NOと言う修行 その1

若い頃の私は、極度にNOと言えない人間だった。そのせいで、たくさんの時間や労力を無駄にしたし、そのことからくるストレスとは知らずに、自分や相手に対して、ものすごい怒りや怨念を抱きながら過ごす時間も長かった。

もっとも、女性で相性の良くない人とは、自然に距離を取る方法をかなり若くから身につけていたように思う。

多くの場合、問題となるのは男性で、特にあまり親しくない人や突然関わってくる人を実際的に、そして精神的にどう回避するかは積年の課題だった。

というか、「積年の課題」なんて課題設定できる地点まで行ってない時の方が圧倒的に長く、ただただそれまでの思い込みに基づいて、ドツボにはまるようなことばかりしていたのだった。

例えば、職場の先輩に好意を出されて、それをうまくあしらえないでいたら肉体関係になってしまい、その後に告白されて、それをはぐらかしていたらキレられる、なんてこともあった。

今の自分からしたら、もうどの時点での判断も「ありえない」の連続なのだけど、当時は仕事帰りに自宅までついてきた先輩に対し、「断ることで生じる不快感を感じるくらいなら、サクッとやってしまった方がマシ」とか考えていたと思う。

NOというべき時にちゃんと言えないから、もっと言えば、NOと言わざるをえない状況になる前にちゃんとコミュニケーションできてないからこういう事態になっているのだけど、それをちゃんと理解して対処できていないために、男性に対しての不満が募るばかりだった。そして、その不満を女友達に愚痴ることで、さらなる時間と労力の無駄遣いをしていた。

この状況を打開し始めたのは、海外に出てからだった。というのも、私の行っていた国々では、知らない人に話しかけられる回数が多く、NOをはっきり言わないと、本当に実際的に困る状況になることがありすぎたからだった。

例えば、忙しく動き回った後にホッと一息つきたくてカフェに入っても、妙に親しげに話しかけてくる男性がいて、無下にするのもなんだからと思って相手をしていると、全くホッと一息つけないまま、話を切り上げて帰るタイミングだけを考えながら時間が経ってしまう。

雰囲気の良いホテルのビュッフェで晩御飯を食べようと、ウキウキして食べ物を選んでいる時なんかも、ビジネスマン風のおじさんが話しかけてきて、結局同席して食べることになってしまい、食べ放題なのに全然お替わりできずに終わる、なんてこともあった。

こういう出会いから恋愛に発展する人もいるのかもしれないけど、私の場合は単に相手の暇つぶし、もしくは国際ロマンス詐欺まがいや一夜限りの体目当てと思われるロクでもない出会いしかなかった。

実際、そうやって出会った人々の顔や名前や話した内容なんて、今や1つも覚えていない。

そういう不快な出会いがあまりにも多く訪れたことにより、さすがの私でもNOと言う回数が増え、そのハードルもどんどん下がっていった。

最初は相手に嫌な反応をされるのが怖かったし、どう伝えればいいのかよくわからずに困ることもあった。でも、回を重ねるうちに、その都度自分の中で「今、最もしたいことは何か」を問いかけてみて、その相手といることは自分のしたいことじゃない、と自覚できるようになっていってからは、大方スムーズにNOと言えるようになっていった。

海外にいることで、自分の知る限りのシンプルな語彙でしか話せないのが、また良かった。「私はこれがしたい、だからそれはできません」「私は〇〇をします」とか、そんな風にしか伝えられないからこそ、自分の中の本当の要望に気づきやすくなったし、スタンスを明確にすることの訓練になったと思う。

一概には言えないにしても、私の経験と感覚から言って、日本で過ごしていると、親や学校から「従順である」ことや、周りを「察する」ことが推奨されすぎる一方、自分がどうしたいのかといった、自分のスタンスを明確にする訓練をする機会が少ないのではと思う。それに加え、エンパスな人は相手の要望がわかりすぎて、自分のスタンスが不明瞭だと相手のペースに取り込まれがちになってしまうように思う。

そんな私だったが、「NO」と言う修行を繰り返すうちに、その都度の自分の感覚だけでなく、そもそも「知らない人に馴れ馴れしくされること自体が嫌」という、根本的な自分の性質をようやく自覚するに至った。

それは、親や学校から受けた従順教育と、自己卑下をよしとするような空気感によって、認めてはいけないと無意識に封じ込めていた性質だった。

誰でも、周りに嫌われるとか一般的には悪い性格とされているからといった理由で封じ込めている性質があると思うけど、私の場合は自分の中の「気位の高さ」的な部分が認められなかったんだと思う。

信頼できる筋からの紹介もない上に、アポなしで私に近づいて私の時間を奪うなんて無礼千万、くらいの気持ちが私の本音なのだと思う。そこが、「人から頼まれたらなるべく助けるべき」とか、「人を見た目や雰囲気で簡単に判断してはいけない」とか、そういう刷り込みによって埋もれて自覚できなくなっていた。

それがわかってからは、ますます見知らぬ男性や馴れ馴れしい人に対して、自分が必要と思う以上に話を合わせたり愛想をよくすることがなくなった。

そうしているうちに、知らない人から馴れ馴れしくされる機会自体が減ったように思えた。実際に数を数えている訳ではないから、気持ち的な問題なのかもしれないし、年齢的なこともあるのかもしれないけど、自分的な不快指数が激減したことだけは事実だ。

それに伴い、私のスタンスとか、纏っている空気感みたいなものも変わり始めた感覚があった。なんというか、関わる人や選ぶ店などがより厳選されて、今までの自分なら、「どうせ私なんて」と敬遠していたような、しっかり者の人たちや、より高級なものとの関わりが増えていったように思う。

そうしたら、移動中や旅先でも、馴れ馴れしい人ではなく、サクッと親切にしてくれてサッとその場を去っていくような紳士との出会いが増え始めたようだった。

そういう人たちは大抵自分の仕事や用事で忙しいので、その時に相手に必要で自分の実行可能な範囲の最善の親切を的確に行い、ハートが一瞬、一期一会な感じに繋がったら、またすぐに次のやるべきことへと移っていくのだった。

それに加え、職場や学生時代や親族のつながりで、自分の信頼する人経由での出会いも少しずつ増え始めた。でも、これも数えていた訳ではないから、単に自分のフォーカスする場所が変わっただけなのかもしれない。

その最終形態が夫との出会いで、夫とはお互いの所属先関係の、目上の人同士の繋がりで知り合った。

夫と私のどちらにとっても、その目上の人たちは人格者で、尊敬できる人物で、立場上お互いに不誠実なことや無礼なことは絶対できない状況にあったし、経歴詐称や身分の偽証などを疑う必要性も全くない出会いだった。

言うなれば限りなくお見合いに近い出会いなのだけど、そういう出会いを悪くないと思える自分に気づいたのも不思議だった。若い頃は少女漫画に洗脳されていたから、ハプニング的とかドラマチックな恋愛以外の出会いなんてなんの面白みもないと思っていたからだ。

でも、今は、自分の世界外からの奇跡的・ハプニング的な出会いを求めるよりも、自分の半径5メートル?くらいの人間関係や人脈を、自分の本当に望む形に整えておいて、そこから出会いが繋がっていくのであれば、それで良いのではと思っている。自分が構築し大切にメンテナンスしている世界から生み出された出会いならば、何かしら自分にとって良きご縁に違いないのではと思うのだ。





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