引き寄せとくじ運

私はくじ運が良い方だと思う。生まれる前からその才能を発揮していたらしく、母が私を身ごもっている時に当てた皿(サイコロの出た目の数だけもらえるというくじで、maxの6枚当てた)は今も実家で現役で使われている。それ以外にも、ハワイ旅行、折りたたみ自転車、一斗缶のサラダ油など、そのくじの最上位や2番目くらいの賞を当てたりもした。

大体は、商店街の歳末ガラポンとかそんな感じの、そこまで大規模ではない地元系のくじだったけど、幼い頃には母が私の名前で応募したドラえもんふりかけの四次元ポケット缶が届き、スモールライトがただの懐中電灯だったことにガッカリした覚えがある。

この記事で、「この方法をすれば皆くじ運が良くなります!」とか、そういう必殺技が書ければいいのだけど、「くじを当てる」ってそういうことではないと思っているので、書けない。というか、「くじを当てる」という表現も正確ではなくて、「くじが当たる」の方がより正確だけど、完全に的確な表現とも言えない。まず、前提として、くじのことなんて普段全然考えてないし、くじの券をもらう為にわざわざ買い物することもない。そういう、くじに関して全くの無関心な初期設定モードがあるのだ。

そして、なぜか流れで私がくじを引くことになる。抽選券をもらったり、目の前に突然くじが現れて、ふとやってみようと思う。やってみようとは思っているけど、別に特定の景品が欲しいわけでもない。願望になる前の前の段階くらいのフワーッとした「なんとなくいい感じ」を感じていて、その流れに乗って体が勝手に動いて、そうすると、そのくじの中の割と良いめの景品が私の目の前に現れる。

だからといって、もらった景品が別にすごく必要だったり欲しかったものというわけでもない。ハワイ旅行は日程の都合がつかず、親戚にあげてしまったし、折りたたみ自転車も半年ほど使って友人に譲ったし、一斗缶の油なんて到底使いきれないから、家族がどうにかして周囲に配ったのだろう。

だから、くじが当たっても、なんとなくの「必然感」はあるのだけど、飛び上がって喜ぶほどのこともない。然るべきタイミングで然るべき場所で、何かを右から左へ移動させただけ、みたいな平坦な感覚がそこにはあるのだ。

おそらくだけど、このフラットな感覚をあらゆるジャンルにおいて保てる人がいたら、その人の人生は素晴らしく順調で、平和で、静かな幸せに満ち足りていると思う。でも、大体の人は何かしら不足感を感じていて、切望したり、時には望むことすら自分に禁じていて、屈折した感情や感覚や信念体系が絡まって、結果的に貧しさとか不幸感とかを感じるのだと思う。私も、くじなんていう、どうでもいいジャンルについてはフラットでいられるけど、そうじゃないジャンルがたくさんあるし、常に何かしら望んでいるし求めている。

この記事で言いたいことは、「開運とか引き寄せに躍起になるよりも、こっちのモードがオススメなんですよ〜」ということなんだけど、いかんせん言語化が難しい。

なので、もう一つ「引き寄せ」っぽいエピソードを書いてみたいと思う。

私は、猫を引き寄せたことがある。

猫は、職場の、私以外誰もいないオフィスに、残業中の夜8時過ぎ、突如として出現した。

そのオフィスにたどり着くためには、割と厳しめのセキュリティを通らねばならなかったし、上の階だったし、窓を開けていることもほとんどなかったし、人の出入りもすごく限られていたから、普通なら絶対ありえないシチュエーションだ。

最初は錯覚かと思うくらい実感がなかった。

でも、猫はいつの間にか私の机の1.5メートルくらい手前に立っていた。そのくらい接近されるまで、パソコンをみていたから全然気づかなかった。

私がようやく猫を猫と認識した瞬間、猫は一目散に逃げていった。

慌てて廊下に出てみたけど、もうどこにもいなかった。

その日は狐につままれたような気持ちで残業を続けたが、猫のことが気になって集中できなかった。もし猫が建物内でさまよっていたら心配なので、翌日セキュリティのおじさんに伝えに行った。

おじさんによると、他の人からも猫の目撃談が寄せられていたそうで、とりあえず自分の幻覚じゃなかったことに安堵した。

後日、おじさんから、猫は給湯室の排気口のような場所が壊れていて、そこから入ったようだと教えてもらった。猫はちゃんと外に出されて、もう入ってくることはなかった。

しかし、それから1ヶ月くらい経って、職場の敷地に子猫が現れた。猫好きスタッフ数名で子猫の世話をすることになり、連休中はスタッフの家で持ち回りで飼うことになった。

私も何日か子猫を預かって、フワッフワな感触を十分に堪能した。

私の猫欲が十二分に満たされたころ、猫はしかるべきところにもらわれて行った。そして、なぜ私のもとへ猫が引き寄せられてきたのかはすぐにわかった。

そのころの私は色々と疲れていて、猫を渇望していた。でも、定住して猫を飼える環境ではなかったので、とにかく猫の写真を携帯に保存しまくり、仕事の合間などに眺めては癒されていた。

ポイントはここで、「渇望している、でも、猫を飼うことは完全に諦めている」というところである。

渇望している時って、だいたいは不満につながりやすくて、例えば、「結婚したい〜 なのにいい人がいない〜 婚活つらい〜 独身つらい〜」とかになりがちだ。今あるものだけに完全に満足して感謝していられることってあまりない。

猫の場合は、飼うことは最初から完全に諦めていたから、写真で十分に癒されることができていたし、それ以上は望みようがないと思っていた。それに、渇望とはいっても、猫を好きという気持ちは割と純粋な推し活よりのものだから、猫に対して歪んだ感情など持ちようもなく、そういう部分でのエネルギーの無駄遣いというか分散もなかった。

そして、猫が自分の手元から離れていくことに寂しさはあっても、猫が幸せでいられればそれが一番と思えるのも、執着というエネルギーの無駄遣いもなくてまた良いのだった。

と書いてはみたものの、今も成果や承認や達成や報酬という概念に絡め取られまくりで、胸を締め付けられながら生きているのだけれども。ああ、どうか少しでもフラットな意識でこの世の仕事を成せますように。



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