元社畜のおじさんと筋トレなどの話2

ずいぶん久しぶりの投稿になりますが、前回に引き続いて高校一年のおじさん少年が希望と多幸感に塗れながら重量挙げ三昧だった幸せな三年間のお話です。結果から言うと大した選手にはなれなかったのが正直なところですが、平成初期の田舎のひとりの少年の備忘録って事で続けていきます。

今では役所がすっ飛んでくるようなダイオキシン塗れの自前ゴミ焼却炉への通り道から見える、標準サイズのコンビニくらいの広さを持つ練習場。巨大な鉄塊をラバーで覆われたディスクと値段を聞くと誰もが驚く20万円超のバーベルシャフトが整然としかも効率的に配置されている、そこが田舎実業高校重量挙げ部の、我々は道場と呼んでいた場所でした。同期の新入部員は確か10名以上でしたが数日後に残っていたのは5名、居なくなった半数はシャフトを握る前に居なくなってしましました。

半数が居なくなった理由は単純でギリ平成なあのころの昭和なシゴキ、甲子園行くような野球部よりははまあマシなんだろうなってくらいの運動量。あまりの辛さのせいかよく覚えてはいないんですが、まず最初に400mトラックで先頭ダッシュと馬飛びをそれぞれ一周ずつ。30m位のダッシュを延々と、多分30分くらいほぼ休みなしでやらされたのかな。後は二人一組の耕運機とか運動部なら思い出しただけで胃液が出そうな、そしてもちろん日を追うごとに一人二人と欠けていき翌週には5人翌月には3人。おじさん少年は何とかシゴキに耐えてトリオに残っていました。

非人道的なシゴキに耐えてほぼ陸上部から重量挙げ部に戻れたおじさん少年の前に、日○大卒のこれまた非人道的なコーチが差し出したのはホウキの柄でした。そう最初から20kgもあるシャフトなんか素人には持たせてくれないのです、それでも指導に従って一生懸命ホウキの柄を上げたり下げたりしているうちに恰好がついてきたのでしょうか。初めて握らせてもらったシャフトは錆と汗と滑り止めの白い粉、炭酸マグネシウムが混然となったえもいわれぬ芳ばしいものでした。

最初は20キロを上げたり下げたりしていただけですが、日に日に重いものを挙げれるようになっていくおじさん少年の多幸感に塗れた脳は完全に中毒になっていったのです。いやコレすげえわ俺これで食っていくわって心に決めたのが入部から二か月後の事でした、とは言えまだ殻が付いたヒヨコみたいなおじさん少年はその気持ちは胸に秘めたまま練習に没頭していきます。今ではもう30年前にもなるのにあの道場の暑さも寒さも、希望からの努力を経た後の挫折の絶望まで克明に思い出せます。昨日の事みたいって本当ですね、桜木花道にエアジョーダン売った店のヒゲ店主の気持ちよくわかる。

客観的にまあまあな素質があったとはとても言えない、才能のないおじさん少年でしたがそれでも愚直に楽しく日々肉体を虐めるのは楽しかったです。体重何キロでバーベル何キロ持てる?とかは野暮な話なので具体的には記しませんが、まあ三桁キロは普通に挙げてました。運も実力もイマイチなおじさん少年でしたが、それでも一度くらいはインターハイに出てスポーツ推薦で大学に入って社会人でも少しやって。そして教職につけるようなインテリではなかったので、普通に体育会のコネで市役所かどこかの会社の営業か何かで働いて協会の手伝いをしながら審判の資格を取って。

そんな風に趣味程度に競技を続けながらいつか結婚して子供にも鉄塊を挙げる姿を見てもらいたい、そんな夢は高校二年の冬に父親が実印を丸裸でつぶれそうな会社を経営していた祖父に渡していた事で。父から見るとおじさん少年の母である妻の父の借金を肩代わりする羽目になった事で、大嵐で吹き飛ばされた紙切れみたいに目の前から消えたのでした。

田舎県から首都圏の大学に行くためにはいったいどのくらいのお金がかかるのでしょうか、今ではおじさん少年が五回くらい大学を卒業出来るくらいの額の借金を当時の父が肩代わりして居た事はわかります。その成り行きは思い出せないし思い出したくないのでいいのですが、当然のように家庭内は連日すすり泣きと怒号まみれ。一家離散しなくてよかったね、ってくらい。

こうしておじさん少年の夢はもろくも崩れ去り、不本意ながら高校を出てすぐ働くことになりました。

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