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わたしが巡礼に出る理由

この前、京都鞍馬寺の山道を息を切らせながら、一人で登っていた時、やっぱり巡礼って好きだなと思った。

わたしは、巡礼が好き。

誰しも、聖地と呼ばれる場所をひそかにもっているような気がしている。

私にとっての聖地ってなんだろう。

という前に、巡礼がなぜ好きなのかに思いを巡らせる。

先日、所用で関西まで行き、子どもたちが、「たまにはお母さん居ない方がいい」オーラを出してきたので、せっかくだから、京都に泊まることにした。

ホテルの近くでなんとなく気になったバーの扉を、数分悩んだ末に、開いたら、楽しすぎて、閉店までいた。

最初入ったものの、洋酒やカクテルしかなくて、私が飲めそうなお酒がなさそう、でも、カウンターには、私好みの、可愛いぬいぐるみやミニチュアの置物がいろいろ置いてあったり、カバンが販売されていたり、全体として、わたしの好みのセンスだった。

自分好みのお店に行くのって大事。

だって、自分が好きなセンスの店に行くと、そういうの好きなお客さんが集まるわけで、実際、その日時間差で何人か来られたその日のお客さん、すべて個性的で素敵な雰囲気だった。

洋酒も、よく考えたら、ラム、キルシュ、コアントロー、アマレット、お菓子を作るのに、うちの工房にあって、今まで材料として身近だったけれど、飲みものという発想はなかったな。そのお店で飲んでみたら、意外と美味しくて。そもそも、洋酒は、お菓子の味をワンランクアップさせるアイテム。 ウオッカとかジンとかブランデーも果物を加工する時使ってるな。

桜餅の香りがするズブロッカだって!

独身時代、図書館で働いてたとき、女子力の高いダンシ司書や個性的な司書仲間とかと、バーで洋酒飲んでいたのを思い出した。わたしはグラスワインとか、ビールとか、日本酒、焼酎、甘くないカクテルとか甘くない系全般、洋酒以外なんでも飲んでた。その時代は、仕事して、しょっちゅうストレス解消のため、飲みにいって、甘い酒が飲めるかと、けっこうおっさんみたいな生活してた笑 

だいぶ脱線したけど、わたしは翌日、長尾天満宮の祝福ライブに行く前に、そこから近い伏見稲荷神社に行く予定をなんとなく立てていた。

伏見稲荷神社は、うかたまさまがおられるし、上のお山には、眼力社さんという、これまたわたしの好きな神さまがおられるから、久しぶりに行こうかなと。

そうしたら、バーの隣に座ったお客さんが、以前鞍馬寺に日本酒をペットボトルに入れて持って行って、飲みながら歩いてたら、「あのもしかして、神さまですか?」って、スピ系界隈と思われる感じの人たちに声かけられた、っていう話になって(笑)。

「ね、これ、明日伏見稲荷じゃなくて、鞍馬寺に行くってことちゃうん?」って伏見稲荷に行くという話を先にしていた私に、バーのママがそう言った。

ちょっと話を端折ったけど笑!

鞍馬寺。
そういえば、小さい頃、両親と鞍馬寺から貴船神社まで歩いたきり行ってないわ、と思い出して。

時間をなんとなく計算して、貴船までは行けないけど、鞍馬寺行けるとこまで行くか。わたしは予定を変えることにした。

何かの「前兆」のようなものがおこるとき。それを受け取るのか、受け取らないのか。
迷うけど、やっぱりやってみないとわからない、というのが、この星のルールだなと私は思っている。

翌朝、なんとか地下鉄、市バスで鞍馬寺に到着。

鞍馬寺のお使いは虎、狛犬でなく

わたし、今は広島県民だけど、元々関西出身で、大学とフルタイムで働いていた独身時代は主に京都にいた。

だから、Google先生に頼りきらなくても、こっちのルートがいいとか、土地勘あるから、なつかしさでいろいろ思い出しながら鞍馬への道を楽しんだ。

叡電に乗ったら、恵文社やホホホ座っていう素敵な本屋や、一緒にコミュニティでコローレという自主制作雑誌を作った仲間の鍼灸師のゆにさん、寄り道したいとこをいろいろ追加で思い出したけど、、また次回だね!

さて、鞍馬寺。
今まであんまり知らなかったけれど、平安王朝に仕える、女流文学者も多く訪れ、枕草子や源氏物語にも描かれていました。

遮那王(幼名牛若丸、のちの源義経)は、7歳のときに、鞍馬寺に預けられ、16歳の頃下山し、平泉へ向かう。遮那王の遮那とは、毘盧遮那如来から来ていて、太陽のようにすべてを照らし、仏を統括する、大日如来。

中学時代、くらいかな、高河ゆんっていう漫画家さんが大好きで、高河ゆんの「源氏」という漫画も好きだった。

わたしにとって暗黒の中学時代wは、アニメ雑誌買ったり、漫画家にもなりたかったけど、父親に、八百屋と結婚するのかと反対された。どんな論理でそうなるかな笑、って当時はそんなことももちろん親に言い返せなかった。わたしは母方のおじいちゃんが大好きで、母はよく体調悪くなったり、いわゆる繊細なアーティスト系の人で、わたしもしょっちゅうお腹が痛くなって、おばあちゃんに梅肉エキスをオブラートに包んで飲まされたりして、おじいちゃんちに送り込まれた。

 ちなみに今の若い人はオブラートとか知らないよね?「オブラートに包んだような」という比喩が、実感としてわかるのは、何歳以上の人なんだろうね。この前500円札だしたら、えっ、これなんですかって若い方に驚かれたって、また脱線してる!

おじいちゃんは、新聞記者時代は大酒飲みで、「××新聞のやっさん」として、有名だったらしく、そのせいで晩年肝臓などの調子が悪くなり、わたしが中学のとき自宅で亡くなった。

おじいちゃんにまつわる話は書きだすと長いので。詳しくはこの記事を。

おじいちゃんはわたしが漫画の通信講座受けたいって言ったらお金出してくれたり、いつも応援してくれてたなぁ。

そうそう、晩年キリスト教徒になりそれまでの生活を一変させ改心したおじいちゃんが、亡くなる1年前に、イスラエルにツアーで聖地旅行へ行ったから、わたしもその後を追って、大学の夏休みに、イスラエルのエルサレムにあるキブツでボランティアという名で、1か月半ぐらい滞在した。

イスラエルのキブツ滞在記はこちら↓
(妄想ナビゲーターの時は違う名前でやってました)

そのとき、おじいちゃんが行ったであろうポイントを自分もめぐった。
ベツレヘムのキリスト生誕教会、ガリラヤ湖、死海、エルサレムの旧市街、紅海沿いのエイラット。

でも、これだけ近くまで行っておきながら、わたしはパレスチナ問題とかいま問題になっているガザ地区のことについて、あまり興味をもっていなかった。

また戦争やってる、なんで戦争を繰り返すのだろうと。

いつだって、戦争や紛争の犠牲になるのは、普通の市民、弱い立場にある人。なんかわたしにできることはないのか、せめて無関心でなく、そこに心を向け平和を願うくらいはできそう、今からでも。。。

鞍馬寺まで登る山道、いろんな人がそこを通る。小学校から来た遠足だったり、家族で観光したり、本気でお経を唱える巡礼者、いろんな種類の人が、それぞれの想いを持ちながら、同じ道をそれぞれの時間軸で歩く。

信じること、信条や宗教は、とても個人的なもの、と私は思っている。

先に歩いたであろう先人に思いを馳せながら、そして、またあとから来る人たちのことを思いながら、わたしは一人で自分のこころに向き合う。みんなで一緒に行くのでなく、ばらばらに、思い思いのその個人的な行為が好きなのだと思う。

だから、フェスやライブでみんなで集まって、何かをすることに、あこがれるけれど、好きな時に、好きなペースで、好きな思いを持ち、こうやって自由にひっそりと道を歩くのが、たぶん私は好き、なのだ。

それがわたしが巡礼に出る理由かもしれない。

また朝から長々と書いてしまいましたが、読んでくださってありがとうございます。

今日も良い一日を。

かやの。

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