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荻窪随想録22・西田たんぼ

昭和33年に荻窪団地ができた頃には、そのあたりには、もう田んぼはひとつも残っていなかったとしよう。
確かに、改めて子どもの頃のアルバムを見直してみると、まだ親に抱いてもらうこともできるほど小さかった時に、団地を背景にして私たちきょうだいと母親が写っているすぐ後ろにあるものはなかなか広い畑だし、ほかの写真でも、1人で草むらに立っていたり、まだ舗装もされていない田舎のような道を歩いていたりするものはあっても、田んぼらしきものがそばに写っているものは1枚もない。

そうなのか、やはり私が幼い頃に目にしていたものは水を張った田んぼではなくて、空き地や草むら、そして畑だったのだろうか。
でも、地図によればその数年後にも用水路はまだそのあたりに残っていたはずだ。その水際にでも立ったことのある記憶が、私の中では田んぼに変換されたのかもしれない。

それはともかくとして、団地が建つより10年ぐらい前には、荻窪には航空写真で見たとおりにまだけっこう田んぼがあった。
それは道や宅地をはさんで、大まかにいくつかに分かれていて、周りはすでに空から見ても住宅ばかりになっていたが、後に荻窪団地となるところは、見たところ一番大きそうな田んぼだった。

小学校の同窓会で出会った、81歳の活発な吉田さんによると、そういった飛び飛びの田んぼのことはそれぞれ、「1の田んぼ、2の田んぼ……」と呼んでいたそうだ。そして、小学生の時に田んぼでドジョウをつかまえて食べたこともあるという。
同じく同窓生の70代の林さんの聞き書きによれば、現在、図書館につながっている読書の森公園のあたりも、かつては「第3田んぼ」と呼ばれていた細長い田んぼだったそうだ。そこには、メダカやタニシがいたという。
だとすると、後に荻窪団地に変わる一番大きな田んぼが、きっと「1の田んぼ」だったのに違いない。
そんなふうに考えてみるとおもしろくなったが、そういった荻窪のいくつかの田んぼは、その同じ林さんの聞き書きによれば、だいたいのところ3人の地主のものだった。
その地主の人たちはみんな、当時の都市計画の要請で、次々と田んぼを手放していかざるを得なかったのだろうか。
あの頃はまだ、前だけを向いて発展していくことが望ましい時代だった。それが、躍動感や未来を感じさせてくれることだった。

さて、それら水田は、私の物心がつく頃にはもうなくなっていたとしても、昭和30年代生まれの団地っ子であった私たちにとって、やはり西田たんぼは存在していた。
それは、バス通りをはさんで団地の南側に広がっていたその空き地一帯を、私たち――団地の南端の10号館や、11号館に住んでいた子どもたち――がそう呼びならわしていたからだった。

どこからどこまでが空き地で、どこに畑があったのかということは、私の記憶では呼び覚ますことができない。けれど、同じく南に位置する田端神社に行く手前にも空き地があって、私たちは団地の中だけで遊ぶことに飽き足らず、時には神社の境内まで足を伸ばしたり、その空き地に行って遊んだりもした。
私が小学生の時の日記には、そのあたりのことを「西田たんぼ(あき地)」とか、「西田たんぼのあきち」などとして書いてある。
そこで季節によって凧揚げをしたり、草むらで虫取りをしたり、時には泥遊びをしたりした。

ある夏の日のことだった、田端神社の境内でみんなで遊んでいることに飽きて、裏木戸――団地の子たちから見たら正門――を抜け、その「西田たんぼ」に下りていったところ、雨が降ってから日が浅かったのでまだぬかるみがあって、大きな水たまりもできていた。加えてそこには、何百匹というなんなのだかわからない小さな羽虫が飛び交っていた。
ぬかるみや水面に止まっては飛び立つ羽虫たちはすごく気持ちが悪かったのに、そこいらにあった板きれや丸太を集めてきて、水たまりの上に渡していくつもの橋を作り――中には、石を並べて飛び石にしたところもあった――その上を渡ることにして遊び始めたらすぐにそんなことは忘れてしまい、私たちは何度もバランスを崩して、手を泥水の中にびちゃっとついたりしながらも、泥がはねてまっ黒になるまで遊んだ。
それでその後は、今度はすぐそばの保育園の手前にあった、動物の置物がある公園に行って、そこの水道で手足や靴下を洗い、靴下が乾くまで公園の中で遊んでいた。

というのは、その私の子どもの頃の日記に書いてあったことで、実はこの日のことは、私はほとんど思い出すことができない。またほかの日には、「西田たんぼ」で、アゲハや赤トンボをつかまえようとして奮闘したことが記されている。両ほうともあまりに高いところを飛んでいるので、全然つかまえることができなかったようだ。まあ、その時には虫取り網がなかったらしく、帽子でつかまえようとしていたせいもあったみたいだが。

でも、私が空き地に関することでよく覚えているのは、そういったことよりも空き地の向こう――さらに南の空き地をはさんで住宅のあるところ――である時、火事があったことだ。一軒家がだいだい色の炎に包まれて燃えていた。それを私たちは、大人も子どもも空き地のこちら側――すなわち、団地側――に集まって見物していた。火事に遭った人には悪いが、火の粉が飛んでくるような場所でもないし、熱さを感じるわけでもないし、まさに対岸でのでき事のようなものだった。私としては初めて見る火事だったので目をみはるばかりだったけれど、それほどに空き地はだだっ広かった。

それといつだったか、生まれたばかりの子猫を見つけて、学校に持っていくわけにもいかないし、うちに連れ帰るわけにもいかなくて、友だちといっしょに土管の中に草を敷いて隠しておいたのもこの空き地の一角でのことだったかもしれない。その子猫は翌朝にはもう動かなくなっていたが。

そして畑には、昭和30年代半ばの荻窪でも肥え溜めがあって、それは地面に樽を埋め込んだような形状の覆いのないものだったとのことで、そのぐるりをおもしろがって歩いていて落ちてしまった男の子もいたということだ。これは、兄や姉から聞かされた話だ。

その空き地も時が経つに連れてだんだんにバス通り沿いに店舗が建っていき、住宅も増えて、空き地である部分がせばまっていったと思われる。私は12歳の時にいったんこの地を離れているので、その変遷をつぶさに見ていることはできなかったが、いったん増えた商店が今は一時よりかなり減ったものの、バス通り沿いの向こうは、すっかりすべてが住宅地や整備された公園になっている。

なぜその空き地を「西田たんぼ」(あるいは単に田んぼ)と呼んでいたのかは誰にもわからない。
以前は田んぼだったところだから、あそこで遊んでくる、と親に言うと、「ああ、田んぼのところね」とでも答えたからなのだろうか。
でも、うちの両親は団地ができる前は荻窪には住んでいなかったし、そこが田んぼであったのをその目で見たことはないはずだ。はっきりした命名の由来は、かつての団地の子どもたちにとっても謎のままなのだった。

おまけ
「西田たんぼ」。後ろに見えるのは、荻窪団地の11号館
(その陰に10号館と、9号館の端っこが見える)。
撮影年:推定昭和37(1962)年。筆者所蔵。

※林さんの聞き書き
「永遠のいやしを願い」第Ⅳ巻―荻窪界隈 Communiity・生命共同体をめざして・心のよりどころ 第24版 (林貞敬 SH-the Publishing 2023.03.01)

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