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拝啓 二十歳の君へ

二十歳の誕生日、おめでとう。

君は朝イチで友達との誕生日パーティーの写真を送ってくれたね。二十歳の記念すべき日を共に祝ってくれる友達がいることは本当に素晴らしいことだ。

二十歳になったこの日に、君に面と向かっておめでとうを言えないのは少し寂しいけれど、君が友達と楽しそうにしている姿を見て、それだけで嬉しい気持ちになれたよ。

成人年齢は18歳になったけど、やはり二十歳というのは意味がある節目だと思う。親として感慨深いもがあるよ。



君が二十歳になる。

そんな日がいつかはくるとわかっていたけど、本当にくるなんて思っていなかった。


君は、随分臆病な子供だった。慎重といったほうがいいのかもしれない。

子供は無邪気に、不注意に走り回って危ない目に遭うものだと思っていた。僕もそうだったし、まわりの連中もそうだったからだ。

何かに夢中になって道路に飛び出しそうになって、親御さんが慌てて手を引っ張る光景を何度見ただろう。子供は飛び出すものであり、危険なところにふらふらと近づいていく生き物だと思っていた。

でも、君は違った。とてもとてもおとなしかった。慎重だった。

君は初めての子だったから、とても意外だったのを覚えている。

家の前にある側溝ですら、こわいといって近づかないことがあった。特に身体の危険をともなうと予想されるものについて、相当に慎重な姿勢があった。

女の子だから、余計にそうなのかもしれない。でも、妹は「目を瞑って全力疾走する」タイプだったから、それは君の資質だと思う。

あまりにも臆病すぎるんじゃないかと少し心配したけど、こっちとしてはとても安心できた。なにせ危険なところには近づかないのだから心労はずいぶんと少なくなる。


君は頑固な一面はあったけど、とてもおとなしく、そのおとなしさが善きものとして家族に作用していたと思う。

君には、反抗期がなかった。

君がお母さんと喧嘩したところを見たことがない。君はお母さんを深く信頼し、決して酷い言葉をかけることをしなかった。言葉では茶化したりしていたけど、親に対する敬意というものが根っこにあることを感じていた。そんなことを教えたこともないのに。

君は、自分の担いに真面目に向き合っていた。

学校を休みたくない。勉強をしっかりやりたい。困難なものからさっさと逃げることをせず、向き合う姿勢があった。一方で、自分のキャパシティを客観的に見る姿勢があったから、部活のマネージャーを途中でやめるなど、取捨選択をする決断力もあった。それは自分がやるべきことに向かい合うことが誠意だとの信念を感じさせた。

君は、流されなかった。

周りに流されることなく、自分の感覚と判断を信じていた。「人は人、自分は自分」であるとの信念。これはお母さんから受け継いだものだろう。人生を幸せに生きる上でとても重要な資質を備えていることに、僕はとても安心していたよ。


君から感じた素晴らしいもの。それらが僕やお母さんからの教育の賜物だとは思わない。僕たち夫婦は教育熱心では決してなかったからだ。いや、教育にあまり興味がないといってもいいかもしれない。

「子供といえど他人。彼らは彼らで生きていく」

そんなポリシーが、僕たち夫婦の間にはあったように感じる。

いまだからいうけど、君や妹の教育方針について夫婦で話し合ったことはない。一度もない。君たちは、とても自然な流れの中で育てられたんだ。手を抜いた?その答えは言わないでおこう。

僕たち夫婦は、日々の生きる姿を見せることを教育とした。カッコよくいえばそうなる。

普通の人間として、穏やかな日々を作り上げること。

普通の生活を、維持していくこと。

そんな家庭にしていこうという話し合いは、僕ら夫婦のあいだで一度もしたことはない。けど、自然とそうなった。

いや、自然じゃない。お互いが「それがいい」と感じあってそうなったんだ。

お互いが感じ合う。

大人になる君に、そのことを伝えたい。




「大人と子供を決定的に分けるものは、一体なんだろう」

僕が二十歳の学生のころ、そんなことを考えていた。

二十歳に達したら大人の扱いになるが、それは時間経過によるシフトであり、何の能力の検査も行われない。そのことに違和感があった。どんなアホでも、どんな天才でも二十歳で大人になる。どう考えてもおかしな話に感じる。

「あるべき大人」の基準は別にあり、それに達しているかどうかで大人かどうか決まるのではないか。誰から見ても「真に大人である」という基準は何か? そんなことを考えていた。

今から思えばどうしようもない問いだ。そんなことを考える時間があったら本を読んだほうが早い。若い僕は、自分の思考に耽ることに陶酔していた。

社会人になれば大人なのか?
納税すれば大人なのか?
結婚すれば大人なのか?
自立すれば大人なのか?

さまざまなケースを想像するが、どうも芯を食ったような気がしない。そのうちに、考えるのをやめてしまった。

でも、いまならわかる。明確に提示できる。

大人と子供を分けるもの。

君は何だと思うだろうか。



大前提として、人はひとりでは生きていけない。

これは説明するまでもないだろう。実際に君は二十歳の誕生日を友達と楽しく過ごした。その幸福感は友達がいたからこそのものだ。ひとりで過ごす場合と比較したら、幸福度は天地ほどの差があるはずだ。

また、写真に写っていた「20」のバルーン、かわいいドーナツとケーキ、ド派手なメガネ、君の楽しい時間を彩るモノたちは、君が作ったモノじゃない。誰かが企画し、資金を投じ、生産し、流通に乗せ、店に陳列したから君の部屋に到達した。その全ての工程に他者がいる。

他者がいてくれるから、自分はいまここで人間らしく生きていられる。

これはすぐ理解できるだろう。とても論理的な話だ。

でも、自分を幸せにしてくれる他者に対し、どれだけの恩返しができているのか?

起点とすべきものは、ここにあるんだ。

他者からの働きかけを「ありがたい」と感じ、受けた恩を返したいと願う。

「恩を返す」これがベースだ。

でも、恩を返すタイミングというのはなかなかやってこない。恩を受けてすぐ報恩できるのは稀だ。だから、受けた恩を忘れないことが重要になる。

人間というのは受けた「恨み」は忘れないようにできているけど、「恩」は忘れやすくできている。

恨みの対象は敵であり、敵を忘れることは生命の危機に直結するからだろう。恩返しはそれだけ見れば持ち出しだから、忘れやすくなっているかもしれない。

だから、恩は意識的に覚えておくようにしなければならない。

どんな恩を受けたのか? その恩は返せているのか?

日頃から常にその意識を持たないと、恩は道端の枯れ葉のようにどこかへ舞って飛んでいく。

「恩を忘れない」これが日々の姿勢になる。

恩を忘れず、恩を返す。

シンプルにいえばこうなるが、これがなかなかに難しい。

適切に恩を返すには、相手を理解することが必要だからだ。


相手に喜んでいただき、相手に「ありがたい」と感じてもらわなければ恩返しにはならない。

例えば、甘いものが苦手な人に恩返しとしてケーキを渡したとしよう。それは相手の心に届くだろうか? 「気持ちは嬉しいけど…」止まりのはずだ。

もしこの場合に、相手が「こいつは私が甘いものを苦手って知っているはず」と思っていたらどうだろう。このケーキは恩返しどころか嫌がらせにしか見えないはずだ。

いくら君がケーキが好きでも、相手が嫌いなら送るべきではない。

恩返しを「恩返し」として成立させる権利は、相手にしかない。

これをどうか忘れないで欲しい。

自分基準の恩返しなんの意味もない。それはもはや不義理になってしまう。

では、適切に恩返しをするために必要なものはなにか?

それは、相手への想像力なんだ。


恩を受けてから、いや、恩を受ける前から、日頃関係性を持っている人を観察する。理解しようとする。日々のそんな姿勢が必要なんだ。

もちろん他者を理解し切ることはできない。人間は自分ですら理解しきれない生き物だから、別の個体を理解できるわけがない。だから、理解しきれるとは思ってはいけない。

「なら、相手を理解しようとするだけ無駄なんじゃないの?」

君はそう言うかもしれない。

でも、それは間違っている。

人の心に届くのは「自分を理解してくれている」という事実なんかじゃない。「自分を理解しようとしてくれている」という姿勢なんだ。

人生という限りある時間をつかって、自分を理解しようとしてくれたという事実にこそ、人の心は震える。

結果ではなく、自分のために時間を使って考えてくれた行為に、人は感動するんだ。

そのとき、心のそこから「ありがたい」と感じる。恩をいただいたと感じる。

人を心からあたためるのは、品物でも食事でも言葉でもない。それらの裏にある「自分のことを考えてくれた」という過程なんだ。


恩返しは、相手を理解しようとすることを諦めないところから始まる。恩返しとして渡すものは実はどうでもいい。

相手をどこまでも理解し、感じようとする。それが双方向で発生する。それこそが、本当に価値ある人間関係だ。

大人とは、それにちゃんと価値があると理解し、実践できる人なんだ。

そんな大人同士の間に、幼稚ないざこざなど起こるわけがない。

お互いが相手のことを考え、行動することを繰り返すうちに、お互いがかけがえのない存在だと認識し合う。

「お互いが感じあう」。冒頭で僕はそれを君に伝えたいといった。

それは、そういうことなんだ。



大人とは、周りの人たちに思いをめぐらせる人だ。逆にいえば、子供にはそれができない。

君は、日々恩をいただいて生きている。

毎日顔を合わせて笑い合う友人
通う大学の職員さん
利用する駅の職員さん
買い物をするドラッグストアの店員さん

おおよそ、人が介在しないサービスは存在しない。そんな方々があって、君は二十歳の日を迎えている。

感謝しよう。そして、せめて近くにいる人たちに恩を返していこう。そのためには、相手を理解しようとしなければならない。

相手に寄り添おう。うまくできないかもしれないけど、諦めてはいけない。理解しようとする姿勢こそが、相手をあたためるのだから。


これからの君が、多くの人の心をあたためることをお父さんは祈っている。

心配しなくてもい、もう君はお父さんやお母さんの心を十分温めてくれたから。君は間違った方向には行っていない。真っ直ぐに、進んでほしい。

君は「育ててくれてありがとう」といった。

それは間違っているよ。お礼を言いたいのはこっちなんだ。

喜びをくれてありがとう。

お父さんを君の親にしてくれて、ありがとう。

お父さんが君のそばで、君の人生を見続けることはおそらくないだろう。

君は、自分の人生を自分で考えながら歩いていく。

大人になっていく。

どんな人生になるのだろう。それは、もうお父さんにはわからない。

君が、拓いていくのだから。





最愛の娘よ。

どうか、誰かの人生の助けになってほしい。

人生の喜びは、そこにあるのだから。

どうか、誰かから照らされ、誰かを照らす人生を。

そして、お父さんとお母さんの人生を照らしてくれてありがとう。

辛かったら、いつでも帰っておいでね。


お父さんより








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