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荻窪随想録17・西田端橋から大宮橋まで――善福寺川を下っていったら――

善福寺川の川べりの道を、水源まで遡ってみようという先日の試みは中途半端に終わってしまった。
でも、その続きをする前に、ちょっと久しぶりに、川沿いの道をたどる形で、川下のほうに行ってみたらどうだろうか、と思った。

川下なら西田端橋のすぐ次の神通橋から先が、延々と続く緑地になっているので、今でも桜の季節にはもっと下流のところから緑地に入って、桜並木を眺めながら散策することもある。それに、その緑地は、子どもの頃には日常的に遊びに行っていた場所だ。
とはいえ、その正面玄関のような神通橋から入っていったことは、小学校を卒業してからはたぶんないし、小学生の時に川に沿って一番遠くまで歩いていったことがあるのは、クラス総出、あるいは学年総出だったかで、先生、親子ともどもお弁当を持って数キロ先の和田堀公園まで――その頃には、そのあたりは大宮公園といった――だった。
なので、そこから後ほんの少し足を伸ばす感じで、平成元年にできたという、杉並区の郷土博物館を目指してはどうかと思った。

距離にすると、たぶん4キロぐらい。この間、善福寺池を目指して、途中で挫折した時の2倍になるけれど、自分の今の脚力のほどはもうわかったので、最初からそのつもりで行けば大丈夫だろうと思った。

というわけで、少し前のことだが、よく晴れた日の午後に西田端橋のたもとに立った。

よく見ると、西田端橋のそばでも、下流に向かってすぐの右側に赤いラッパのようなサイレンが高いポールの上に取りつけられていた。しかも、3つもついている。さらに後で気づいたことには、ここは河川の水かさを監視する24時間作動のliveカメラも設置されていて、誰でもいつでも、家にいながら川の水位をネットで確かめることができるようになっていた。それに護岸には白いペイントが引いてあるどころか、水がそこまで押し寄せてきたことのある証に、柵の近くとその下とで、護岸の石組みの色がまったく違っている。

私はかつてこのあたりに住んでいながら、自分自身のこととして体験したことがないので、この地域の水害のひどさがよくわかっていなかったのだ。

青空を背にして3方向に向いている赤いサイレンは、晴れた日に目にすれば気持ちよいけれど、雨が降りしきる中でこれが鳴り渡るのを聞くのは、どのような気持ちがするものだろうか。

しかし、そのような感慨に耽る間もなく、道はすぐに通行止めになってしまった。

立て札に、その先は工事中と書いてあった。それだけではなく、私道であるため、それより先は居住者以外の立ち入りは遠慮願いたい、ともなっている。確かにそうだろう、昔から人の庭先なんだか、川側に属するんだかよくわからないようなところだ。でも、子どもだった私たちはいつでも、右側だろうと左側だろうと、川べりを歩いて善福寺川公園――昔は、ここも今とは名前が違って、そう呼ばれていた――に遊びに行ったり、そこから帰ってきたりしていた。川を離れた舗装路からでももちろん行くことはできたけれど、そのほうが断然近道だったからだ。

それで、しょっぱなから気をくじかれたが、立て札にあるとおりに少し川から離れて、道を迂回することにした。今ひとつどこをどう行け、と書いてあるのか、その地図からはよくわからなかったけれど、要するにちょっと左にそれて、また公園のほうに向かい直せばいいんだろう、と思って歩いていったら、思いのほかすぐに、緑地の別の入り口に行き当たった。

ここは以前から、住宅地に囲まれたところにしては広大な敷地の、川に沿って造られた、自然にあふれる公園だ。土曜日だったせいか冬のさなかでも、ちらほらと人の集う姿があった。入り口を入って割とすぐにあった広場にある遊具で、親といっしょに来て遊んでいる子どもたちもいるし、ベンチに腰かけておしゃべりしている年輩の大人たちもいる。

その広場を抜けて、川のあるほうに戻っていって最初に出会った橋は、西田橋といった。橋の名もそのたたずまいも記憶にはなかったけれど、名前からして昔からあったと思われる橋だ。でも、その次に出てきた欄干を青く塗ったせきれい橋という橋は、名前からしてもその姿形からしても、いかにもかつてはありそうにない橋だった。そうやって、橋の名前に目を留めながら、川下に向かって左岸を歩み始めた。

しかし歩み始めるよりも早く、緑地に入ってすぐに感じたことは、昔と違って整備され過ぎている、ということだった。そもそも、足元の歩道が舗装されているし、行く先々には先回りするかのようにベンチが置いてある。歩道の脇の木々もちょうどいいといった感じの間隔で植えられていて、密集し過ぎてもいなければまばら過ぎてもいない。単に、都会の一角にある公園の遊歩道という感じだった。川べりにはステンレスの銀色の柵が張り巡らされ、縦格子に波をデザインしたようなうねりまでつけてあったけれど、ほぼ開園したてのもっと野性味のあったこの公園を知っている者の目からするとなんだかおしゃれ過ぎる。

近年お花見をするために、もっと川下のほうから緑地に入る時には、そんなことをいちいち気にしたことはなかったが、改めて緑地の最初から歩こうとしてみると、なまじ子どもの時によく来ていたあたりだっただけに、人工的になり過ぎた部分が気になった。

そこで、なるべく足元が落ち葉だらけの、遊歩道の脇の、木を植えられた部分を好んで歩いていくようにしていたら、枯れ葉の下の地面のわずかなでこぼこに足を取られて、思わず足首をひねりかけた。
危なかった。確かに自分は子どもの頃から何度も足首を捻挫しているけれど、これはやはり筋力が衰えているのでは。そう思って、しかたがないからその後は、舗装路のほうを歩くようにした。

ということは、都市計画としては、たとえ自然を味わうために造ったところでも、歩道を舗装するほうが正解なのだろうか。これからは私も含めて高齢者が増えていくいっぽうだし、高齢者には、無理なくいつでも散策できる足にやさしい場所が必要なのだから。

などと思いながら歩き続けていたら、やがてなじみのある相生橋(あいおいばし)に出た。ここが、ふだん私がお花見をする時に、阿佐ヶ谷の住宅地を抜けてやってくる緑地の入り口だった。しかし、けっこう歩いてきたつもりなのに、まだそんなところまでしか来ていないことに驚いた。腕時計に目を落とすと、すでに歩き始めて30分は経っている。やはり川は曲がりくねっているので、川に沿って歩いていこうとすると、目的地までにかなりの遠回りをすることになる。

そのすぐ先に、橋と言うよりも、おそらく拡幅を重ねてもはや広々とした車道と化した尾崎橋が出てきて、その手前の右側には、「杉二小(杉並第二小学校)前広場」、とポールに書かれた、丸裸に等しい広場があった。ほぼその広場に面する形で、コンビニのミニストップが立っているので、橋を渡ってミニストップに立ち寄り、みたらし団子を1パック買って、それといつも持ち歩いているボトルに入れたお茶とで、遅いお昼ご飯にすることにした。
しばし広場のベンチに腰をかけると、陽射しが顔に照りつけてまぶしかった。このあたりで唯一であるこのコンビニは、お花見の季節には、多くの人にとってまさに峠の茶屋のようなお助け的存在であることを私は知っている。近くのすべり台のような遊具で、おじいさんが孫らしき小さな男の子を遊ばせていた。

ふたたび腰を上げて左岸に戻って歩いていくと、橋をいくつか過ぎたあたりで、子どもだけが遊べるという、運動場風の「子どもの広場」というのに出会った。そのまたすぐ次に、今度は「ヒコーキ広場」と書いたポールの立った、やはり子ども向けの遊具がいろいろとある広場に出くわした。
ブランコ、鉄棒、砂場など、もれなくそろっているけれど、目玉は、赤・青・黄色に塗られた飛行機形のジャングルジムらしい。中心部にはちゃんと、子どもが座れるような小さな椅子もついている。私にとっては初めて来るところだったが、ここがすでに子ども時代のなつかしい思い出の場となっている人たちがいることは、ネット上の書き込みで知っていた。確かに子どもの頃に来ていれば、強く記憶に残りそうなところだ。親に伴われてなだけではなく、自分たちだけで遊びに来ている子どもたちもいた。

でも、そこまで歩いてくる前からとっくに気づいていたけれど、今の善福寺川緑地に、私がなつかしいと思うようなものはひとつもなかった。50年も経っているのだからあたりまえと言えばあたりまえだが、同じ自然を活かした公園でも、その50年ほどの間にすべてがもっと人工的に造り変えられていた。
だいいち、川が遠く感じられた。川に沿って歩いていても、以前ほど近くには、あるいはそこに川があるのが自然なこととしては川を感じられない。かつてここに来て、いちいち橋の上から川をのぞき込むようなことはそんなにしなかったと思うが、橋の上から見下ろす川は距離的にも遠くにあり、左右の水際にコンクリートの垂直な棒杭のようなものを張り巡らせ、その上に平たい石材の台を載せたような岸がある川の姿は、まったくの造り物にしか見えない。たとえ以前はいなかった鴨がそこに泳いでいたとしても、あまり味気があるものとは言えなかった。

その次には白山前橋という橋があり、そこから先も、同じように緑地が続いている。でもそこからは公園の区分が変わって、和田堀公園になるとのことだった。私は目的地があるので変わらにず歩き続けた。ところが、またすぐに工事現場に出くわしてしまった。
赤いコーンと、ヘルメットをかぶった作業員がお時儀をしている姿が描かれた、よく見る「ご協力をお願いします」の立て札とともに、矢印で迂回路が示されている。川べりのほうは白い板囲いで蔽われていてまったく通れなかった。このあたりに常に散歩に来る人たちは慣れているようすで、矢印の示すとおりに脇にそれていった。私もそのとおりに進んだ。

決して川べりとは言えない車も通る普通のアスファルトの道を、囲いに沿って歩いていったら、やがて前方に、なんだか時代を感じさせる安普請のお食事処が出てきた。後で調べたことにはそれは昭和の時代から続く釣り堀だったのだが、うっかりそちらに行きかけてから、スマホを取り出してGoogle mapで調べ直し、川と思われるほうに戻っていった。板囲いで蔽われているので、どこに川があるのかわからなかった。

そうしたら、ようやく左手に、小学生の時に一度だけ来たことがある和田堀池が現れた。

やっとここまで来たか、と思ったが、残念なことにここも池の水を抜いてぬかるんだ底をさらしていて、本来の姿ではなかった。ただそれは、池の底に溜まってどろどろになった土に、ふたたび酸素を入れ込むためなのらしい。せっかく50年以上ぶりにやってきたのに、と思いもしたけれど、実のところ、その50年ほど前にも、ここは水の入っていないただの草っぱらだった。みんなでそこを走り回って遊んだ。
今度こそ、水の張った池を見られるかとちょっと期待していたのだが、水を抜いておくのは3月までということなので、その気があればまたいつか来ればいいだろう。柵の向こうの中之島には木が生い茂り、その木の枝のどこかになにかの鳥が止まっているのか、人々が立ち止まって見入っていたが、私にはどこになにがいるのかわからなかった。

川を遠ざけている板囲いに貼ってあった説明によると、ここの河川工事は令和9年まで続く、ということだった。令和9年といえば、まだ後3年後。しかもここの工事は、それどころか去年よりも以前から始まっていたようで、出だしの神通橋といい、ここといい、要するに、善福寺川というところは、常にどこか工事中で川沿いを歩き通すということはできないのではないか。

そのまた先、囲いのようやく切れた後で、八幡橋と名づけられた、きれいな朱塗りの小さな橋に出会った。それを向こう側に渡れば、大宮八幡に通じるらしい。橋を渡った先の木立の向こうに、赤い鳥居の上が見えている。その大きな八幡様には別の道を通って、これまでにも何度かお参りに行ったことがあるけれど、この橋の存在は知らなかった。橋の親柱を見ると、令和3年の完成となっていた。

なおもその先に歩いていくと、左手にまたブランコなどのそろった子どものための公園があって、次には区民に開放していると思われるグラウンドが出てきた。グラウンド内を何周も走っているらしい人の姿が見えた。そのまた先には、フェンスの向こうにだだっ広い野球場が広がっていた。そういった左側の景色は横目で見つつ、内心、まだ着かないのだろうか、と思いながら進んでいった。とにかく川沿いに歩いていって、大宮橋という橋のあるところで右に曲がれば目的地に着くのだということは、家を出る前に調べてあったからわかっていたけれど、初めて歩くところでもあるので遠さを感じていた。

ようやく八幡橋からもう二つ橋を越えたところで、その目印である大宮橋にたどり着いた。そこで橋を渡って右側に行き、また川沿いに後少しだけ細い道を進めば、そこから右に入ったところに郷土博物館があるはずだった。橋を渡る前に、川沿いの柵の下に取りつけられた里程標を確認すると、源流から8.7キロとなっていた。やはり、西田端橋からはほぼ4キロの道のりだった。疲れたというほどではなかったけれど、歩き始めてすでに1時間半は越えていた。

それでも歩いているうちに筋肉痛を感じるなどという、自分でもびっくりするような前回と同じ症状はなかったので、いくぶんほっとして、ともかく橋を渡って郷土博物館に向かった。博物館の手前にも、サイレンを取りつけた高いポールが立っていて、枯木立を背にして傾いた陽射しに照り映えていた。そのすぐ横の掘り下げたところにテニスコートがあるのは変わった造りだと思ったが、それは川が増水した時に、そこに一時的に水を溜めることができるようにするためだということだった。

善福寺川の流域には、いつの間にかそういったいくつもの、水害対策のための施設ができていた。通り過ぎてきたばかりの野球場も、その横に立っていた案内板を読んだところでは、いざとなったら川の水を引き入れるために使うことができるのらしい。ふだんはスポーツに利用できて、緊急時には水を溜めることができるというのはすばらしいアイディアだとは思うけれど、そうまでしてもまだ新しい洪水対策の施設を造りたいというのはどういうわけだろうか。

善福寺川を川下に向かって歩いていく試みは、なんだか川べり歩きというよりは、ただ緑地の中をいろんな広場を見ながら巡っていくような感じだった。そしてその緑地は、私の心に残っているものとはずいぶんと様相が変わっていた。自分には、まだまだ見えていないことがたくさんありそうな気がする。以前とは違う目的で、ここにたびたび来るのもいいかもしれなかった。


おまけ
大宮公園(現和田堀公園)の水を抜かれた池でバレーボールをする小学生の子どもたちとその親(つまりは、私のクラスメートと、そのうちの誰かのお母さん。先生には見えないので)。
撮影年:昭和43(1968)年 筆者所蔵


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