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能動性と整理時間

 こんにちは。

 昨日は突然、古風な文体の記事を出してしまいすみません。ねこっちは愛読書の文体に影響を受けやすく、昨日は感情に任せて書いた結果、愛読書の影響を受けたあのような文体になってしまいました。今日は落ち着いて「です・ます調」で書きます。

 今日も昨日述べた「能動性」についてです。私にとって、「幸せ=能動的に生きること」だということは、昨日の記事に述べました。

 ところでその能動性とは何か、と問われると、それは困ってしまいます。今の私は、能動性を「能動性」よりも平易な言葉で語れません。これは私にとって、本能的なものだからです。

 私にとっての幸せが能動性である以上、私は能動性をなんとしてでも守らなくてはいけません。しかし、普通の生活をしていると、なかなか能動的に生活することができません。

 そこで今日は、普通の生活の中で、少しでも能動的に生活できる工夫について考えていこうと思います。


受動性と教育

 中学生のころ、私にとって「頭がいいこと」が自分のアイデンティティでした。学校の勉強をこなし、良い成績をおさめることがかっこいいことだと信じていました。

 学年1位の子が、先生から「あいつだけはるか遠くにいる」と言われていたことがあったのですが、その様子に「かっこいい」と憧れたものです。

 しかし、テストの点数や順位で測られることに慣れてしまうと、そのための勉強をするようになってしまい、学習した内容が自分に血肉になることはおろそかになってしまいます。

 私はよくライフハックの動画を見るのですが、そこで使われているほとんどのテクニックは「理科」で既習の内容です。しかし、自分の力でライフハックを思いついたことは今までほとんどありませんでした。これは、「理科」で習った内容が本当の意味で身についていないことを表しています。

 ただ授業とテストを受けて評価されるだけの教育では、本当の力はつかず、知識の吸収も受動的になってしまいます。教えてもらわなければできない人になってしまうのです。

 私はそれを恐れて、2019年から計60冊のノートに自分の考えたアイデアや数式を書いてきましたが、まだこの受動性から満足に抜け出た実感はありません。受動性から抜けるには、5年程度では足りないようです。

焦り

 先ほど、中学時は「頭がいい」と評価されることにただ憧れていたと述べました。しかし、それでは先人の知恵が本当に自分の血肉になることは見込めません。私は浪人の時にそれに気づき、「今後は自分が主体となって学問をやるのだ」と意気込むようになりました。

 しかし、大学に入っても、テストや課題に追われて勉強が満足にできません。自分の血肉にならない学びの意味を問い続けて休学しました(2020年)。

 休学中も、20冊ほどノートを使ってアイデアや数式を書きましたが、しっかりした論文のようになったものはそのうち3ページだけでした。その「論文」も、『凸領域におけるCUGの一意性』という、私オリジナルの、何の役にも立たない概念に関するものでした(CUGは造語です。機会があればまた説明します)。

 「自分には、能動的に学問をする能力はないのか?」そうした問いに今でも悩むことはあります。しかしここまでやってきて才能論にすがるのは嫌なので、私はこれからもあきらめずに淡々とやっていこうと思っています。

 私は「CUG」のような役立たずのことを考えるのに、教授陣は「ひも理論」「エフィモフ効果」などの最先端の物理学で研究している。それを見ると出てくるのは、次のような焦りです。

 自分がかろうじて持っている能動性も、いつか大学の教務システム(単位、卒業研究など)や社会から求められる生産性に吸収されて消えてしまい、こんなに能動的になろうと抗ったのにそれは無に帰されてしまうのではないか?その前に自分に力で成果を残せる人にならねば・・・・

 発見や創造をして、能動的に人生を切り拓きたい私ですが、それには「待つこと」が必要不可欠です。上の「CUG」の例で述べたように、ノート20冊の計算がようやく3ページの「論文」になるのです。つまり比率は0.25%です。これが私に最適な比率なのです。それ以外の99.75%は、CUGの論文ができるために計算したりアイデアを巡らせたりして待っていた時間でした。

 しかし、レポートや試験に追われると待つことすらできなくなってしまいます。待たずして出てきた陳腐なアイデアや、その場しのぎでネットを参考にしてまとめ上げた考えを書くと、単位がきて評価されます。確かに成績は良好なのですが、これが私のしてきた学びなのかと言われると、首をかしげざるを得ません。

 自分の中の創造を育てるには待つことが必要なのに、待つ暇がない日々の生活で待てずに時間が過ぎてしまう。どうすればいいのか、と考えました。

分ける

 そこで考えたのが、「分ける」ということです。

 中学や高校などの学校には、「制服」があることと思います。「学ラン」や「セーラー服」といわれるものですね。この発想を、上記の焦りの解消に使います。

 まず、学問をやる主体としての私を、「探究人」と「単位人」に分けます。「探究人」は、今まで通り0.25%の比率で成果を出す、ゆったりとした自分です。一方「単位人」は、学校の課題をこなす自分です。

 そしてこの2つを分けた以上、これらを絶対に混同しないことに気を付けます。こうすることで、学問を究める自分と単位をとる自分を別にし、それまで「単位のための勉強に、やりたいことまで吸収されてしまうのではないか」と焦っていた悩みを消せます。

 言ってしまえば私服の自分が「探究人」で、制服を着た自分が「単位人」というわけですね。そして、制服で遊びに行かないのと同じように、単位人の発想を探究人の自分に持ち込まないようにすることで、探究人のやりたい活動を邪魔されないようにします

 こうして考え方を整わせたら、次にやるのはこれを現実に落とし込む作業です。

整理時間

 子どものころ、「やりたいことは時間を決めてやりなさい」と注意された人もいることと思います。するとやりたいことは決められた時間で行うので、あまり集中できません。

 一方次のような場合はどうでしょうか。

 「やるべきことは、時間を決めてやりなさい。」

 このように注意された人はほとんどいないと思います。宿題などが、もしその時間に終わらなければ困ってしまうからですね。しかし、現実的にはこちらの方がよいのではないかと思います。

 理由は単純で、後の時間を全てやりたいことに費やせるからです。さらに、やるべきことの時間を決めるほうが、あとの自由時間にそれらを思い出してクヨクヨすることもなく、すっきりします

 そこでこの発想を使って上記の「探究人」と「単位人」を現実に落とし込みます。まず、単位人のやるべきことの時間を決めます。具体的には、レポート課題や試験対策はやる時間と日にちを厳格に決め、その時間に終わらせるようにあらゆる手段を活用します。第4クォーターの実験レポートは、こうしてすべてこなしました。

 もし時間内に終わらなかった時のために、予備の時間を設けるとなおよいでしょう。

 単位人のやるべきことが終わったら、後は探究人のやりたい放題です。今の私は熱力学にはまっているので、最近は自由時間に熱力学のテキストを読んでいます。

 しかし好きなことを際限なくしていては方向性を見失ってしまい、自分のやっていることが見当違いだった場合は困ってしまいます。そこで、「整理時間」という時間を別に設け、自分の直近1週間の指針を見直したり決めたりします。

 整理時間は、1回に30分~1時間ほどとっています。この間に読書で学んだことの整理や事務手続きもします。そして、整理時間は週に2、3回ほどで今のところは十分です。

 この「整理時間」のイメージは、各国の首脳たちが集まって行う国際会議のようなものです。「自分」という世界のこれからを見直し、そして今後を決める大事な時間です。メンバーは私1人、ときには母の2人、多い時は父や弟もいますが、この間に「注意しなければいけないことまとめノート」というノートに様々なことを書き込み、自分を整理します。

 まさに「やるべきことは時間を決めて行う」のです。こうすることであとの時間を「待つこと」に使えます。

最後に・能動的に生きるヒント

 今日は以下に能動的に生活するか、というテーマで、悩みや焦り、そこから考えた「分ける」発想や整理時間の概念を見てきました。今、熱力学の探究学習が1か月程度安定して続けられているのは、この整理時間のサイクルを春休みに本格的に導入したからだと思います。

 教育が受動性に一役買っていることは前半で述べましたが、言い換えれば「淡々と授業や課題をこなす」というこの教育のシステムは何かを続ける上ではやりやすいやり方だということです。毎日、何の疑いもなく決まったことをするのは、物事を継続する強力な力になり得るのです

 普段の自由時間に、何の疑いもなく決まったことを続け、気づいたら高い自分に成長していた、ということが実現できるような生活を考えるのが、My国際会議である「整理時間」だと思います。この春休みの残りの時間で、整理時間をより確かなものにし、整理時間自体もレベルアップしていければと思います。

 今日は落ち着いて「です・ます調」の記事が書けて安心しました。最後までお読みくださり、ありがとうございました。

  ねこっち

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