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もしも世界に不思議があれば

うちの母方は、長崎県の平戸島、いわゆる奥平戸なんて呼ばれる辺りの出身なのですが、母が昔、祖母から聞いたという話になかなかおもしろいものがありまして。

ひとが死ぬと、黄泉路の旅の途中、竹藪が続く場所にさしかかるのだそうです。その竹藪を、なぜか亡者は指で掘りつつ進まなくてはいけないらしいのだそうで、それはもう辛いらしい。
が、生前猫を可愛がっていると、その猫が現れて、一緒に竹藪を掘ってくれるのですって。
すると死者は、少しは楽に竹藪を抜けて先に進めるのだとか。

亡者が竹藪を指で掘る、ってどういうシチュエーションなのか、なぜ竹藪なのか、あるいは贖罪みたいな意味合いもあるのか、微妙にわからないのですが、何しろ母が大昔にいまはなき祖母から聞いた話ですから、今となっては細かいことはわかりません。
そもそもこれは民間伝承なのか、祖母がどこかで聞いたり読んだりした話なのか、はたまた祖母の空想、あるいは創作なのか。
何もわからないままに、ただ、祖母が語った話、として存在しているお話なのでした。

雰囲気としては、アジアの民話にルーツがありそうな感じ(黒潮に乗ってやってきたお話っぽい)なので、図書館の民俗学の本などで調べてみようとしたことはあるのですが、そのときは似たような言い伝えなどは見つからず。でも活字になっていないからといって、祖母オリジナルの空想だと言い切ることも出来ず。

なんだか、あったかいほのぼのとしたお話で、古い伝承として、信じたいような気もしています。
だって素敵じゃないですか。黄泉路についてきてくれる猫。
西洋風に、天国のそばの虹の橋のたもとで待っていてくれて、飼い主の死後、一緒に橋を渡り、天国に行ってくれる猫というのも憧れですが、ともに行く手の困難に立ち向かうアクティブな猫との再会というのもドラマチックで盛り上がるような気もします。

そして思うのは、こういう言い伝えが馴染むのはやはり猫なんだなあということで。
黄泉路には犬は現れないような気がします。犬がひとに尽くすのは生前のことで、猫は死後、あるいは化けてあやかしとなって、飼い主の恩に報いるイメージが。有名な佐賀の化け猫の話とかもそうですね。
猫は犬に比べて多く非力なので、化けでもしないと強いものになれないだろうという考え方もあるのでしょう。また、日本においても諸外国においても、猫は、現実世界に存在しながら、魔物に近いものとして、なかばファンタジー世界の生き物のような扱いをされることが昔から多いように思います。

さて、私自身は実は、昔から、オカルト的なものは、面白がりつつ、憧れつつも、半分しか信じないようにしています。意識して信じ過ぎないようにしようとしているというか。逆に百パーセントの否定も避けるようにしています。
子どもの本の専業作家だった時代が長いので、自分の考えが子どもたちに影響を与えかねないから気をつけていなくては、といつも思ってきました。それがいつか、身についてしまったスタンスのような感じですね。

世界には人知では計り知れないような、不思議や奇跡がたくさんあるといいなあといつも思っています。それならば、死後も意識は消えず続いて、魂もあって、肉体が滅びても永遠に生きていくことはできるのだと信じられそうな気がしますもの。
それならば、逝ってしまったさみしがり屋の父親と再会して喜ばせてあげたり、これまでに死なせてしまった代々の猫たちと再会して、ぎゅーっと抱きしめたりできるなあ、なんて思えますから。

ただ、いくら信じたくても、オカルト的なものを安直に信じたり、信じ込んで世界を単純すぎる目で見るようなことだけはするまいと思っています。
一方で、意識が清澄なときに、何の疑いようもない不思議な出来事に遭遇したら――心置きなく、不思議を信じて、ああ良かった、と喜べると思っています。
ファンタジー世界を描く作家でありながら、思考はリアリストよりだということなのでしょう。

さて、そんな私なのですが、猫がらみの不思議な体験、実はあるのです。それもちゃんと意識も冷静さもある状態で複数回、経験したことでした。

あれはもう、四十年も昔のことになりますか。
長崎市の坂の上の町のアパートに、母と弟と三人で暮らしていた時期がありまして。
私は高校生、弟は小学生でした。
当時、父は硫黄島の基地に単身赴任していて、それが終われば、一家で関東に戻る予定だったので、仮の住まいとしてアパートに住んだのです。
結局は父が体を壊してしまい、それをきっかけに関東に戻ることはやめて、長崎市(村山家の本籍地でした)にマンションを買い、落ち着くことになってしまったのですが。

その坂の上の、いかにも長崎らしい坂道と石段のそばにあるアパートの周りには、いかにも長崎らしく猫たちが自由に歩いていまして、そのうちの一匹の若い白猫が、我が家を気に入り、出入りするようになったんですね。
我が家でごはんを食べ、昼間は部屋の近くでくつろいだり、トカゲと遊んだり。夜は布団で眠ったりしていました。
冬の日に、うちに泊まりに来ていたいとこと猫が、同じ枕に頭を載せて眠っていた寝顔を覚えています。やはり冬の日に、アパートの鉄の階段の踊り場で、その猫とふたり、星空を見上げて星座を探したりしたこととか。

昔のことですから、ごはんといってもいわゆる猫まんま、白いごはんに鰹節をかけて、お醤油をたらして混ぜたもの。それにソーセージとか。今の常識ではあり得ないようなご飯ですが、美味しい美味しいと食べていた顔も覚えています。
というか、思えば我が家は猫が出入りする状態でアパートに住んでいたんだなと、振り返ると、大らかな時代だったんだなあと思います。
今の常識からすると、ちょっとあり得ないような話なのですが、まあ、遠い昔の話ですから、ご寛恕ください。

その猫は、全身真っ白な綺麗な猫で、目は青く、尻尾が短かったと思います。今思うと、まだ一歳か二歳にしかならないような、ごく若い猫だったような気がします。
首輪のない雄猫で、だけど、アパートの庭で、私と弟がその猫と遊んでいたら、近所の子どもたちが、その猫は誰々さんとこの猫だよ、と教えてくれたことがあるので、飼い猫だったのだと思います。
実際、その猫は、野良猫にしては人なつこくて優しかったですし、私が首輪をつけてやったら、外されて帰ってきたこともありました。
そうそうほんとに優しくておっとりとした猫で、喧嘩には弱かったですし、よそのうちの屋根の上に上がって降りられなくなって、助けてあげたこともありました。
弟がいちばん可愛がっていて、おいちゃん、と名づけて読んでいました。弟は私より猫が好きなのですが、彼が猫好きになったのは、おいちゃんとの出会いがあったからだと思っています。

さてそのおいちゃんですが、私にとても懐いていました。私の膝の上に座ったり、丸くやったりして、私の顔を見上げるのが好きな猫でした。
ここでその、猫がらみの不思議な体験の話になるのですが――。

我が家は最初の頃は、なるべく彼を部屋に入れないようにしていたんですね。借家のアパートですし。本来はうちの猫ではないですし。
彼が来ても玄関のドアや、お風呂場の窓を閉めていたら、中には入れません。
が。彼はある日、アパートの庭に植えてある柿の木に登り、その枝から、窓の柵に向かってジャンプしてぶら下がる、というアプローチを閃きました。
前足だけで柵にぶら下がっている彼を引っ張り上げてやらないと、地面に落ちるので、こちらは慌てて窓を開けます。おいちゃんは首尾良く部屋の中に入ることが出来たのでした。
その繰り返しの内に、普通に部屋に上がり込む猫になったのでした。

不思議だったのは、おいちゃんが窓に向かってジャンプする前に、いつも必ず、私以外には聞こえない猫の声が、私には聞こえていたのです。
それが、耳に聞こえるのとは違う、はっきりと頭の中に響く声でして。
「あ、おいちゃんが来る」と思って、窓の方を見ると、すりガラスに白いからだが映っているのでした。

この体験が、何しろ一度や二度のことではなく、普通に繰り返されていたので、あれは一体何だったんだろう、と今もたまに思い出します。
昔は耳が良かったので、猫の発する、超音波のようなものが聞こえていたのかなあとか。猫は、母猫を呼ぶときに超音波で呼ぶ、もいう話がありますし。
でもあの独特な、頭の中に響く声は、いわゆるテレパシーみたいなものだったようにも思えたりして。猫には人間のそれのような言語がないので、想いを伝えようとしても、にゃー、という叫びにしかならなかったのかな、なんて。

後にも先にも、頭の中に聞こえる不思議な声で呼びかけてきた猫は、おいちゃんだけでした。
そんなおいちゃんでしたが、我が家が長崎市内のマンションを買い、そこで暮らすことになったので、お別れになりました。
引っ越しの準備が進む内に、彼は哀しそうな怯えた顔をするようになり、かといって、よそさまの家の猫を連れていくわけにもいかず。
すっかりやつれてしまった彼と、私たち一家はお別れしたのでした。
引っ越した先は、彼の縄張りからは遠く、間に車通りの多い道路もあり、人間の側からしたら、仕方のないお別れだったのですが、猫目線からしたら、家族から捨てられたのと同じだったでしょう。

あれは引っ越しからどれくらいたった頃でしょうか。
アパートのそばに、おいちゃんを探しに行ったかとがあります。
おいちゃんは名前を呼ぶと、どこからともなく出てきました。痩せてやつれて、表情が別の猫のようになっていました。
私にすり寄ると、いきなり腕に噛みついて、そのままどこかに駆け去って行きました。

そのときまでは、噛んだりひっかいたりすることのなかった、優しい猫でした。
腕の傷はその後腫れて、いつまでも痛みが残りました。

あの白猫と出会ったのも別れたのも、遠い昔のことですから、彼はとっくの昔に死んだのだろうと思います。
もし、世界に不思議や奇跡があるならば、いつか虹の橋のたもとや、黄泉路の竹藪のそばで、私はおいちゃんと再会することがあるのでしょうか。
ほんとうには我が家の猫ではなかったけれど、彼目線ではきっとうちの猫だもの、我が家の猫たちとともに、並んで会いに来てくれるのでしょうか。
そのときは、にゃー、ではなく人間の言葉で会話ができて、あのときの別れのことをきちんと詫びることができたりもするのでしょうか。

もしも世界に不思議があれば。

*素敵な白猫のイラストは、みんなのフォトギャラリーからツキシロさんのものをお借りしました。ありがとうございました。

いつもありがとうございます。いただいたものは、大切に使わせていただきます。一息つくためのお茶や美味しいものや、猫の千花ちゃんが喜ぶものになると思います。