうとは思っていないが、港区内陸のタワマンが欲しいので、ノリで2億円ほどおひねりをくれるのであれば歓迎したい。

何をやるかはまだ決めていないが、思いつきで色々と書ければと思う。年末の変なテンションで始めているので、ひょっとしたら飽きて何も書かない可能性もあるけど。とりあえずこんな感じで行こうと思う。引き続きよろしく。令和の限界集落、Twitterで僕と握手!


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